醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  778号  白井一道

2018-07-01 12:48:21 | 随筆・小説


  『おくのほそ道』より「庭掃(はき)て出(いで)ばや寺に散柳  芭蕉

句郎 岩波の『芭蕉俳句集』には「庭掃(はい)て」とルビが振ってある。長谷川櫂氏の『「奥の細道」をよむ』には「庭掃(はき)て」とルビを振っている。華女さん、「はいて」と「はきて」、どっちの読みがいいかな。
華女 「はきて」の方が芭蕉の意思が表現されているように感じるわ。
句郎 漢字の読みは読者の自由ということかな。
華女 そうよ。俳句の読みは読者のものよ。
句郎 この句は中七の句中で切れている句だね。
華女 そうね。小松で詠んだ句が中七の句中で切れていたわね。
句郎 「しほらしき名や / 小松吹萩すすき」だったかな。中村草田男の「万緑の中や / 吾子の歯生え初むる」。同じ形の句だ。
華女 中村草田男は芭蕉の句から句の構成を学んだのかしら。
句郎 そんなことはないんじゃないかな。「や」で句を切り、名詞で止める形の句は俳句の基本形のよ
うなものだもの。
華女 そういえば芥川龍之介の句に中七の句中で切れている句ではないけれども「木がらしや目刺にのこる海のいろ」。この句、とても気に入っている句なのよ。
句郎 芥川には「木がらしや東京の日のありどころ」という句もあったな。
華女 「や」と切り、名詞で止める句は俳句のオーソドックスな形なのね。
句郎 芭蕉の句に戻りたいんだ。「庭掃きて出(いで)ばや」と「寺に散柳」とは時間的に言うと逆になっているよね。寺の庭に
柳が散っている。この柳を掃いて寺にお礼の気持ちを表し、出発する。「庭掃きて」が初めにあるということは実際とは違ったということなのかな。
華女 あっ、そうね。確かに順序が逆ね。
句郎 『おくのほそ道』にはこの句の後に「とりあへぬさまして、草鞋(わらじ)ながら書捨つ」と書いている。芭蕉は出で立ちの装いをして玄関を出ようとしたら庭には柳の葉が散り積もっていた。こりゃ、申し訳ないことをしてしまいました。お許し下さいと懐紙にこの句を立ったまま書いて和尚さんに受け取って下さいと頭を下げたのかも。
華女 「庭掃きて出(いで)ばや」とは芭蕉の気持ちだったのかしら。
句郎 うん。柳の葉が散り積もった庭を掃き清めて出で立ちたいと思っておりましたが、つい気を抜いて寝てしまいました。寝心地の良い畳の上でゆっくり体を休めることができました。本当にありがとうございました。そんな御礼の気持ちを詠んだ即興の句がこの句なのだろう。
華女 この句は出で立ちの挨拶句なのかしら。
句郎 挨拶句なんじゃないかな。
華女 俳句は挨拶なのね。
句郎 俳句は即興でもあるね。
華女 そうね。挨拶、即興。この句はまさに俳句ね。
句郎 庭掃きをしようという気持ちを持ちながら成し得なかった後ろめたさを笑う自分を芭蕉は見ていたのかもしれないな。卑屈になるのではなく、ズボラな自分を笑う。ここに許しを願う庶民の姿があるんじゃないかな。
華女 そうよ。笑うのよ。ごまかすのではなく、率直に詫びるのよ。そこに笑いがあるのよ。
句郎 そう。諧謔かな。
華女 山本健吉がそんなことを言っているんでしょ。
句郎 そうなんだ。俳句は挨拶、即興、諧謔とね。ここに江戸庶民の日常生活があった。この庶民の日常生活を詠む文芸が俳諧だったんだろうね。
華女 和歌が公家や武士の文芸だとするなら俳句は平民、農民や町人の気持ちを表現したものよ。
句郎 そうだと思う。そこに芭蕉の近代性があると思っているんだ。