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城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

月1健康山歩クラブ9月例会・相戸岳 20.9.12

2020-09-12 19:34:00 | 山登り
 今日は、朝方雨が降ったにもかかわらず、次第に真夏のような天気となった。申し込んでいた月1健康山歩クラブ(以下「月1」という)の9月例会・相戸岳(671.7m)に参加した。本巣市役所前に集合した会員は30名弱、大変な盛況だ。さらにその中に今回初めての参加者4名(この会では最初の1年間は正式の会員ではなく、3月に出戻りのおじさんもそうである)も含まれる。

相戸岳は既に4回登っているのだが、たまには大勢で登るのも楽しいから参加している。一行は、道の駅ラステン洞戸の手前から相戸に入り、神社の前に車を停め、時計回り(西尾根から東尾根)に歩き出す。

 神社前に車を停め歩き出す(9:35)

の住民がその人数の多さに驚いた様子。やがて、草が刈られていない登山口に入り、沢を遡る。この辺では山ヒルへの注意が必要だ。そして、沢から尾根に取り付く。

 登山道入口(9:49) 

 展望が全く利かない登山道、樹林帯は入った時はひやりとしたくらいだったが、湿度が高いせいか、汗が噴き出してくる。

 尾根上で休憩(10:36)

大岩の手前から一層急な登り、このコース最大の傾斜。

 大岩(11:07)

 急な登り

ここを登り切ると稜線上のゆるやかな登りとなった。そしてすぐに山頂に到着、いつものように日の丸が揚がっていた。

 山頂
涼しいと思った山頂は残暑の日差しが一杯、しかも狭いので、山頂から10分ほど下った涼しい緩やかな尾根で昼食を取ることになった。この会は女性が多いので、休憩時や昼食時にはお菓子、果物などのお裾分けが回ってくる(男が多いとこういう訳にはいかない)。その後、比較的急な登山道を下る。道は雨に流され、緑の苔がはえている。これはスリップしやすいので、特に注意が必要。家屋の屋根が見えてくると、やがての道に飛び出す。神社前まで戻り、現地集合の方とはそこでお別れした。

 フィールドアクセス2の画面をスクリーンショット

 少し月1に加入した頃の話をする。当時代表者だったHさんは家内の上司であったことがあり、2011年にその会(HPによると設立は2004年)に加入した。最初が南宮山、その日は3月12日まだ東北大震災の被害の程度などわからない震災翌日。(襲ってくる津波の映像が現実離れをしていて、そこで被災された人たちを実際に感じることは難しかった。)その日にHさんから皆さんに紹介していただいた。当時は日本百名山(若いときにおよそ半分、アルプスを中心に登っていた)の残りをツアーで登り始めていたので、そのことについて自己紹介でしゃべったかもしれない。それからツアーの無いときは、月1に参加していた。例会がある第二土曜日以外にも山行があったり、ときにはワカンを使った雪山に登ることもあった。2013年2月の花房山(途中で撤退)では大垣山協のメンバー(そのときEさんがいた)と一緒だった。

 この会は、初心者や山を始めたばかりの人が加入してくる。街の山岳会のように会費や規則もなく、敷居は限りなく低いので、古い会員ばかりでなく新しい会員も多くいる。2014年に大垣山協に加入してから、月1の山行に参加しなくなった。昨年70歳という節目を迎えたので大垣山協を辞め、月1に出戻りしてきたわけである。このブログを見ている人で西濃地方に住んでいる人、さらに山が好きな方へのメッセージを最後に書いておく。もし、貴方が雪の山や沢登りや岩稜歩きをしたいのなら大垣山協を選択するのが良い。そのための講習会が開催されており、しかも会費さえ払えば無料である。一方、ハイキングあるいはそのプラスアルファくらい、あるいは登りながらのおしゃべりが大好きなかたは特に(笑い)月1をお薦めする。
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自然信仰・修験道 20.9.10

2020-09-10 17:56:06 | 面白い本はないか
 毎朝、仏壇にお仏飯をお供えし、さらに神棚にお水(1日、15日は洗った米と塩)を供える。お袋がやらなくなった後、おじさんの役割となった。お袋は仏壇で朝晩正信偈を読んでいたが、おじさんは「南無阿弥陀仏」なんまいだと唱えるのみである。だから、信仰心は厚くないといって良いだろう。お袋も仏壇に参ることができなくなり、その後は念仏すら唱えることもなくなった。実は地域で「先祖供養」なるものが開催されるようになった。その時は、少し違和感があった。先祖というのは各家庭の先祖、あるいは親類縁者毎にあるものだから、地域でやるのは少しおかしいのではないかと。第一、各家庭で宗派が違う。まさか、全ての宗派を網羅することなどできはしない。

