ヒーちゃん
居酒屋「此処」(ここ)の人気者はヒーちゃんだ。50年間、体重が変わっていないと本人が言う。背が低い。小学生のように痩せている。背をかがめ、静かに居酒屋「此処」の暖簾を割って入ってくる。カウンターに知った顔を見つけるとえも言われぬ笑顔を浮かべ、ヨッと手をあげる。その姿に愛嬌がある。カウンターの高いに椅子に腰かけると隣に「今日は寒いね」と話しかける。
「ここ三・四日頭が痛くて困ったよ」と愚痴ると隣の客が
「どうしんだい。借金で首が回らなくなったかい」と澄ました顔でヒーちゃんを茶化す。
「風邪っぽくてよ」
「酒飲みが足りないんじゃないの」
「そんなこと、ないよ。昨日、ちょっと焼酎呑みすぎちゃったかな」
ヒーちゃんの愚痴に終わりはなさそうだ。ママはいつものことと注文も聞かずに、黙ってウーロンハイをヒーちゃんの前に出す。ヒーちゃんは大の巨人ファンだ。昨晩のナイターを肴にウーロンハイを傾ける。ヒーちゃんの野球解説が始まると隣の客はそっぽを向いて黙っている。隣りの客が聴いてくれているものと一人合点し、ヒーちゃんはウーロンハイを一口飲んではしゃべり続ける。ウーロンハイを一杯飲み終えるとカラオケの厚い本をカウンターの隅から引っ張り出し、指をなめなめ、ページを繰る。細めた目が歌の番号を確認する。
ヒーちゃんの十八番は「武田節」である。ドスが利いて聞かせる歌だ。痩せた小さな体からよくもこんなに大きな声がでるものだといつも思う。唄い終えると一口ウーロンハイを傾ける。隣りの客が迷惑がっているのもわからず話しかける。
「どーも、腹の調子が悪くてな」と同情を求める顔をする。腹の調子が悪いにしてはウーロンハイのペースは速い。グイグイ飲む。ツマミをつつくことがない。お湯割りのウーロンハイに上気したのか、顔がピンクに輝き始める。静かになったなとヒーちゃんを見るとカラオケのページを繰っている。次々と唄う。どの歌を聞いても「武田節」と同じである。「良い声してるね」と愛想を言うと嬉しそうな顔に魅力が出て来るように感じる。
「ここんところよ、腰が痛くってよ。まいったよ」と弱く微笑む。
ヒーちゃんは30代のころ、椎間板ヘルニアの手術をした。
「手術しても良くならないね。医者も狡いからよ。100%良くなるとは言わなかったよ」と愚痴る。「さんざん足を引っ張っる整形にかよっても、一時的なもんだね。すぐ痛くなるんだよ。挙句の果てに足を引っ張りすぎて腰が却って痛くなっちゃったよ」と目を丸くして自分を笑うように話す。腰が痛いと愚痴る割には高い椅子から身軽に降り、カラオケを唄う。
頭が痛い。腹の調子が悪い。腰が痛い。老いた体を一通り愚痴り、ウーロンハイを三・四杯飲み、カラオケを五・六曲唄うとそろそろヒーちゃんの帰るころだ。
ヒーちゃんには立派な苗字がある。「東小路(あずまこうじ)」という元公家さんのような苗字を持っている。「此処」のアイドルヒーちゃんを苗字で話しかける客はいない。いつの頃からか、低い声で体の調子が愚痴る様子がヒーヒーしているので馴染の客たちはいつしか「ヒーちゃん」をヒーちゃんと言うようになった。自分の子供のような若者に「ヒーちゃん」と話しかけられても嫌な顔をすることはない。「なんだい」と元気よく微笑む。人生に疲れた顔の目が一瞬輝く。その顔が憎めないのか、馴染客は皆、ヒーちゃんと心安く呼ぶ。ママもまたヒーちゃんに遠慮することはない。
ヒーちゃんは後一年数か月で二十年近く務めた食品会社を定年になる。そのヒーちゃんに膾炙は転勤を命じた。茨城県下妻からバスで三十分ほどかかる工場への転勤を命じた。配置換えだという。「会社は俺の辞めんのを待っているんじゃねぇーかな」と弱々しく笑う。自宅から通えるところにして欲しいと、人事担当者にお願いしたが無理だと言われた。「俺のよ、配置換えの意見具申を係長がしているんじゃねぇーのかな」とヒーちゃんは疑っている。「皆から嫌われているんだ」と「此処」の仲間に係長を詰った。人の悪口を言わないヒーちゃんが感情をあらわにウーロンハイの力を借りて怒る。退職までの一年数か月ヒーちゃんは一人住まいをして茨城の工場に行く覚悟している。それまではカラオケはお預けだと寂しげに笑った。