城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

昔学校の先生は偉かった 20.3.12

2020-03-12 19:43:43 | 面白い本はないか
 我が家は小学校に隣接しているので、夜遅くまで学校の教室の明かりが付いているのを見るし、運動会シーズンでは長い時間実に賑やかになる。教員が随分忙しくなっているらしいことがわかる(それでも子どもに向き合う時間は減り、事務作業に忙しいとの声は聞く)(教員の場合、残業しても特別手当という定額の額以外の額を受け取ることはない。ある意味「ブラック職場」と言えないこともない。また、中学校では部活というそもそも勤務とならない仕事もある。)一方の運動会については、私は何故ここまで本番に備えて練習を繰り返すのかが理解出来ない。確かに、規律のある運動会にするため練習を繰り返すのだろう。何故ここまでして子ども達を枠の中に入れようとするのか。少々乱れている方が良いとも思うが。保育園での話だが、入園前あるいは直後の子どもは、与えられた自分の席に一時も座ってなどいない。それが、次第に落ち着いてきて、先生の指示にも従うようになる。私の例を出すと、一年生の頃席にじっと座っていることができなくて、よく脱走をしていたようである。それでも学年が進むと落ち着いてきて、振るわなかった成績も人並み以上となってきた。こうした学校のあり方になじむことができない子どもは学校嫌いとなる。

 学校あるいは教育を取り巻く環境はめまぐるしく変わっている。ゆとり教育からの揺り戻し、学力テストの悉皆化、小学校での英語、そして道徳の教科化、教育委員会の力を弱めて首長の権限を強化したことなど。そして、親の先生に対する態度も大きく変わってた。私の親は高等小学校卒、先生は大学又は短大卒(師範学校というのもあった)だったから、親は先生に最大限の敬意を払っていた。できの悪い息子のために盆暮れの贈り物をしていた。しかし、今やかなりの親が先生と同等かあるいはそれ以上の学歴を持つ。おまけに、資本主義の中で教育を商品、サービスと同じものと考えてしまう。教育の難しさは、短期的には本当の評価ができないところにある。もちろん、塾のように短期に成績の向上を目指すところもあるが(アメリカのチャータースクールは、テストにより学校の評価をする。まるで塾同士で競争している状態。)

 少し前書きが長くなってしまった。今日紹介するのは鈴木大裕著「崩壊するアメリカの公教育ー日本への警告」。私たちが描くアメリカの教育は、生徒の個性に合わせてそれを伸ばし、暗記中心ではなく考えさせる教育といったイメージ。ところが、貧しい地区を中心に新自由主義の嵐が吹き荒れ、頻繁なテストの結果により、低学力の学校は廃校となり、かわりに公設民営のチャータースクールに再編される。この過程で教員はより低賃金化されるか、無資格の教員の導入がなされる。結果、民間の教育産業だけが懐を肥やしている。普通に考えれば、低学力の地区はその学校の先生に問題があるというよりもむしろまわりの環境特に家庭に問題があるということになる。大阪の学校が低学力だということでその学校の責任を問うということをいった馬鹿殿がいた。しかし、大阪の低学力はこの地区に生活保護の家庭が多いという事実と密接に結びつく。

 アメリカという国はレーガン以来新自由主義を信奉する国になった(その周回遅れを日本がついていく)。首長権限を強化し、教育委員会の形骸化を図った。その上で市場型の学校選択制を導入した(これは日本でも起こっている)。ジョージ・ブッシュ大統領の時に「落ちこぼれ防止法」が成立し、学力基準に到達しない学校への制裁を義務づけた。その結果、裕福な住民が住むところの学校と貧しい住民が住むところの学校との間に絶望的な格差ができた。これは医療格差と同様でアメリカの中に最先端と低開発国のような状況が同居することとなった。

 現政権はこうしたアメリカの弊害を知っているはずなのに、新自由主義に基づく改革をしようとしている。日本は先進国としては公教育に費やす予算が最低となっている。こんな状態で奮闘している先生達にもっと敬意を払うべきだと思うのだが。最後に著者が書いていることをそのまま引用する。「日本がどれだけ小さいか、そしてその文化がどれだけ豊かで特異なものなのかは、世界に出た者でしかわからないのではないだろうか。(中略)私のアメリカ生活は今年で15年になる。その間、他国へ赴き、文化も言葉も異なる様々な人々とふれあったが、そんな中で私が発見したのは、もしかしたら、「日本」だったのかもしれない。私は強く願っている。日本には経済競争のためのグローバルスタンダードに合わせるのではなく、それに対抗しうる新しい「成功」や「幸せの形を打ち出すことによって、グローバル・スタンダードに疑問を投げかける存在であって欲しい。」

 自民党は一応「保守」政党であるのだから、なんでも改革、改革といっていること自体奇妙奇天烈な珍事なはずだ。改革により大企業ばかりが恩恵を受け、その過程で一般庶民が置き去りにされる。いいかげんに我々も「改革」念仏教から目を覚まさないといけない。




 

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