醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  845号  白井一道

2018-09-09 15:42:01 | 随筆・小説


 「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」芭蕉 貞享元年(1684)



句郎 この句には、「西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋をあらふを見るに」という前詞がついている。
華女 芭蕉は西行の歌をこのようなものだと理解していたということなのね。
句郎 谷合を流れる川で芋を洗う女を見たなら西行は歌を詠まずにはいられないだろうと芭蕉は思ったんだろう。
華女 「芋洗ふ女」に西行だったら間違いなく詩を発見したに違いないということね。
句郎 「芋洗うふ女」に芭蕉は女の美というか、実在感のようなものを感じたんじゃないかと思う。岩波文庫『芭蕉紀行文集』に収められている「野ざらし紀行」の中に「芋洗ふ女」の句が載せてある。そこに次のような注釈がある。「西行は、天王寺詣での途次、江口の里の遊女に一夜の宿を所望したところ断られた。そこで、「世の中を厭ふまでこそ難(かた)からめ仮の宿りを惜しむきみかな」という歌を詠んだところ、この遊女はすかさず「世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」と読み返してきた」とね。しかしこの注釈はピントを外している。そのように感じる。芋洗う女の実在感と遊女の実在感は違っているように思う。
華女 確かに「芋洗ふ女」には生活感がにじみ出ている。その生活感が遊女の生活感とは違っているように感じるわ。
句郎 そうだよね。遊女の生活感には性的な匂いがあるが、農民であろう「芋洗ふ女」には母性的な愛の匂いがあるように思う。
華女 日々の生活の実在感ね。それが「芋洗ふ女」のどっしり感ね。遊女の生活感には儚さのようなが漂うわ。
句郎 石田波郷の句に「六月の女すわれる荒莚(あらむしろ)」がある。この句にある「六月の女」に匹敵する実在感があるように感じているんだ。
華女 この句は十五年戦争直後の焼け跡・闇市の世界を表現している句ね。
句郎 ここには生活に負けない女の逞しさのようなものが表現されているように感じる。
華女、生活に負けない女の強かさね。そこに女の実在感があると言いたいわけね。
句郎 「芋洗ふ女」にも「荒莚に座る女」にも厳しい生活に耐え抜く力があるように感じるな。
華女 白粉の匂いのしない女よ。ここにこそ、人間としての女は強いのよ。その強さが芭蕉の句にも、波郷の句にもあると句郎君は言いたいわけね。
句郎 その通り。そうなんだ。
華女 波郷もまた芭蕉の俳句精神のようなものを継承していると言いたいわけなのね。
句郎 実はそうなんだ。例えば波郷の「立春の米こぼれをり葛西橋」や「百万の焼けて年逝く小名木橋」という人に知られた句があるでしょ。これらの句について堀切実は『現代俳句に生きる芭蕉』の中で「波郷が、芭蕉から学んだ俳句の詩精神を具体的に示した句」として紹介している。
華女 芭蕉の「俳句の詩精神」とは、どんなものなのかしら。
句郎 「芋洗ふ女」の「情景」に感応する芭蕉の「心境」に「俳句の詩精神」を波郷は見たのではないかと思っている。堀切実の主張を私はこのように理解した。
華女 波郷は俳句の「韻文精神」ということを言ったのじゃないの。
句郎 波郷は「韻文精神」ということを説明した文章を残していないようなんだ。波郷は実作した作品によって「韻文精神」ということを示したようだ。
華女 どのような作品に「韻文精神」が表現されているのかしら。
句郎 「わが胸の骨息づくやきりぎりす」や「早春や道の左右に潮満ちて」。これらの句には「古典にならった格調高い表現法」が屈指されていると堀切実は述べている。
華女 これらの句は芭蕉に倣っているということなのかしら。
句郎 芭蕉に「白髪抜く枕の下やきりぎりす」という句があるでしょ。この句と波郷の句「わが胸の骨息づくやきりぎりす」。波郷は芭蕉の句を継承していると言えるように考えられるでしょ。
華女 わが命に対するドキドキ感が芭蕉の句にも波郷の句にも感じられるわね。キリギリスと呼応いる命ね。