恋は秘めてこそ恋 わせの香や分入(わけいる)右は有磯海
句郎 『おくのほそ道』に載っている芭蕉の句の鑑賞がいよいよ終わりに近づいてきた。
華女 そうね。あと何句ぐらい残っているのかしら。
句郎 そうだね。十数句じゃないかと思う。
華女 今日はどこで詠んだ句なの。
句郎 那古の浦から金沢にいたる有磯海で詠んだ句を鑑賞してみたい。
華女 どんな句なの。
句郎 「わせの香や分入(わけいる)右は有磯海」という句なんだ。
華女 早稲の田のあぜ道に入っていくと右手に有磯海が見えてきたというだけの句なの。
句郎 あゝ、ここが有磯海か。それだけの句だと思う。
華女 「有磯海」への芭蕉の思い入れが分からなくちゃ、鑑賞できないわね。
句郎 有磯海を詠んだ「かくてのみありその浦の浜千鳥よそになきつつこひやわたらむ」というよみ人しらずの歌が拾遺集にある。芭蕉はこの歌を思って、ここが有磯海かと詠んだ句が「わせの香や分入(わけいる)右は有磯海」だったんじゃないかと思う。
華女 「かくてのみありその浦の浜千鳥よそになきつつこひやわたらむ」。この歌の意味はどんなことなの。
句郎 このように荒い海に鳴く浜辺の千鳥のようにあなたと離れた場所であなたをずっと恋い慕い泣き続けてている想いは届くのだろうか。
華女 想いが届かない苦しみを詠ったものなのね。
句郎 この歌を読み、恋の苦しみを知って初めて芭蕉のこの句が味わえるように思うんだけれどね。
華女 有磯海は恋の歌枕なのね。
句郎 そのようだよ。この海で恋を秘めた女性がいたということを知らないと芭蕉のこの句を味わえないのではないかとね。
華女 早稲の香が漂う畦道を分け入っていくと右手にあの有磯海が見える。それだけの句がこの海を詠んだ歌を知っていると味わいが出てきたように感じるわ。
句郎 恋は秘めてこそ恋なのかな。
華女 遠い遠い昔の話ね。でも、姉の姑さんが老人ホームに入って恋をして元気になったという話を聞いたわ。
句郎 そういえば、そんな話があったね。
華女 姉が会いに行くとそのおじいさんの話ばっかりして、腕を組んでソファーに座っているんだって。この間は彼に聞いたそうよ。「私、トイレが近いからオシメした方がいいかしら」と尋ねたら彼氏が「そうした方がいいよ」と言ったんだって。姉、大笑いしていたわ。
句郎 現代の恋はとても軽いものになっているんだな。
華女 そうよ。軽い恋がいいのよ。それが芭蕉の「軽み」なんじゃないの。