酒好きの芭蕉
鰹賣(かつおうり)いかなる人を酔(よは)すらん 貞享四年
桜の花が咲き始めると江戸の町に初鰹を籠にのせ、天秤棒を担いだ威勢のいい声が街に轟く。鎌倉の海でとれた鰹はならぶもののない美味しさだと噂になっている。芭蕉と同世代の山口素堂は「目には青葉山ほととぎす初鰹」と鰹の美味しさを讃えている。貞享四年、芭蕉は四十四歳になっていた。深川に隠棲した芭蕉にも鰹売りの声がきこえる。「櫓の声波をうつて腸(はらわた)氷る夜や涙」と詠んだ生活をしている芭蕉にとって、鰹は高嶺の花である。あの鰹でいかなる人が今夜、お酒を楽しむのだろうか。鰹売りの声が遠くなっていくのを芭蕉はじっと聞いていた。
酔うて寝ん撫子(なでしこ)咲ける石の上 貞享四年
撫子が咲き始めた。故郷、伊賀上野でもきっと撫子が咲き始めていることだろう。撫子を眺め、芭蕉は故郷を思った。初恋の子はどうしたろう。田植えはもう済んだのだろうか。暖かな石の上でお酒を楽しんだ後、昔、想ったあの娘と添い寝がしたいなぁー。四十四歳、当時にあってはもう初老の男になっていたは芭蕉は撫子を見て空想した。
盃の下ゆく菊や朽木盆(くちきぼん) 延宝四年
江戸に出て俳諧宗匠として成功した芭蕉は延宝四年に伊賀上野に帰郷した。重陽の宴だとふる里に帰った芭蕉を俳諧仲間の旧友たちが歓待してくれた。不老長命を願う菊の水とはお酒である。盃をのせた朽木盆の上に菊の水、酒をなみなみと注いでくれた。酒が盃から溢れ、朽木盆の上を走った。延宝四年には重陽の宴を仲間と楽しむ元気いっぱいの芭蕉がいた。
盃に三つの名を飲む今宵かな 貞享二年
「霊岸島に住みける人三人、更けて、わが草の戸に入り来るを、案内する人にその名を問へば、各々七郎兵衛となん申し侍るを、かの独酌の興に思ひ寄せて、いささか戯れとなしたり」。このような前詞がこの句にはある。
仲秋の名月であったのだろうか。霊岸島からきたという三人の酔っ払いが芭蕉庵にやってきた。この三人、聞けば三人とも七郎兵衛だという。面白がった芭蕉はちょうど一人で月見の独酌をしていたところだ。一緒にやろう。意気投合した。芭蕉は月を見上げ、李白の詩「月下独酌」を芭蕉は思い出ししていた。自分自身と盃に映った月影と月の光で生じた己の影の三人で月見の独酌を楽しんだ李白を想った。
秋をへて蝶もなめるや菊の露 貞享二年
残暑厳しい秋を生き延び晩秋を迎えた蝶が菊の露を舐め、羽ばたいている。不老長命の水にあやかり、生き貫
こうとしているに違いない。菊の露を吸い、生き延びようとしている。不老長命の水。酒を嗜む芭蕉は自分の姿を蝶に見つけていた。健気に生きる蝶よ、明日も元気に生きろよ。
草の戸や日暮れてくれし菊の酒 元禄四年
『笈日記』(支考編)に「九月九日、乙州が一樽をたずさへ来たりけるに」と前詞。また、『蕉翁句集』には「此の句は木曽塚旧草に一樽を人の送られし九月九日の吟なり」と付記。芭蕉、義仲寺無名庵滞在のときの作。
重陽の節句、九月九日は宴を催す年中行事が庶民の間にも元禄時代には普及し始めていた。元禄四年、四十八歳になった芭蕉は近江、義仲寺無名庵に滞在していた。無名庵には菊の花もなければ、菊の露・酒も無かった。夕暮れて思いがけなく乙州が一樽携えて来てくれた。嬉しさがこみ上がり、ひとりでに喉が鳴るのを芭蕉は微笑んで隠した。しばらくぶりの菊の酒、不老長命の水を乙州と味わった。最後の一滴まで飲みつくした。二人の重陽の宴は夜の明けるまで続いた。