城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

狼の義ー新犬養木堂伝を読む 22.9.4 

2022-09-04 19:52:18 | 面白い本はないか
 8月10日NHKBSプレミアムで再放送された昭和の選択「立憲政治を守れ!犬養毅"憲政の神様”の闘い」を見ていた時、出演者に堀川惠子さんが出ていた。「狼の義ー新犬養木堂伝」の作者という紹介だったが、検索すると数々のドキュメンタリー賞を受けていた。どの作品も読んでいない。そこでまずは、この木堂伝から読んでみることにした。県図書館で借りてみると、分厚く470ページもあった。読むのが遅いので、少々時間はかかったものの本日読み終わった。まずは、あとがきを読んでみた。この本は、林新と堀川惠子の共著となっているので、このような伝記物で共著というのはあまり見たことがなかったのだが、あとがきにそのわけが書かれていた。二人は夫婦であり、林氏が10年あまり資料を集めて書き始めたのだが、半ばで病に倒れ、その遺言で堀川氏が書き継ぐことになった。


 あとがきでこの本に込めた思いを書いているので引用する。本書の執筆は、犬養と古島(古島一雄 私も今回初めて知ることになったジャーナリストで、後に衆議院議員になった。犬養を支えた人物である。政界を引退してからも吉田総理の指南役として活躍した。)の二人を通して、近代日本における立憲政治の中で本当の保守とは何か、真のリベラルとは名何かという問いを突き詰める旅となった。昨今、政党政治は混迷の度をいよいよ深め、犬養が何より大切にした政治家の倫理も崩壊の危機に瀕している。私欲を排し、国家の行く末を真剣に考え、命を削る覚悟で政界を生きている政治家は、果たして何人いるでしょうか。

 この本は、とっつきにくいこの時代(明治から昭和)をよりわかりやすくするために、小説的な方法で書かれている。このおかげで大部であるにもかかわらず、読みやすい本となっている。この本は、昭和27年米寿となった古島を祝う席で犬養について思い出を語るという形式で始まる。犬養は、慶應義塾に通っていたのだが、実家が貧しく、郵便報知新聞に原稿を寄せて学費を稼いでいた。そのとき勃発した西南戦争に文章がうまいからということで、アルバイトながら戦地に放り込んだ。今なら従軍記者と呼ばれるのだが、当時は「戦地探偵人」、他の新聞社の記者は後方で記事を書いていたのに対し、犬養は泥んこになりながらも前戦から記事を送り続け、これが民衆の間で大評判となった。この戦場で出会った将軍たち、三浦梧楼(駐韓公使として閔妃暗殺に関わったくらいしか知らないのだが、山県ぎらいであり、なかなか骨太の人物)や谷干城について詳しく書かれている。西郷隆盛への思い断ちがたく、後年隆盛の墓を訪れている。

 明治23年(1890年)にいよいよ帝国議会が創設され、政党を中心とした政治が動き出す。大隈重信を代表とする改進党に犬養は加わる。一方の自由党は板垣退助。この民選がわの両党と政府との闘いは激しい。どちらにも議会政治というものが理解出来ていないから、政府による買収、院外団の壮士による暴力など日常であった。改進党は、進歩党、憲政本党、国民党、革新倶楽部と名前を変えていくが、ほとんどは万年野党の地位にあり、指導者の犬養の金銭に潔癖、信念に忠実ということが災いして所属する議員も少数。政友会との合同では、木堂が貧乏に耐えかねて変節した、あるいは政友会から金をもらい党(革新倶楽部)を売ったと批判された。この合同のあと犬養と古島は政友会を去るのだが、総裁の田中義一が亡くなったことから、犬養にお鉢が回ってくる。このとき犬養74歳。そして若槻内閣の後継として犬養に大命が下る。早速中華民国に密使を派遣する(亡命中の孫文と深く関わった)が、軍部及び軍部寄りの外務省に阻まれ、関係回復はできなかった。満州国の承認を認めず、軍と対立し、1932年5月15日5・15事件で暗殺された。この後、政党政治が復活することはなかった。

 犬養はいつも高利貸しに追われていた。自分のためではなく人のために使った金のためである。藩閥の中心にいた山県や伊藤などの門をくぐったことはない。犬養の天敵となった原敬とはこの点大きく違う。原は山県とうまくつきあいながら政友会を大きくした。こうした芸当を犬養はできなかった。借家生活から抜け出したのは、70歳に成り、勲一等旭日大綬章を受け、終身大臣待遇となり、740円の年金が支給されるようになり、初めて自分の家を建てた。最後に関わりのあった重要な人物として、井上毅(こわし)と植原悦二郎をあげよう。井上からは密偵を送られ、その行動が逐一井上に報告されていた。井上は帝国憲法、皇室典範、教育勅語、軍人勅諭にかかわった。しかし、頑迷な国家主義者ではなく、ドイツ式の立憲体制を志向した。植原は、明治大学教授などを経て、犬養に心服して、政界に入り、戦中は東条英樹に非戦論を説くなどして、冷や飯を食ったが戦後吉田内閣で日本国憲法の制定に深く関わった。

 以下はおまけ。戦前、国葬となった人物で皇族や旧藩主以外を列記してみる。さらに出身の藩、死亡理由等を括弧書きで示す。
 ◯大久保利通 (薩摩藩、暗殺)
 ◯岩倉具視  (公家)
 ◯三条実身  (公家)
 ◯伊藤博文  (長州藩、暗殺)
 ◯大山巌   (薩摩藩、陸軍大将)
 ◯山県有朋  (長州藩、元老)
 ◯松方正義  (薩摩藩、元老)
 ◯東郷平八郎 (薩摩藩、海軍大将)
 ◯西園寺公望 (公家、元老)
 ◯山本五十六 (長岡藩、海軍大将)
 そして戦後、吉田茂と安倍晋三(予定)である。吉田茂の国葬を決めたのは佐藤栄作、吉田は妻の父が牧野伸顕(その父が大久保利通)であるから長州と薩摩両方と関係が深い。阿部晋三はもちろん長州である。戦前、戦後を通して、藩閥政治は今も生きていると思ってしまうのである。ただし、国葬とはなっていないのだが、国費が支出されているものが意外と多い。

 戦後のことなどで犬養の他に現職中に暗殺された原敬、浜口雄幸はいない。藩閥政治の時代とはいえ、安部さんには悪いが、政治家の資質を考えた場合、随分不公平だと思わず思ってしまう。 

 


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