醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  850号  白井一道

2018-09-14 11:45:57 | 随筆・小説


 西村賢太著 「苦役列車」を読む


     
 芥川賞受賞会見で西村は次のようなことを語った。
 「自分よりだめな人がいるんだなと思ってもらえたら、まあおこがましいけど、ちょっとでも救われた思いになってくれたらうれしいですね、書いた甲斐があるというか。それで僕が社会にいる資格があるのかなと、首の皮一枚、細い糸一本で社会とつながっていられるかな、と本当に思いますね。」
 こう西村は述べ、底辺で働く人との連帯を求めた。一方、現在の日本社会は西村が書くような小説を求めている。この求めに応じて西村は「苦役列車」を書いた。西村は収入を得るため、生活のため、書きたいから書いたに違いない。西村は現在の日本社会からの要請を自覚して書いたわけではないだろう。しかし結果的に西村の小説は現在の日本社会からの要請にこたえることになったのである。
西村が書いた小説「苦役列車」は芥川賞を受賞した。この芥川賞を受賞したということは、社会の要請に西村が答えたと認められたということを意味している。西村は「書いた甲斐があった」のだ。
 高校進学率が九十パーセントを超える時代に中学卒の作家が芥川賞を受賞した。社会的な事件である。NHKのニュースでも中学卒という言葉を添えて報じられた。自分よりだめな人がいることによって心を癒してくれる人がいたら、社会にいる資格があるのかな、と西村ははっきりと小説を書いたことによって社会に貢献できたら、と心のうちを披瀝している。
 年収二百万円以下の人々がおよそ一千万人いるといわれている。ワーキングプアと呼ばれる人々である。毎日、真面目に仕事をしても貧しさから抜け出せない人々である。偶然居酒屋で隣に座った人がいう。毎日、女房と二人、朝から晩まで働いても生活できない。だから店を閉めたんだ。本当に売れなくなった。酒屋が良かったのは八十年代までだった。九十年代に入ると町の小さな酒販店ではやっていけなくなった。ディスカウントの大型店が続々出店してくる。ビールの安売りが始まる。小さな酒販店は淘汰されていく。働き盛り、五十前後の男の愚痴を肴に酒を酌んだ。
 このような男の心を癒す小説がほしい。このような社会的要請が醸されている。この社会的要請にこたえて登場してきたのが西村賢太の小説であった。毎日心を傷つけられて生きている人々を癒すのは笑いである。「苦役列車」は面白い。この小説は最初、雑誌「新潮」に掲載された。テレビのコメンテーターとして出てくる元週刊新潮の編集長であった中瀬ゆかりは西村の小説をすべて読んでいると言う。西村の小説は面白いと真っ赤な口をほころばせ、満面の笑みを浮かべて話す。小説家は学歴じゃありません、と隣に座っていた小説家岩井志麻子は発言し、「才能」です、という。きっと西村は小説家としての才能があるのだろう。
 作者は「苦役列者」を次ぎのように書き出し始める。
「曩時北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思い切りよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上に再び身を倒して腹這いとなる。」
「曩(のう)時(じ)」、この漢字熟語を私は読めなかった。初めて見る熟語だ。この言葉を知らない。私が読んだハードカバーの本にはルビがふっていなかった。調べるのも面倒だったのでそのまま読み進んだ。のっけから読めない漢字にパンチをくらった。難しい漢字を知っているんだなとビックリした。「年百年中」、この熟語も読めない。「年(ねん)がら年中(ねんじゅう)」と勝手に読み進んだ。今でも正確には何と読むのか解らない。「後架」、この熟語は「こうか」。読める。意味も知っていた。便所と書かず、「後架」と書く理由が解らない。私だったら「便所」と書く。
 この文章を書くため「曩時」を調べた。「曩」は背嚢(はいのう)の曩の字に似ているなと思い「曩(のう)時(じ)」と当たりをつけて広辞苑を開いた。広辞苑には「曩時」を「さきの時」、「以前」と説明していた。私だったら「そのころ北町貫多の一日は、…」と書きはじめるだろう。なぜこのような漢字を使うのか、その理由を読者は想像する。中卒者の劣等意識がこのような漢字を書かせるのかと余計な想像が働く。「年百年中」、簡明に読めるようになぜ書かないのか。「朝勃ち」。この言葉は広辞苑には載っていない。俗語として広く知られている。このような俗語を使用するところにこの小説の特徴がある。
 『文芸春秋三月号』、受賞者インタビューを読むと藤澤淸造という大正から昭和初期の私小説家に西村は私淑しているという。この作家の文に似せて小説を書いているため西村はこのように今ではほとんど使われない言葉、漢字熟語を用いるのかなと想像する。だから初めて読み始めると漢字熟語に違和感を覚える文章に出くわす。この違和感が苦にならなくなると面白い。この面白さはどうだいい文章だろうが、という気持ちになって書いている作者に対して読者はピンときませんよ、というような微笑ましい笑いである。
「藤澤淸造」という私小説家を始めて知った。今まで本屋で見たためしがない。聞いたこともない。西村がNHKBSの週刊ブックレビューで話すのを聞いて初めて知った。その後、川西政明著「新・日本文壇史・第四巻・プロレタリア文学の人々」を見た。その著書の第二十一章は「忘れられた作家たち」である。その中で藤澤淸造を紹介している。藤澤淸造が一般的にプロレタリア文学の作家として認められているのか、どうか解らないが藤澤淸造についての川西の説明を読んで、この作家をプロレタリア文学の作家とすることに違和感を覚えた。貧苦と病苦を書いた作家のようだ。貧苦を書けばプロレタリア文学といえるのか、どうか疑問である。