 ところが、柳田国男が言うには、死後の霊=魂は自分が暮らしていた場所からそう遠くない山に還るとされてきた。山に還った霊は、自然の力を借りて生きていた間についた垢を取り除いていく。こうして清浄となった霊は自然と一体となって神=仏となり、子孫たちの世界を守っていく。この霊を人々は祖霊とかご先祖様と呼んだ。この祖霊は集合霊であり、自然と一体化した霊でもある。どれくらいで清浄になるのかというと、33年説と少数だが50年説がある。ここで法事のことを思った方がみえるとはずだが、家族がなくなり、33年経つとその人への供養=法事は区切りが付けられる。つまり、この33年は仏教から来るのではなくて、土着的な死生観がその基盤となっている。日本の葬儀には、仏教とは違う儀礼が多くある。

 今から40年以上前の9月、大峰山に2泊3日で出かけた。コースは天ヶ瀬から一ノ峠を経由し、弥山、八経ヶ岳、釈迦ヶ岳から前鬼に至る、大峰山の南半分を縦走した。ここは、大峯奥駈道となっているところだ。初日、天ヶ瀬への到着が遅れ、途中で日没となり、避難小屋に駆け込んだ。ところがそこには水がない。たまり水でなんとかその夜の食事を作り、翌朝は水なしで弥山でようやく水と食事ができた。奥駈道は吉野の金峯山寺を出発し、まず女人禁制の山上ヶ岳に登り、弥山から熊野本宮大社に至る道で、ここを6日間でめぐるものである。もちろん修行なので場所場所で祈祷などをする。

 奥駈道 「修験道という生き方」から転載

 上 釈迦ヶ岳山頂にて  下 前鬼宿坊にて

 この奥駈の歴史は古く、遠く600年代に遡る。当時役行者(えんのぎょうじゃ)あるいは役小角(えんのおつね)が吉野山中で修行し、過去救済の仏として釈迦如来、現世救済の仏として千手観音、未来救済の仏として弥勒菩薩を念じだし、この三体が融合した蔵王権現を感得したと言われる。この役行者が昔からあった自然信仰と渡来した仏教をまとめた修験道を始めたと言われる。第2節及びこれからは、宮城泰年・田中利典・内山節「修験道という生き方」によって書いていく。この修験道、鎌倉時代に各地の霊山が独自の組織を作り、江戸時代には村々や町々の人々の幅広い支持のもと、里修験や講を軸としたより大衆化された修験道を展開させた。しかし、明治の修験道廃止によって大きな打撃を受けた。修験道は権現思想という神仏混淆の世界であったため、この時に修験道関係の寺はお寺か神社に強制的に分けられた。日本の霊山はほとんどが権現信仰によるもので、吉野の蔵王権現、白山権現、羽黒山権現、富士山(浅間大菩薩という権現)、神でもあり仏でもあり、自然でもある祈りの対象が明治の神仏分離とともに廃止されていった。


 大衆が山に登るようになったのは、江戸時代の講から始まる。江戸中期になると庶民の暮らしにも余裕ができ、プロの修験者(山での修行を重ねながら、行った先の村々で人々の願いに応え、時に雨乞いをし、時に漢方薬や祈祷をとおして、病気を治し、時に各地の情報を伝えた)だけでなく、民衆自身も霊山に登って修行するようになった。修行に行く山と結んだ講という組織を作り、霊山には講の人たちが泊まる宿坊(その経営者が山伏で講の人を先導する役割)が整備されていった。講のメンバーは全員が揃って行く余裕はないので、お金を出し合い、その代表者が順番で山に行った。富士山に行く場合、講から一両、自前で一両(これは講の人へのお土産)を調達し、江戸からまず高尾山等々の霊山に登り、2日かけて富士山に登り、帰りには再び同じ霊山に登り、最後は丹沢の大山に登り、全行程一週間程度だった。今から考えると昔の人は大変な健脚だったことがわかる(おじさんなどは、あやかりたいと切に願うが)。

 現在奥駈は結構人気があるそうであるが、単なる登山でないことは頭に置いていく必要がある。普段山に登っても、ヤブ山が多いせいか、自然のすごさは感じても、信仰心を揺さぶられることはない。しかし、高野山を訪れたときなどは、その霊山に充ち満ちている霊力を少しは感じたものだった。日本の自然は変化が激しい(和辻哲郎「風土」)、四季の変化だけでなく、洪水、津波、噴火などが人々の生活基盤に大きな影響を与える。変化は受け入れるしかないものであり、受け入れてこそ再び立ち上がることができる。こうした精神があるからこそ修験道が生き続けている理由がある。

 以上、内山節の説くところにより長々と書いてきた。本職は哲学者であるけれども、様々な事柄について発言し続けているおじさんの大好きな思想家である。また、中日新聞にときどきコラムも書いている。是非、どれでも良いので読んで欲しい。 


