醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  842号  白井一道

2018-09-30 15:37:25 | 随筆・小説


  杉田水脈議員の「LGBT差別」についてのyou tubeを見て


 アメーバTVの番組、「"LGBT差別" 杉田水脈議員擁護派の小川榮太郎氏が生出演」をyou tube で見た。その後、新潮社は問題の雑誌「新潮45」の休刊を決定した。「新潮45」を休刊に至らしめた問題の特集号に執筆した自称文芸評論家小川榮太郎氏の発言と鈴木賢明治大学教授の発言、論争を聞いた。私は小川榮太郎氏の書いた文章を読んだことはないし、読みたいと思ったこともない。鈴木賢先生の文章も読んだことはない。ただインターネットテレビでの発言を聞いただけである。テレビでの両者の発言を聞き、感じたことだけで言うと小川榮太郎は実に無礼な人間だということだ。小川榮太郎に「氏」という敬称をつけて書くことを私はやめる。
 小川榮太郎の発言は凝り固まった主観でしかない。鈴木先生の反論の正当性に小川榮太郎は頭を下げることができれば救いはあるように思うがどうだろうか。小川榮太郎よ。基本的人権というものをしっかり学んでほしい。
 私が鈴木先生の発言の中ではっと驚くことがあった。それは同じ討論の場に参加していたジャーリスト堀潤氏が日本は古来、性に関しては寛容な社会であったというような発言をした。この発言に対して直接鈴木先生が反論したわけではなかったが「日本は性に関して寛容な社会」であったことについてそうではないと発言していたことだ。同性愛を昔の日本は許容していたことはないと発言した。この発言に私ははっとした。昔の日本人は同性愛について寛容だったという理解を私は持っていた。この私の認識を覆す発言だったからである。
 私は嵐山光三郎氏の著書『悪党芭蕉』を読んだことがある。この著書の中で芭蕉は両刀使いだったと書いている。芭蕉には杜国という男の愛人がいた。また芭蕉と杜国との関係は師と弟子という関係以上のものがあるというようなことを書く芭蕉学者や小説家がいることを嵐山光三郎氏の著書を読んだ後、知った。たとえば芥川龍之介は著書『芭蕉雑感』の中で書いている。「われもむかしは衆道好き」という芭蕉の書いた『貝おほひ』の中の言葉を紹介している。また神奈川大学教授復本一郎氏は『江戸俳句夜話』で「江戸時代、男色は、決してタブーではなかったのである。タブーでないばかりか、武士道の形式美の中にあっては、女色と拮抗し、女色を凌駕し得るものであったのである。(中略)芭蕉の時代、男色は、決して忌避されるべきものでなく、命を賭してのその精神性は、こぞって賛美されたのであった」。このように学者も書いている。芭蕉は異性愛者であり、同時に同性愛者でもあったという理解をした。がしかし、江戸時代同性愛者はいなかったと述べ、同性間の性行為のみがあっただけだという発言を鈴木賢先生はした。
 芭蕉と杜国との関係は同性愛の関係ではなかった。が衆道ではあった。衆道と同性愛とは違うということなのだろう。封建的な身分制社会における男色、衆道と現代社会における男色、同性愛、ゲイというものは本質的に違うものなのだということに私は鈴木先生の話によって気づいた。
 You tuber 青木歌音の動画を見ると「昔男の子だった青木歌音です」と自己紹介する。どう見ても色白の可愛い女の子以外の何物でもない。人体改造をして男から女に性別を変更している。男から女に人体改造をした人と男との恋愛を同性愛ということはできない。この関係は男と女の恋愛であろう。こんな関係もあると聞いた。男から女に人体改造をしたニューハーフが女と恋愛をする。これを同性愛、レスビアンということができるのだろうか。自然人としての女が女と恋愛するのが同性愛のように思う。豊胸手術を施し、去勢手術はしていないが女の服装をしている男が男と恋愛するのが同性愛なのだろうか、疑問に思う。人体改造を一切していない男同士が恋愛するのが同性愛、ゲイ本来の同性愛なのかもしれない。
 自然人としての男と女の関係が自然だという主張を絶対的なものとして強制しているのが現代日本社会のようだ。このような社会の在り方に対して人体改造をし、女になった元男と自然人の男との恋愛・結婚も自然なものだとして認めて行こうという社会の動きが出てきたということのようだ。自然人として生まれた男が自分の身体を自然なものと受け入れることができない。そんな男が女性ホルモンを飲む。豊胸手術をする。去勢する。人工的に作った人体として女が自分の自然な身体として受け入れられる人がいる。当たり前な普通の身体として受け入れることができる。そのような少数者がいるという現実がある。この現実を常識として受け入れよう。これが基本的人権の尊重ということなのだと理解した。