白井聡著『永続敗戦論』を読む
始め、「永続敗戦」という言葉が何を意味するのか、分からなかった。読み進むうちに分かった。日本国(政府)はアメリカ合衆国(政府)の属国だということを白井聡は「永続敗戦」という言葉で表現していた。
日本がアメリカの属国だということは新しい発見ではない。ガバン・マコーマック著『属国-米国の抱擁とアジアでの孤立』という著書が二〇〇八年に出版されている。さらに日本共産党はすでに一九六一年に発表された党綱領で日本はアメリカに従属した国家であるということを見抜いていた。しかし日本国民が日本国の主権を獲得する動きはあってもその動きが日本国民の心を捉え、多数者になることはなかった。なぜ日本国民がアメリカからの主権回復を求める運動に共感し、アメリカの軛からの解放を求めなかったのか。その理由を解明した著書が白井聡の『永続敗戦論』だと私は思った。
自立することは大人になることである。大人になることは未成年のような保護を受けることができない。保護される安逸から抜け出て冷たい風雨に曝されることが大人になることである。大人になる恐怖に怖気づいていた。戦後日本の政治を支配した保守政治家たちはアメリカの保護があれば、日本の安全を確保できると安心していた。その安心感が国民意識として定着したが故に日本の主権を回復し、独立国になる道を日本国民は選ばなかった。このような日本の社会意識を解明したのが『永続敗戦論』なのではないかと私は解釈した。
『永続敗戦論』を読み、カントの「啓蒙とは何か」を思い出した。未成年から大人になることが啓蒙ということだとカントは述べている。『永続敗戦論』は日本国民への啓蒙の書であるのだろう。大人になる勇気を持とう。アメリカの保護から抜け出し、自立した大人の国になろう。大人になる勇気を持とう。このようなことを述べていると私は理解した。
アメリカの保護に安住しようとする日本の保守政治家たちが恐れるのは日本の共産化、社会主義化のようだ。日本の保守層は共産化、社会主義化に恐怖している。この恐怖がアメリカの保護を求めている。白井聡は『永続敗戦論』文庫版二二七頁に河原宏の著書から次のような文章を引用している。「近衛らが”革命より敗戦がまし”という形で、なんとしても避けようとした「革命」とは、究極のところ各人が自主的決意と判断によって行動するに至る状況のことだったのではないか」
そうなんだ。日本の共産化とは、社会主義化とは日本国民が自分の判断に基づいて決断し、行動することであったのだ。
「国体」とは、国民に犠牲を強いるシステムである。この「国体」を護持したいということだ。国民自身が判断し、決断した行動をするようにでもなったら国体を護持することができない。
戦前から続く「国体」を護持するため昭和天皇はアメリカへの敗戦の道を選んだ。このアメリカへの敗戦の決断は永続して国民に犠牲を強いる「国体」を護持するためであった。だから「敗戦」は「終戦」なのだ。「終戦」は決して「敗戦」であってはならない。「終戦」であったが故にA級戦犯岸信介は戦後総理大臣になった。台湾や朝鮮を植民地支配したことはマニュフェスト・デスティニー、遅れた国を文明化したのであって、感謝されこそ、糾弾される謂れはない。中国へ侵略したということはこれからの歴史学者が決めることと、安倍総理は認めない。