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それぞれの故郷・門入滞在 20.9.6 

2020-09-06 19:50:39 | 山登り
 誰にも生まれた地、あるいは育った地というものがあり、そこに対する愛着は程度の差こそあれあるだろう。おじさんの孫は今タイに住んでいる、生まれたのは大垣とタイ、彼らにとって故郷はどこになるのであろうか。まさかタイとならないようには祈りたい。さて、9月5日と6日にわたり、ホハレ峠から門入を訪問してきた。迎えてくれるのはI氏、今回名前を出しても良いとI氏の代理人(?)Eさんから了解いただいたので、泉さん。その山荘におじさんも含め6人が泊まらせていただいて、大いに飲み、かつ語ろうとするのが今回の目的であった。今年は山荘の主、コロナの影響もあって、泉さんも2回目の滞在となる。泉さんを始め門入の住人は徳山ダムにより故郷を離れなければならなかった。こうした事情が余計に故郷への愛を強くするのかもしれない。仮に徳山ダムがなくて、ただ生活の不便さから住民が次第に生まれた土地を離れたとしたら愛着は少し異なるのかもしれない。おじさんのように生まれた地からほとんど離れたことがない者にとっては、愛着は少し薄くなる。

 現在85歳のIさん、実は3年前の訪問時にはホハレ峠に帰る時には、道々案内をしていただけたほどの健脚だった。もちろん現在もお元気で門入に入る手前の林道を今回われわれを迎えるために草刈り機で刈ってくださったほどである。そのIさんの語る門入の歴史、生い立ちなどはEさんが「奥揖斐山荘」のホハレ峠などですでに紹介しているので、興味ある人はご覧いただきたい。それとダブルかもしれないが、6日の朝におじさんが聞いたIさんの生まれた頃、小学生・中学生の頃の話をしたい。Iさんは3代目で、屋号は「すえじろ」。門入(旧徳山も?)の家はすべて屋号を持っている。おじさんの質問はなぜそれぞれの家が屋号を持っているのか。そうした疑問を持つのは、私の住むところでは商家かお金持ちでもなければ屋号を持つことはない。この質問はあとから考えればIさんには少し無理な質問であった。他の地域の事情を知らないことには疑問自体を持つことはできないからである。

 Iさんの両親は、父親が半反の田、母親が親からもらった半反の田で出発し、父親の頑張りにより6反くらいまで田を増やした。少ない田を補うため、焼き畑を行い、稗、粟、小豆などを7年ほど作った。焼き畑に関する技術は高く、田を多く所有する家には真似できないくらい(焼き畑をつくる必要が小さかったのが理由だが)だった。それでも家は貧しく、女が続いた後、最後に生まれたIさんは、母親の配慮もあり、当時稗粟混じりのご飯も少しお米を多く食べることができ、姉たちの嫉妬をかったほどだった。小学校の入学時にはよその子どもが金ボタンの服を着ていたが、Iさんは絣の着物に帯びという服装だった。けれどもそれについて少しも恥ずかしいと思ったことはなく、きっといつかは豊になってやるという気持ちを持っていた。戸入(門入の倍の戸数があった)にあった小学校・中学校分校までの道7kmを朝6時に起き通った。これで随分足が強くなった。Iさんの父親は銘板となる木を見分けることができ、それを加工し、ホハレ峠を越えて搬出していた。その加工は田んぼ仕事が終わった後から始め、Iさんも随分手伝った。そのおかげで田を増やし、ホハレ峠を越えて売りに来る肉屋からは他の人が驚くような肉を買うことができた。

 以上が短い間にIさんから聞き取った話である。耳が遠く、目の前で話さないと会話にならない。しかし、その口から出てくる言葉はまさしく珠玉のようであった。昔の話をする時のIさんの顔、目は輝いていた。いつまでもお元気でこの山荘の主であることを願うばかりである。帰り際、われわれにいつまでも手を振る姿は、ひょっとしたら多くの人々を送ってきた人の姿であるだろうと思った。

 以下写真で今回の山行を報告する。

 ホハレ峠 9時出発

 峠から15分ほど下ったところから草刈り開始 順番に下りながら草を刈っていった 作業時間約一時間
 人数が多いとはかどるわというのがいつも一人で草刈りをすることが多いEさん

 地味な花アキチョウジ(ヤマハッカ属) 

