山に登ったりしていると時々巨大な木に遭遇する。人間よりはるかに長い時を生きる木に対して、神々しさ、神聖さを感じることが多い。その近くにはときにお社があったりする。大きな木は神の依り代、霊ある存在として地元の信仰を集めていることが多い。
これは先日登った福井県大野市の姥ヶ岳の登山口近くの大栃の木 そばにお社があった
石徹白の大杉 2018年10月
戸隠神社奥社の杉並木 2013年6月
みなさんはレバノン杉というのをご存じだろうか。樹高が40m、径が1.5mに達し、古代船を作る材料として伐り出され、今や少数が残るだけとなっている。このレバノン杉の伐採は、ギルガメッシュの神話となっている。森の神であるフンババと青銅の武器を持つギルガメッシュが対決し、ギルガメッシュが勝ち、人類が森林破壊への文明の道を選択したという話でBC2600年頃とされる。この森林破壊により、たびたび大洪水が起こり、メソポタミア文明は崩壊したとも言われる。
ここからは森林、その中にあった巨木と建築の歴史について紹介する。まずは、海野聡著「森と木と建築の日本史」(岩波新書)から。日本は古くから巨木を使った建築物の歴史を持っている。縄文時代中期の三内丸山遺跡では栗の巨木が登場する。時代が下って6世紀になると大陸から仏教が伝わってきて、飛鳥時代には法隆寺(607年創建)、奈良時代には東大寺(751年創建)、薬師寺、そして日本全国につくられた国分寺などの造営、さらには藤原京、平城京、平安京など都の建設に大量の木材が使われた。最初のうちは飛鳥周辺、そして畿内であったものが資源=巨木がなくなり、調達先として徐々に全国に広がっていったのである。中でも桧は大型の建築物の用材として最も需要が多かった。法隆寺の昭和の大修理(1934年~1954年)にはその修復に必要な桧の用材は日本国内にはなく、当時植民地であった台湾から調達しなければならなかった(薬師寺の大修理にも台湾桧が使われた。現在保護のため国外への持ち出しはされていない。)。
用材の確保が全国に広がっていった 「森と木と建築の日本史」から
建築物等の造営には日本では主に木が用いられた。木には針葉樹と広葉樹があり、前者は軽くて、柔らかいので加工がしやすい。桧、杉、栂、赤松などである。桧は日本、台湾のみに分布し、福島を北限に九州まで生育する。後者は固くて重く、加工しにくいが強靱である。ケヤキ、栗、楠、ミズナラ等である。「日本書紀」には樹種選定について面白い記述がある。素戔嗚尊(すさのおのみこと)がひげを抜いて放つと杉の木になり、胸の毛は桧になり、尻の毛はマキ、眉の毛は楠になったという。そして、杉と楠は舟に、桧は宮殿に、マキは棺にするようにと言ったという。桧は寺社、宮殿を作るのに最も適した用材として特に需要が高かったというわけである。
木で作られた寺社などは戦乱などによる何回もの焼失の歴史を持っている。東大寺は1180年に焼失した。既に再建に必要な用材は機内にはなく、この事業の中心となった重源(ちょうげん)は周防の国(山口)で長さ21m~30m、太さ162cmの巨木の森をやっとのことで発見した。しかし、ここから奈良まで運ばなければならない。道を開き、橋を架け、そのための搬路を作ったのである。そして、現地に運び込む時に当時の政治指導者(この中には「鎌倉殿の13人」で悪役の後白河法皇もいた)ばかりでなく一般の民(伊勢神宮の式年遷宮と同じ)もその搬入に加わった。しかし、東大寺は1567年に再び焼失している。
伊勢神宮は20年に一度式年遷宮が行われている。この時必要な桧は一万本、もともと内宮も外宮もそのための御杣山(おそまやま)をその背後に持っている。しかし、平安時代には既に良材は枯渇していたという。美濃地方、現在では木曽の用材が使われている。諏訪大社の御柱祭も有名である。こちらは、樅の巨木であり、1950年の記録によると径1.3m、長さ16.5mである。この祭りで特に注目を集めるのが「木落し」である。巨木の運搬がいかに大変かを教えてくれる祭りとなっている。
