「たんだすめ住めば都ぞ今日の月」芭蕉二四歳 寛文7年(1667)
句郎 若いころの芭蕉はこんな句を詠んでいた。
華女 「たんだすめ」とは、何を言っているのかしら。
句郎 何の意味もない擬音語、オノマトメのような言葉だと思う。
華女 「たんだすめ」とは、「ただ住むだけ」ということを強調しただけということでいいのね。
句郎 そうだと思う。当時、「たんだ振れ振れ六尺袖の しかも鹿の子の岡崎女郎衆」とか、「たんだ振れ振れ六尺袖のしかも鹿の子の振袖模様」と言った俗曲、端唄の歌詞に「たんだ」という言葉が使われていたようだ。町人たちの間で使われていた流行り言葉を借用して芭蕉は句を詠んだということだと思う。
華女 「梅は咲いたか、桜はまだかいな」と言ったような流行り言葉だということなのね。
句郎 「たんだ」という言葉に芭蕉は俳諧を発見したつもりになって詠んだ句なのではないかと考えているんだ。
華女 今でいうと流行語大賞になったような言葉を用いた句が俳諧だと若い芭蕉は考えたということなのね。
句郎 公家や武士が用いていた言葉ではなく農民や町人が使っていた言葉で句を詠むことが俳諧だと芭蕉は考えていた。更に「たんだすめ」の「すめ」、「住めば」の「住め」は「今日の月」が「澄めば」の「澄め」を読者に連想させる。このような言葉遊びが俳諧だと芭蕉は考えていたということなのかな。
華女 掛詞を使って笑わせる句が俳諧だったということなのね。
句郎 紀貫之らが編纂した『古今和歌集』に俳諧歌がある。その冒頭の歌が次のようなものなんだ。「梅の花 見にこそきつれうぐひすの ひとくひとくといとひしもをる」。華女さん、どうですか。
華女 平安時代の花見は桜ではなく梅だったのかしら。
句郎 天平時代の奈良での花見は確かに梅の花だったようだけれど平安時代になって国風文化が自覚されるようになると花見の中心は梅から桜に変わった。この歌は次のように読む。「梅の花、見にこそ来つれ、鶯の人来人来と、厭ひしもをる」。梅の花が咲いたと聞いたので来てみると鶯が人が来た、人が来たと嫌がっている。ただこれだけの歌なんだ。鶯はホーホケキョと鳴く。そのように今の私たちには聞こえる。がしかし平安時代の人々には「ヒトクヒトク」と鶯の鳴き声は聞こえたようだ。梅見に人が来ることと鶯の鳴き声を掛けて笑いを取ることが俳諧歌だった。
華女 掛詞の芸を競い合う遊びが俳諧だったということなのね。
句郎 和歌の世界は平安末期から鎌倉時代にかけて連歌という遊びが公家や武家の間に普及していくでしょ。
華女 連歌とは上の句と下の句とを別々の人が詠み継いでいく文芸の遊びよね。
句郎 その連歌の遊びが興じたものが俳諧の連歌だった。俳諧の連歌の中から俳句というものが生れてきたようだ。
華女、『水無瀬三吟百韻』だったかしら。飯尾宗祇が編纂した連歌集よね。短大のときに習った記憶があるわ。
句郎 宗祇は芭蕉が敬愛した歌人だった。その前に松永貞徳の貞門派の俳諧があり、西山宗因の談林派の俳諧の中から芭蕉の俳諧、蕉風の俳諧が生れてくる。
華女 芭蕉も歴史の子だったということね。
句郎 「たんだすめ住めば都ぞ今日の月」。このような句が生れてくるには長い俳諧の連歌の歴史があったということなのかな。俳諧の連歌の成果の一つが芭蕉のこの句だった。
華女 言葉遊びと笑いの俳諧、談林派の影響下にあった芭蕉の句の一つが「たんだすめ」の句だったということね。
句郎 蕉風俳諧開眼への道を歩み始めた初期芭蕉の句の一つと言うことだと思う。
華女 しかし芭蕉の句には晩年に至るまで談林派俳諧の影響は残っているという話を聞いたことがあるわ。
句郎 そうだよね。『おくのほそ道』に載せてある最後の句、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」。この句には言葉遊びがあるよね。「蛤のふたみ」には「蛤の二身」と二見が浦の「二見」が掛詞になっているよね。ここには談林派の俳諧が残っている。