美味しさとは
まだ若かった頃、妻と二人日本橋三越本店にあったフランス料理店に行ったことがある。店に入るのに物怖じしてしまうような薄暗く厳めしいお店だった。勇気を奮い、客がぽつんぽつんといる店内に入り、黒服を着たボーイに案内を受け席に着いた。
吾々は本格的なフランス料理など食べたことが無かったので、メニューを見て一番安い定食を注文した。ワインももちろん一番安い赤を注文した。それで終われば何のことはなかった。メニューを見ていた妻が突然黒いスーツを着ている女性が傍を通ったとき、単品でエスカルゴを注文した。妻は胸を張り、堂々と注文した。いつも食べているような態度だった。注文を受けた女性は「エスカルゴでございますね」と腰を屈め微笑んで確認した。見るからにウェイトレスより格上という雰囲気が漂う中年の女性のその微笑にエスカルゴは初めてなんですねというようなものを私は感じた。いくら妻が胸を張ってみても吾々の正体は見抜かれていたのだ。
悲劇はエスカルゴが運ばれてきて起こった。一口エスカルゴを口に入れた妻は吐き出してしまった。こんなもの食べられないと小さな声で言った。ニンニクの匂いが咽につかえ、むせると言い、エスカルゴの皿を私の方に押してくる。
ボーナスが出たころだった。大変な散財を妻はしてしまった。やむを得ず私はエスカルゴを一人で二人前いただいた。赤ワインと一緒に食べると実に美味しい。そんな私を見て妻はよくあんなものを美味しそうに食べられるわねと憎らしそうに言う。私はついニヤニヤしてしまった。
やはり若かった頃だ。妻と二人、フカヒレを食べに気仙沼に行った。民宿の親父が養殖雲丹を捕りに行くという。誘われたので船に乗せていただき、同宿のカップルと一緒に夏の夕暮れ湾の水面を走った。しばらく行くと船を留め、海水から引き上げたばかりの海鞘(ほや)を取り上げ、パンパンに張った海鞘(ほや)にナイフを差し込んだ。水が海鞘(ほや)から放物線を描いて海面に落ちた。親父は素早く海鞘をさばき、切り身にすると海水で洗い、これがもっとも新鮮な海鞘の刺身だといって、食べさせてくれた。海鞘の切り身を口に入れた妻は突然親父に背を向け、手に海鞘を吐き出すと気づかれないよう海に捨てた。私も美味しいとは思わなかったが、海水の塩味と独特の味が強く印象に残った。
海鞘を食べたのはその時が初めてだった。その後、何回か、海鞘を生で食べる機会があった。思い出すと海の上、海水で洗って食べた海鞘が一番美味しかったように思う。
美味しいものとは、きっと食べ慣れたものなのだろう。いつだったか、ホテルオークラで七百二十ミリリットル五万円で売られているという日本酒をその蔵元で試飲させてもらったことがある。その時、普段飲み慣れた剣菱が美味しいと言った友人がいた。本当にそう思ったのだろう。美味しさとは、食べなれたもの、飲みなれたものなのだろう。また見た目とか、器とか、場所とか、仲間とかいうようなものの総合したものに違いない。
空腹は最高の調味料というフランスの諺がある。この言葉は真実だが、職人の技が築いた文化財としての料理もまたあるに違いない。エスカルゴのような。