海野聡氏の本を読んでいたら、急に書架にあった西岡常一・小原二朗「法隆寺を支えた木」(NHKブックス、1978年)を読みたくなった。1995年頃購入し、今回で読むのが3回目である。西岡常一という人物を知らない人もいると思うので、少し説明しておく。法隆寺の昭和の大修理、薬師寺の大修理にかかわった昭和の最後の宮大工である。おじさんがなぜこの人物に興味を持ったかは忘れてしまったが、弟子の小川三夫とともに書いた本「木のいのち木のこころ(天)、(地)、(人)}などもあわせて読んだ。今から考えるとこうした職人の世界にあこがれたのかもしれない(自分にはできないことを承知の上で)。
随分話があちこちしてわかりにくいと思う(書きたい気持ちばかりが先行しているから)。書けていないことを最後に書いておく。桧の優れているところは、樹齢千年以上のものは、伐り出されてからさらにそれ以上の年を生きぬき、びくともしないことである。このような用材は桧以外にはない。縄文時代から建築物は掘立柱式(地中に埋める、当然地上より早く腐るので、様々な工夫が施される)であったが、法隆寺は礎石式(土台となる石の上に柱が乗る方式で、土台と柱を連結する方式が主流となる(この方式しか建築基準法では認められていない)前はこれが主流だった。ご承知の方も多いと思うが、式年遷宮のお宮は掘立柱方式である。
他に興味深いこととして調達した用材を加工する道具の歴史である。伐り出された木材を加工するのはチョウナと呼ばれる道具でさらに仕上げはヤリガンナを使って行う。室町時代に縦挽き用の鋸と台鉋(だいかんな)が伝わってきた。それまで板をつくには楔を使った。一枚の板を作るのがいかに大変だったのか感じることができる。
チョウナ これを使って木を加工する模様がユーチューブにあるのにはびっくりした
最後に、雨宮国広著「ぼくは縄文大工ー石斧でつくる丸木舟と小屋」を昨日読んだ。世の中には随分変わったことをする人がいるということを知るにはベストな本だ。普通の大工→宮大工→縄文大工、研究熱心で体力と技術を持ち合わせていないとできない生活である。
これは先日登った福井県大野市の姥ヶ岳の登山口近くの大栃の木 そばにお社があった
石徹白の大杉 2018年10月
戸隠神社奥社の杉並木 2013年6月
みなさんはレバノン杉というのをご存じだろうか。樹高が40m、径が1.5mに達し、古代船を作る材料として伐り出され、今や少数が残るだけとなっている。このレバノン杉の伐採は、ギルガメッシュの神話となっている。森の神であるフンババと青銅の武器を持つギルガメッシュが対決し、ギルガメッシュが勝ち、人類が森林破壊への文明の道を選択したという話でBC2600年頃とされる。この森林破壊により、たびたび大洪水が起こり、メソポタミア文明は崩壊したとも言われる。
ここからは森林、その中にあった巨木と建築の歴史について紹介する。まずは、海野聡著「森と木と建築の日本史」(岩波新書)から。日本は古くから巨木を使った建築物の歴史を持っている。縄文時代中期の三内丸山遺跡では栗の巨木が登場する。時代が下って6世紀になると大陸から仏教が伝わってきて、飛鳥時代には法隆寺(607年創建)、奈良時代には東大寺(751年創建)、薬師寺、そして日本全国につくられた国分寺などの造営、さらには藤原京、平城京、平安京など都の建設に大量の木材が使われた。最初のうちは飛鳥周辺、そして畿内であったものが資源=巨木がなくなり、調達先として徐々に全国に広がっていったのである。中でも桧は大型の建築物の用材として最も需要が多かった。法隆寺の昭和の大修理(1934年~1954年)にはその修復に必要な桧の用材は日本国内にはなく、当時植民地であった台湾から調達しなければならなかった(薬師寺の大修理にも台湾桧が使われた。現在保護のため国外への持ち出しはされていない。)。
用材の確保が全国に広がっていった 「森と木と建築の日本史」から
