ただごとか、諧謔か、「汐越や鶴脛ぬれて海涼し」
句郎 象潟で芭蕉が詠んだ「象潟や雨に西施がねぶの花」は有名だけれども「汐越や鶴脛ぬれて海涼し」の句は「おくのほそ道」を読んだ人でなければ、知らない句だね。
華女 そうね。私もこんな句を芭蕉は象潟で詠んでいるんだと思ったわ。
句郎 「おくのほそ道」の本文に「海北にかまへて、浪打ちいる所を汐こしと云」と書いているから固有名詞と考えていいんじゃないかな。
華女 「鶴脛」というのは衣の丈が短くて、脛が長くでていることをいう普通名詞よね。汐越に出て働いている人を見た芭蕉は足元が海水に曝され涼しそうだなと感じたことをそのまま述べただけの句のように思うわ。
句郎 ただごと、ただごと。そんな感じがする句だね。
華女 芭蕉が詠んだ句、「おくのほそ道」に掲載されている句だから読まれる句のように感じるわ。
句郎 芭蕉にも凡作があるなぁーと我々を喜ばしてくれる句かもしれないね。
華女 でも汐越にいたのが人でなく、舞い降りた鶴が浅瀬にいたと考えると違ってくるようにも思うわ。
句郎 なるほどね。でも真夏の海浜に鶴が舞い降りてくるようなことが本当にあるのかな。
華女 そうね。鶴は渡り鳥ですものね。
句郎 鶴が日本に渡ってくるのは冬だね。真夏の鶴なんていうのは見たことも聞いたこともない気がするよ。
華女 象潟の汐越で芭蕉が見た鳥はアオサギだったかもしれないわ。アオサギは鶴ほど大きくはないけれども足は長いわ。
句郎 確かに鶴に似たアオサギがいることはいるらしいね。
華女 汐越にいた鶴に似た鳥を見た芭蕉がこりゃ本当の鶴脛だとしゃれたことだとしたら諧謔になるんじゃないかしら。
句郎 そうかもしれない。ただごか、諧謔、どっちなんだろうな。
華女 俳句はそもそも諧謔から始まったんでしょ。
句郎 うん。談林の俳句というのは諧謔だものね。
華女 そうでしょ。芭蕉はもともと笑いの好きな人だったんじゃないかしら。
句郎 庶民はいつの時代も権威あるものを笑って生きていく力を得たようなところがあるね。
華女 俳句もそうなんじゃないの。ただごとに笑いを見つける。当たり前に見えるものに笑いを発見する。そんな文芸が俳諧だったんでしょ。
句郎 この句もそうすると諧謔の句だと勝手に解釈したいね。
華女それでいいんじゃないの。偉そうな人にそうじゃないと言われてもね。