「 山里は万歳おそし梅の花」芭蕉 元禄四年(1691)
句郎 この句には「伊陽山中初春」という前詞がある。
華女 「伊陽山」とは、どこにある山なのかしら。
句郎 分からないんだ。調べてみたけれど分からない。場所が分からなければ理解できない句でもないから。
華女 街場から離れた山里と理解すれば、いいのね。
句郎 この句について服部土芳が著した『三冊子(さんぞうし)』の中の「くろぞうし」の冒頭に次のような文章がある。「発句の事は行きて帰る心の味也。たとえば、山里は万歳遅し梅の花、といふ類なり。山里は万歳おそしといひはなして、むめは咲けるといふ心のごとくに、行きて帰るの心、発句也。山里は万歳遅しといふ計(ばかり)のひとへは平句の位なり。」
華女 「行きて帰る心の味」とは、どのようなことを言っているのかしら。
句郎 「山里は万歳おそし」と言い話しただけでは、単に説明しただけ。それでは句にならない。「梅の花」と取り合わせると「山里は万歳おそし」という言葉と響き合って新しい世界が心の中に広がるということなんじゃないのかな。新しい世界が心に広がる言葉群を句という。このようなことだと理解しているんだ。
華女 山里は街場と違って梅の花が咲くころになると万歳師がやって来て、家々を巡り、新年を寿いでくれるということね。
句郎 山里の新年の清々しさは万歳と梅の花が咲くころなんだなぁーという感慨が読者に伝わるということなんだと思う。
華女 そのようなことを芭蕉は「行きて帰る心の味」と言ったということね。
句郎 「行きて帰る心の味」を表現する言葉が俳句だと言っているんだと思う。
華女、俳句は「取り合わせ」だということを言っていると理解していいということね。
句郎 俳句は取り合わせだということは、現代俳句に生きているんじゃないの。
華女 芭蕉の句が現代に生きているということなのね。
句郎 その通りだと思う。山本健吉は『現代俳句』の中で中村草田男の句「冬すでに路標にまがふ墓一基」について「行きて帰る心」が表現されていると述べている。「墓一基路標にまがふ冬来たり」では俳句にはならないと述べている。「冬すでに」と言い放している。これが「行きて」ということ。「路標にまがふ墓一基」が「帰る心」ということのようだ。芭蕉が俳句は行きて帰る心の味と言ったことが現代俳句に生きているということを山本健吉は述べている。
華女 上五の「冬すでに」が読者に何がという問いを発しているのね。
句郎 一里塚のようなものかと見間違いしそうだけれども、良く見ると打ち捨てられたお墓だった。人の世の寒々しさが漂ってくる。
華女 確かに「路標にまがふ墓一基」と言う言葉は「帰る心」になっているわ。「冬すでに」という言葉への答になっているわ。
句郎 何なのと問う。その問に答えるということなのかな。「行きて帰る心」とは、一種の問答なのかもしれないな。
華女 草田男の句、凄いわ。子供のいない私など。私の墓など誰からも見守られることなく、打ち捨てられてしまうと思うわ。「冬はすでに」私には来ているわ。
句郎 人間社会にある人の在り方についての認識を深めように働きが俳句にはあるのかもしれないな。
華女 それが文学と言うものなんじゃないかしらね。
句郎 文学になっている俳句が名句というんだと思う。
華女 人間の真実のようなものが表現されている句が俳句ね。私たちが楽しんで詠んでいる句にもたまには人間の真実のようなものが表現される場合があるのかもしれないわ。
句郎 そうだよね。しかしほとんどの句は単なる遊びの域を出ることはできないのかもしれないな。
華女 まぁー、そうよね。でも俳句らしきものを詠んで楽しめればそれでいいとしたいわ。
句郎 有り余る老後の時間を楽しめれば十分だよね。
華女 そうよね。だから句会などに参加して悪く言われたりして楽しめないということは最悪よ。
句郎 お金もかかるしね。お金をかけて不愉快な気持ちになるようだったら、本当だよ。最悪。