建築物等の造営には日本では主に木が用いられた。木には針葉樹と広葉樹があり、前者は軽くて、柔らかいので加工がしやすい。桧、杉、栂、赤松などである。桧は日本、台湾のみに分布し、福島を北限に九州まで生育する。後者は固くて重く、加工しにくいが強靱である。ケヤキ、栗、楠、ミズナラ等である。「日本書紀」には樹種選定について面白い記述がある。素戔嗚尊(すさのおのみこと)がひげを抜いて放つと杉の木になり、胸の毛は桧になり、尻の毛はマキ、眉の毛は楠になったという。そして、杉と楠は舟に、桧は宮殿に、マキは棺にするようにと言ったという。桧は寺社、宮殿を作るのに最も適した用材として特に需要が高かったというわけである。
木で作られた寺社などは戦乱などによる何回もの焼失の歴史を持っている。東大寺は1180年に焼失した。既に再建に必要な用材は機内にはなく、この事業の中心となった重源(ちょうげん)は周防の国(山口)で長さ21m~30m、太さ162cmの巨木の森をやっとのことで発見した。しかし、ここから奈良まで運ばなければならない。道を開き、橋を架け、そのための搬路を作ったのである。そして、現地に運び込む時に当時の政治指導者(この中には「鎌倉殿の13人」で悪役の後白河法皇もいた)ばかりでなく一般の民(伊勢神宮の式年遷宮と同じ)もその搬入に加わった。しかし、東大寺は1567年に再び焼失している。
伊勢神宮は20年に一度式年遷宮が行われている。この時必要な桧は一万本、もともと内宮も外宮もそのための御杣山(おそまやま)をその背後に持っている。しかし、平安時代には既に良材は枯渇していたという。美濃地方、現在では木曽の用材が使われている。諏訪大社の御柱祭も有名である。こちらは、樅の巨木であり、1950年の記録によると径1.3m、長さ16.5mである。この祭りで特に注目を集めるのが「木落し」である。巨木の運搬がいかに大変かを教えてくれる祭りとなっている。
海野聡氏の本を読んでいたら、急に書架にあった西岡常一・小原二朗「法隆寺を支えた木」(NHKブックス、1978年)を読みたくなった。1995年頃購入し、今回で読むのが3回目である。西岡常一という人物を知らない人もいると思うので、少し説明しておく。法隆寺の昭和の大修理、薬師寺の大修理にかかわった昭和の最後の宮大工である。おじさんがなぜこの人物に興味を持ったかは忘れてしまったが、弟子の小川三夫とともに書いた本「木のいのち木のこころ(天)、(地)、(人)}などもあわせて読んだ。今から考えるとこうした職人の世界にあこがれたのかもしれない(自分にはできないことを承知の上で)。
随分話があちこちしてわかりにくいと思う(書きたい気持ちばかりが先行しているから)。書けていないことを最後に書いておく。桧の優れているところは、樹齢千年以上のものは、伐り出されてからさらにそれ以上の年を生きぬき、びくともしないことである。このような用材は桧以外にはない。縄文時代から建築物は掘立柱式(地中に埋める、当然地上より早く腐るので、様々な工夫が施される)であったが、法隆寺は礎石式(土台となる石の上に柱が乗る方式で、土台と柱を連結する方式が主流となる(この方式しか建築基準法では認められていない)前はこれが主流だった。ご承知の方も多いと思うが、式年遷宮のお宮は掘立柱方式である。
他に興味深いこととして調達した用材を加工する道具の歴史である。伐り出された木材を加工するのはチョウナと呼ばれる道具でさらに仕上げはヤリガンナを使って行う。室町時代に縦挽き用の鋸と台鉋(だいかんな)が伝わってきた。それまで板をつくには楔を使った。一枚の板を作るのがいかに大変だったのか感じることができる。
チョウナ これを使って木を加工する模様がユーチューブにあるのにはびっくりした
最後に、雨宮国広著「ぼくは縄文大工ー石斧でつくる丸木舟と小屋」を昨日読んだ。世の中には随分変わったことをする人がいるということを知るにはベストな本だ。普通の大工→宮大工→縄文大工、研究熱心で体力と技術を持ち合わせていないとできない生活である。
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