俳句は「切れ」字。 秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)
元禄二年七月の二十日(新暦9/3)は曾良旅日記を読むと快晴だった。記録とは凄い。三百年前の天候を知ることができる。この日、芭蕉は金沢・犀川の畔に建つ斎藤一泉(さいとういっせん)の松玄庵(しょうげんあん)に招かれ、歌仙を半分18句を捲いた。その後、里山、野端山を散歩して帰り、夜食をいただき宿に帰ると午前零時になっていたという。俳諧は当時の金持ちたちの遊びだった。これ以上のことは曾良旅日記にも俳諧書留にも何も書いていない。が、一泉の松玄亭に正客として招かれた芭蕉が詠んだ発句が「秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)」であると判る。「おくのほそ道」には「ある草庵にいざなはれて」とある。この「ある草庵」とは一泉の松玄亭である。なぜ、一泉の松玄亭であると分かるのかというと、宝暦三年(1763)芭蕉70回忌に蘭更が編集した『花の古事』に元禄二年七月二〇日一泉の松玄亭で捲いた半歌仙が載っているからである。『花の古事』に載っている芭蕉の発句は「残暑暫し手毎(てごと)にれうれ瓜茄子(うりなすび)」である。「れうれ」とは「れう」と「り」が結びついて料理しようと意味になる。この発句を芭蕉は「秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)」と推敲し、この句を「おくのほそ道」に載せた。
「秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)」。この句は俳諧、歌仙から独立した句である。歌仙の発句ではない。俳諧から切れている。この「切れ」が俳諧の発句から独立した句である証拠である。
「丈草に向て先師曰、歌は31字にて切レ、発句は17字にて切レる」と『去来抄』にある。当時はまだ「俳諧の発句」と「俳句」とが明確に分けて考えられていなかったから丈草は「発句」という言葉を用いているが、実質的にはこの「発句」は俳句を意味している。
17文字の前後で切れていなければ俳句にはならない。「秋涼し」の上五の前で「 / 秋涼し」となっていなければ俳句にはならない。「下五」の「瓜茄子」も同様に「瓜茄子 / 」となっていなければならない。「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」の17音は「秋涼し / 」で切れるのか、それとも「手毎にむけや / 瓜茄子」で切れるのか、戸惑ってしまう。「手毎にむけや」の「や」は確かに切字の「や」のようだ。しかし「瓜茄子を手毎にむこうや」と一つの想いを述べているから中七と下五は一体のものとして捉えることができる。「秋涼し」はこれで一つの想いが伝わってくる。この句は上五「「秋涼し」と中七・下五の「手毎にむけや瓜茄子」とを取り合わせた句なのであろう。「秋涼し」という芭蕉の主観と「手毎に向けや瓜茄子」という現実との取り合わせであろう。しかし中七の「手毎にむけや」と下五の「瓜茄子」との間に全く切れが無いかというとそうではない。小さな切れがあるようだ。だからといって三句切れの句かというとそうではないように感じる。
「切れ」とは「秋涼し」という思想と「手毎にむけや瓜茄子」という思想がぶつかり合い、間ができることによって「秋涼し」という詩情が生まれる働きをする。この間をつくりだす働きをするのか「切れ」である。「切れ」が深ければ深いほど間が深い詩情を生む。
俳諧の参会者が各々瓜茄子を手毎に向いて調理してもらう。ここに協力し合い料理する清々しい仲間たちの友情が醸し出される。あー、仲間がいるのはなんと楽しいことか、としみじみした思いにとらわれる。これはまさに秋の涼しさだと表現したのが「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」という句なのであろう。