醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   82号   聖海

2015-02-05 12:30:04 | 随筆・小説

 
  薫りは「かほり」なの、それとも「かをり」なの 「有難や雪をかほ(を)らす南谷」

句郎 「有難や」。こんな言葉が俳句の上五になるんだね。
華女 「閑(しずか)さや」で始まる芭蕉の名句があるじゃない。
句郎 そうだったね。
華女 「おくのほそ道」羽黒山で芭蕉が詠んだ句ね。「有難や雪をかほ(を)らす南谷」
句郎 この句の季語は何だと思う。
華女 「雪」とあるから雪なんじゃないかと思うわ。違うの。
句郎 「おくのほそ道」に「六月四日、本坊にをゐて俳諧興行」とあるから今の暦でいうと七月二〇日になるみたいだよ。      夏に雪の句を詠むのはおかしくないかな。
華女 そうね。じゃ、この句に季語はないの。
句郎 「雪をかほ(を)らす」が季節を表しているよね。だから「かほ(を)らす」という言葉が季語のようだよ。
華女 「かほ(を)らす」という言葉だけじゃ季語にならないわよね。あくまで「雪をかほ(を)らす」というから「かほ(を)らす」   という言葉がこの句の場合、季語になっているというわけよね。
句郎 「雪をかほ(を)らす」が「薫風」を表現しているからということらしい。
華女 季語というのは季語を表現している言葉があれば、句として成立しているということなのね。
句郎 定型俳句の場合はそういうことらしい。
華女 そうなんだ。大事なことは季節を表現している言葉があるかどうかということなのね。
句郎 岩波文庫の「おくのほそ道」には「かほり」の「ほ」の字を訂正し「を」とルビを振っている。文語として「かほり」   は間違いで「かをり」が正しいと言っている。しかし布施明のヒット曲「シクラメンのかほり」は「かほり」になっているよ。現代口語文では「かおり」だよね。「かほり」には文語文の薫があるように感じないかな。
華女 そうね。「かほり」には文語の匂いというか、たゆたうリズムがあるように思うわ。
句郎 調べてみたんだ。仮名遣いは歴史上大きく二度変わっている。一度目は10世紀から12世紀にかけて大きく変わった。二度目が19世紀後半から20世紀にかけてである。
華女 10世紀から12世紀にかけてなぜ仮名遣いが大きくかわったのかしら。
句郎 10世紀から12世紀というのは東アジア世界に大きな歴史的変化があった時代なんだ。
華女 どんな歴史的変化があったの。
句郎 東アジア世界と云うのは漢字文化圏のことを言うんだ。モンゴル、チベット、ベトナム、満州、朝鮮、日本が漢字文化圏なんだ。中国に誕生した大国、漢帝国の政治的影響を受け国家が誕生した国々が自分の国の言葉を表現する文字に漢字を利用した。
華女 「かほり」の話から歴史の勉強になっちゃったわ。眠気がしてきたみたい。
句郎 そんなこと云わないで聞いて下さいよ。
華女 漢字文化圏と「かほり」とはどうつながるの。
句郎 もう少し、歴史の話をすると10世紀から12世紀ごろにかけて漢字文化圏で国字の誕生が見られるんだ。日本では漢字で仮名を表現した万葉仮名から漢字を簡略化した仮名文字が生まれるのが10世紀から12世紀ごろにかけての頃なんだ。と同時にどのように仮名遣いをするかが決まっていったのが10世紀から12世紀ごろにかけての頃なんだ。
華女 まだまだ先が長そうね。
句郎 もう少しだけれどね。その頃、時代の要請を受けた天才が生まれたんだ。その人が藤原定家、小倉山で優れた和歌百首を選んだ藤原定家、百人一首の選者、藤原定家だよ。彼は仮名遣いの決まりを決めた人でもあった。それを「定家仮名遣い」というんだ。この定家仮名遣いでは「かおり」を「かほり」と書いた。
華女 「定家仮名遣い」まで長かったわね。
句郎 まだ続くんだ。江戸時代の末期に契沖という国学者が時代の要請を自覚し、定家仮名遣いの間違いを正した歴史的仮名遣いを公にした。この契沖の仮名遣いを明治政府は継承した。その結果、「かほり」という定家仮名遣いは間違いで「かをり」が正しい歴史的仮名遣いということになった。
華女 句郎君、なかなか学者じゃない。でも私(わたし)的にはそんなことどうでもいいわ。結果が分かればそれで充分だわ。「かほり」は間違い。「かをり」が正しい。それで充分よ。