 門入入口沈下橋から見る

 三角点「牛尾」に至る尾根のブナ林 取付きのヤブが酷い 

 宴会最後の地獄うどん この前に焼き肉 重いコンロ、肉を背負ってくれたダブルOさんに感謝、感謝

 昭和31年頃の門入 30軒以上の家と田んぼが結構ある この頃は自家発で夜だけ、電灯がついた
 その後、中電が入り、そこから急速な電化が始まった


 移転の碑 Iさんは十二番目

 西谷上流方面

 沈下橋と黒谷方面

 当時田んぼと住家がたくさんあった

 最後の休憩 キジヤ平にて

 
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日本人の愛憎は過少? 20.9.3

2020-09-03 13:03:38 | 面白い本はないか
 昨日秋バラに備えて、剪定と追肥を一部のバラに行った。秋バラは10月下旬から11月中旬まで楽しめるはずなのだが、ここのところ早く咲き始めるのが多くてうまくいかない。その原因に夏の暑さがいつまでも続くことにあるのではないかと思っている。バラの本に書いてある8月下旬から9月上旬までの剪定、追肥だと10月までに咲き終わってしまう。もう一つ考えられるのは剪定が浅すぎるのではないかということである。そこで、今年は例年より少し剪定を遅くし、来週くらいに剪定するものを残した。結果はどうなるかお楽しみである。


 夏の花が咲いている 咲き終わってから剪定する イングリッシュローズ

 同 フレンチローズ

 剪定したイングリッシュローズ 葉があまりついていないため、深く剪定できない

 さて、先日大澤真幸「憎悪と愛の哲学」という本を読んだ。その中に大変興味深い箇所があったので、紹介する。明治時代に活躍した森有礼の孫、森有正(哲学者)が1950年代にフランスにいた時の話。フランス人女性との会話の中で、三発目(広島、長崎の次)の原爆が落とされる国はどこかとの問いに、彼女は「それは日本よ」と即座に答え、有正は大変驚いた。彼女が言うには、原爆のような凶悪な爆弾を落とされたのに、それを落とした敵にあれほど怒らない国民はないと。そのことは、アメリカが終戦のすぐ後(1945年9月~12月)に行った戦略爆撃調査団による調査の一項目「原爆投下に対して米国に憎悪を感じるか」という質問に対して、全国では感じる12%、広島・長崎でも19%と答えた。

 加えるに、東京裁判で「平和に対する罪」「人道に対する罪」は戦勝国によって作られた事後法であるから、無罪(通常の戦争犯罪に対して責任がないとは言っていない)としたラダビノート・パールのある重要な指摘がある。それは広島原爆死没者慰霊碑に刻まれた言葉「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」に対するもので、彼が言うには「ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないのは明白である」、そして世界連邦アジア会議で原爆投下者を厳しく非難する発言をしている。

 ここからは著者の考えである。原爆投下に最も責任があるアメリカ人(オバマが広島を鳥羽サミットの時に訪問したが責任は認めていない)が過ちと認める前から、勝手に広島市民の方がー世界市民を代表してーもう過ちは繰り返しません(アジア太平洋戦争に対するものだったらまだ理解可能だけれど、おじさん注)と言うべきではなかったのではないかと。広島市民も日本人も「敵」をそれほど憎んでいない=敵に対する怒りや恨みが大変小さいということになる。一般的に憎悪を払拭した者の方がそれができない者より立派で倫理的に優れているかのように言えるのか。アウシュヴィッツの場合を考えてみれば、これは世界の常識ではない。

 ここで著者はこのことと日本人がアジアにしてきたことに対する無反応はそのことの裏表ではないかと。日本人は、アジアの人々から、とりわけ中国人や韓国人からかつての侵略戦争や植民地統治に関連した問題で謝罪を求められると、ひどく当惑したり場合によっては逆ギレしたりする。多くの日本人は「こちらで申し訳ないと感じているのだから、そこまで執拗に謝罪を求めなくてもよいではないか」と心中でつぶやいているのではないか。アメリカに対し、原爆投下についての反省や謝罪を強く要求しないし、アメリカをさして恨んでもいない。そうすると、日本人を敵と見なし、日本人を恨む人への想像が働きにくくなるのではないか。投下した側アメリカの憎悪の過剰と投下された側日本の憎悪の過少が見られる。憎悪過剰の側のアメリカ高官に回心、具体的には原爆投下ということの重みへの心の均衡回復として憎悪の対象であったソ連に対する融和策を提唱したが、原爆開発に参加しなかったトルーマン大統領(この人には回心はない)がこれに反対し、冷戦が開始された。真の愛は、憎悪からの転回としてのみ、ありうるのではないか。

 おじさんは著者の見解にためらいながらも一部賛成する。佐伯啓思は日本が大東亜戦争に至る道はある意味日本が明治以降近代化する過程における必然的な結果だと言っている。日本には無常観が強く流れており、大災害や戦争もある意味「仕方ない」といった受け身で受け止める。当然、原因の追及さらには責任の追及は手ぬるいし、水に流したがる(これでは強い憎しみなど湧きようがない)。保守主義まして右翼を表明するものは、日本人のふがいなさに憤慨し、憎しみをもっと燃やしてアメリカの責任をもっと追及せよと国民に迫っても良いのではないか(笑い)。
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