「涼風やほの三か月の羽黒山」と「涼しさやほの三か月の羽黒山」では表現する世界がどう違うのか
曾良の「俳諧書留」には「涼風やほの三か月の羽黒山」とある。この発案を「涼しさやほの三か月の羽黒山」と芭蕉は推敲した。
芭蕉らは旧暦の6月3日、太陽暦に換算すると7月19日に新庄を立ち羽黒山を目指した。曾良旅日記によると天気はよかった。一里半ほど歩きそこから最上川を下る舟に乗った。一里半ほど舟に揺られていると船頭から関所ですと声をかけられた。舟を降り関所に出手形を持参した。また舟に乗り、羽黒山登山口で舟を降りると番所に羽黒山登山の届を出した。今夜世話になる予定の近藤左吉宅に着いたのが申の刻、午後の4時であった。汗ばんだ体で芭蕉らは羽黒山を登った。新庄からおよそ舟にも乗ったが7里近くを歩いた上に羽黒山を登った。
羽黒山の標高は四百m強の山であるから里山に近い。現在は2446段の石段になっている。元禄時代にはきっと今のような石段は無かったにちがいない。山伏が登る険阻な小道がつづいていた。この山伏が通る山道を辿って羽黒山に芭蕉らは登った。杉の大木が連なる小道には涼しい風が体をなぜていく。杉の大木の間からはほのかに三か月が見える。「涼風やほの三か月の羽黒山」と芭蕉の口から漏れ出た。「涼風」は芭蕉の実感であった。羽黒山に登った実感を詠んだ句を芭蕉は後に「涼風」を推敲し「涼しさ」に変えた。
「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を久富哲雄は次のように鑑賞している。「涼しいことよ。三日月が鬱蒼たる木々を通してほのかに見えるこの羽黒山中にいると、涼しさがまことに快く、霊域の尊さもしみじみと感じられることだ」。同じように萩原恭男もまた「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を「夕方の山気が身にしみて快い。ふと見上げると、ほんのりと三日月が黒々とした羽黒山の上にかかっている」と、このように鑑賞している。このような鑑賞では「涼風」と「涼しさ」の違いが伝わってこない。「涼風」でも「涼しさ」でも同じような鑑賞ができるだろう。
以上のような鑑賞に対して長谷川櫂は次のように鑑賞する。「夕暮れ、西の空に三日月がかかった。そのもとに羽黒山が黒々と鎮まっている。そんな景色の中にいると、心の中まで涼しくなるようだ。『ほの三か月の羽黒山』は眼前の景、この景と『涼しさや』という心の景との取り合わせである」。この「涼しさや」とは芭蕉が肌で感じたものではなく、心で感じたものだと言っている。
私も長谷川櫂の鑑賞の方がより深いように思う。理由は以下のようなものである。芭蕉は初め「涼風やほの三か月の羽黒山」と詠んでいる。なぜ芭蕉は「涼風や」ではなく、「涼しさや」にしたのかということである。「涼風や」だと杉林の間から吹いてくる風を肌で感じたことになる。この風は夕暮れの疲れを癒す快い風。芭蕉が実感した風である。芭蕉が表現したかったことは羽黒山の厳粛な静かさなのだ。肌で感じる風の快さでは神聖な尊さが表現できない。夕暮れの風の快さでは田の道を歩き疲れた体を癒すものと変わらない。芭蕉が表現したいと思ったことは羽黒山の夕暮れの神聖さ、尊さだった。だから「涼風や」ではだめなのだ。「涼しさや」と言えば心の世界を表現できると気が付いたのだ。「涼しさやほの三の月の羽黒山」と詠むことで羽黒山の夕暮れの厳粛さ、静かさが表現できたと、芭蕉は満足した。
「古池やかわず飛び込む水の音」と同じように「かわず飛び込む水の音」は現実に芭蕉が聞いた蛙が飛び込む水の音である。この音と心の中の「古池や」とを取り合わせることによって深みのある世界が表現できた。同じように「涼風や」を「涼しさや」と詠むことによって芭蕉は山道を歩き疲れた夕暮れの涼しい風に癒されたことではなく、羽黒山の夕暮れの神聖な厳粛さと静かさに旅の疲れの癒しとともに表現できたと芭蕉は思ったのであろう。