醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  94号   聖海

2015-02-17 12:05:35 | 随筆・小説

 「一家に遊女と遊ぶ芭蕉かな」聖海   「一家に遊女もねたり萩と月」芭蕉

句郎 市振で芭蕉の詠んだ句が「一家に遊女もねたり萩と月」だ。この句に僕は芭蕉の人生観があるように思っているんだけれどね。
華女 どうしてそんなことが言えるの。そんなことよりこの句の季語は何なの。
句郎 そうだね。萩も月も季語だね。二つ季語が入っている。主従がはっきりしていれば問題ないと言われているけれどね。
華女 この句の場合、萩と月、どちらが主で、どちらが従なの。
句郎 どちらが主たる季語なのか、はっきりしていないね。二つが同時に季語になっているように思う。
華女 そんな句もありなのね。
句郎 俳句の名人にはなんでもありなんじゃないかな。将棋なんかでも「名人に定跡なし」というからね。
華女 主従のはっきりしない二つの季語がある句としてこの句を覚えておこう。
句郎 「おくのほそ道」本文を読むと市振旅立ちの朝、遊女たちが芭蕉にお願いする。「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と。この文章に続く芭蕉の言葉に芭蕉の人生観があるように思うんだ。
華女 芭蕉は何と答えるの。
句郎 「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と。芭蕉は遊女たちの願いを断るんだ。
華女 芭蕉は冷たい人だったのね。
句郎 うん。冷たいんだ。この冷たさに芭蕉の人生観があるように思うんだ。
華女 人に対する冷たさは私が最も嫌うことね。人には優しくなくちゃね。
句郎 一見、冷たく感じられるんだがね、ここに人生を慈しむ優しさが秘められていると思うんだけどね。
華女 どうしてそんなことが言えるの。
句郎 芭蕉は市振の宿で遊女と同衾したのではないかと思っている。「一家に遊女とねたり萩と月」じゃ、句にならないでしょ。だから「一家に遊女もねたり萩と月」にしたんだと思う。
華女 もし、本当にそうだったとしたら、ますます芭蕉は許せないわ。そんな薄情な人だったと芭蕉を思いたくもないわ。
句郎 うん。人生は出会いと別れでしょ。どんなに愛した子どもであっても、その子どもといつかは分かれなくちゃならないでしょ。誰にも死は絶対に避けられないじゃない。子どもが生まれ、出会いがあり、死をもって別れが来る。
華女 あったりまえのつまらないこと言わないでもらいたいわ。
句郎 人生の出会いと別れを象徴的に表現した文章と句が章が「市振」だと思う。
華女 「市振」の章は実話ではないと言いたいの。
句郎 実際にあった話なのか、なかったのか、それは分からない。人生には別れという無慈悲な出来事がある。我々の目の前には絶えず無慈悲な現実があるということなんだ。この無慈悲な現実を受け入れて人間は生きていかざるを得ない。この現実の無慈悲さをしっかり知ることが生きていく力となる。そのようなことを表現した章なのではないかと思うんだ。