「この秋は何で年よる雲に取り」芭蕉 元禄七年(一六九四)
句郎 芭蕉没年の句だ。元禄七年十月十二日が芭蕉の命日だから。「この秋は」の句は九月二六日に詠まれている。この句を詠んで十五日後には亡くなっている。
華女 芭蕉辞世の句と言ってもいいような句ね。
句郎 芭蕉最後の傑作の句の一つに挙げている人が多いようなんだ。
華女 芭蕉晩年の句として有名な句は「この道を行く人なしに秋の暮」、「秋の夜を打ち崩したる咄かな」、「秋深き隣は何をする人ぞ」などが知られているわね。
句郎 それぞれ深い味わいのある句だと思うな。
華女 芭蕉辞世の句というとやはり「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が最も芭蕉の辞世の句のように思うわ。何か、この句には芭蕉の人生が表現されているような気がするでしょ。そう、思わない?
句郎 そうなのかもしれない。五十年も昔、高校生だった頃、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が芭蕉辞世の句だと教わったような気がするな。
華女 「この秋は」の句を詠んだ後に「旅に病んで」の句があるのよ。
句郎 老いは突然やってくるというからね。
華女 突然、老いはやって来て、死は不意に見舞うのよ。
句郎 堀切実は『現代俳句に生きる芭蕉』の中で「この秋は何で年よる雲に鳥」の句を石田波郷は最も推賞し、「この句には芭蕉五十年の生涯の思いがこめられており、この句だけが私どもの生を証す」と述べていると書いている。
華女、波郷は芭蕉の句から強い影響を受けているのね。
句郎 月日が巡ると渡り鳥は雲に彼方に消えていく。人間もまた月日が巡りくるとこの世から消えていく。こうした自然の営みの中に私たちの生活はあるんだということを芭蕉は教えてくれていると波郷は芭蕉の句を読み、理解したということなんだと思う。
華女 当たり前と言えば、まったく当たり前のことを言っているに過ぎないように思うわ。
句郎 俳句は文学なんだ。文学とは、簡単に言ってしまえば、人間についての認識を深くし、他人への理解を深めるということだと思う。だから波郷は芭蕉の句を読み、俳句とは人間に対する理解を深めることなんだと気が付いたということなんだと思う。
華女 「人間探求派」というの。単なる花鳥諷詠でなく、人間を表現する俳句を詠もうとした俳人たちを「人間探求派」と言ったのね。波郷はその中心俳人だったということなのね。
句郎 波郷の他に中村草田男、加藤楸邨、篠原梵らが人間探求派と言われたようだ。
華女 芭蕉の句を読み、そこに人間が表現されていることに気づき、人間を表現する俳句を詠んだということなのかしら。でも芭蕉の句には人間が表現されていないような句もあるように思うわ。
句郎 例えば、どんな句があるかな。
華女 そうね。「夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿(うず)ツ」というまだ芭蕉が若かったころの句があるでしょ。この句は実に正確な写生の句だという話を聞いたことがあるわ。
句郎 確かに栗名月の句として知られている句の一つなのかな。クリシギゾウムシの幼虫は栗の実の中に入り込み、食べるという話を聞いたことがある。
華女 そうでしょ。この句は写生の句なのよ。
句郎 芭蕉の句には、虚子の言うような花鳥諷詠の句が確かにあるようなんだ。そういう点では虚子は芭蕉の句を継承しているということは言えると思う。子規も虚子も芭蕉の手の内で句を詠んでいたとも言えるように思うな。
華女 日本近代の子規や虚子は、芭蕉の初期の句のようなものから句を詠み始めたということなのかしら。
句郎 もしかしたら、芭蕉の句を知らなかったのかもしれない。だから初期の芭蕉は写生から出発し、徐々に自然を詠み、その背後に人間を表現するようになっていった。晩年の句、「秋深き隣は何を人ぞ」。この句はまさに人間社会を詠んでいる。
華女 この句、「秋深き」なのよね。「秋深し」じゃないのよ。ここに芭蕉の芸があると思うわ。
句郎 「秋深き隣」だからね、切れていないということ。