「苦役列車」の最後、友を失い、日雇いの仕事場からさえも出入りを禁止された貫多は肌身離さず藤澤淸造の小説をポケットに入れ、読んでは心を癒した。このように藤澤淸造の小説が作者の心に沁みる。西村は小説「暗渠の宿」の中で藤澤淸造の文体に似せて書いていると吐露している。「年百年中」という言葉を藤澤淸造が使っているのを知り、真似て書いているのだろう。西村はこの熟語「年百年中」が気に入って、どうだと言っているように感じる。「便所」と書かずに「後架」と書く。こう書くことによって大正末期から昭和初期の文体に新しい命を吹き込んだと作者は考えているのだろう。この試みが成功しているのか、どうかはこれからの読者が決めることであろう。この文体に慣れた私にとっては新鮮な面白さがあった。
「しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思い切りよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上に再び身を倒して腹這いとなる。」と段落をかえて「しかし」と書きついでいく。
「しかし」は息つぎの「しかし」だ。一般的に言えば、接続詞「しかし」を一息つくために書くことは文章の力を弱める。
「…無理矢理角度をつけ、」「…放ったのちには、」「…よいものを、」「…自室に戻ると、」「…腹這いとなる。」一段落が一文になっている。実に冗漫な長い文だ。この冗漫な長い文章に貫多の怠惰な意識の流れがある。この意識の流れに文学的新鮮さがあるのかもしれない。一方、怠惰な若者に対する蔑みの気持ちを読者に起こさせる。この若者の意識、怠惰で無気力なのに旺盛な性欲、勃起した心の始末に戸惑っている。この北町貫多の意識の流れが面白い。
 この面白さの秘密は西村が徹底的に自分を対象化しているところにある。「そのまま傍らの流し台で思い切りよく顔でも洗ってしまえばよいものを」と自分を決して弁解しない。自分を突き放す。読者は北町貫多の意識の流れをなぞっていく。読者が主人公となって読み進んでいくわけではない。読者が主人公に共感することはあっても、主人公にはならない。ここにこの小説の構造の仕組みがある。貫多を馬鹿だな、うじうじした男だな、と笑うことができる。自分よりだめな人だな、と思うことができる。ここにこの小説の面白さがある。同じような境遇に生きる若者にとって共感すると同時に突き放すことができ笑うことができる。この笑いの面白さが読者を飽きさせないで最後まで読ませる力なのだろう。
 最底辺に生きる若者の風俗の面白さとその生活を笑うだけの小説として「苦役列車」を解釈してはいけない。この小説は現代日本社会を批判している。この小説にある社会への批判性を評価したい。
 石原慎太郎は選評で次のように述べている。
「この作者の(どうせ俺は……)といった開き直りは、手先の器用さを超えた人間のあるジェニュインなるものを感じさせてくれる。
超底辺の若者の風俗といえばそれきりだが、それにまみえきった人間の存在は奇妙な光を感じさせる。中略 この豊饒な甘えた時代にあって、彼(西村)の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である」
 この石原新太郎が「選評」で言っていることは、超底辺に生きる若者の風俗、それだけなんだけれども、そこに生きる若者に人間の真実を感じる。作品の身体性を感じる。このようなことを言っているのではないかと思う。石原の「苦役列車」に対する基本的認識は「超底辺に生きる若者の風俗、それだけ」の小説ということである。
 和田逸夫は民主文学六月号{「働く」ことと「生きる」こと}という評論で次のように書いている。
「この豊饒な甘えた時代にあって、彼(西村)の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である」と石原新太郎が「選評」で示した認識は、反面、的を射ている。最底辺の下にまだ「超底辺」がいるということで慰藉させられる読者が、この「豊饒な甘えた」今日の社会の中で、不満も疑問も抱かず、自ら置かれた状況をひたすら甘んじて受け入れるというなら、この階級社会のヒエラルキーの頂点近くに立つ者たちには、確かに得がたい貴重な作品たりえよう。」
 和田は石原の「苦役列車」に対する認識に同意を表し、この石原の認識に従い、底辺社会に生きる人々の心を癒すだけの小説、何ら現実社会に対する批判意識を生むことのない小説だと批評している。
 石原の「苦役列車」についての認識は、間違っている。重要なところを見落としている。最底辺に働く若者の風俗の面白さにこの小説の本領ではない。この小説の本領はお金に縛られて働く現代の奴隷のような労働であっても仲間ができれば生き生き働くことができる。ここにある。ここを見落としている。石原は忙しい時間を割いてきっと一度さっと読んだだけなのだろう。この石原の認識を評価した和田の認識も間違っている。更に和田は次のように書き継ぐ。「豊饒な甘えた」今日の社会と和田はいう。「豊饒な甘えた」今日の社会とはどのような社会をいうのか何の説明もないので分からないが、社会の底辺に生活する人々は豊饒な甘えた社会に生きてはいないだろう。甘えちゃいけないと厳しく規律されている。これが現実である。「不満も疑問も抱かず、自ら置かれた状況をひたすら甘んじて受け入れるというなら」という条件を和田自身が入れて、この小説に対する批評をしている。がしかし、この小説の主人公貫多は不満も疑問も抱き、自ら置かれた状況をひたすら甘んじて受け入れてはいない。受け入れざるを得ない状況に生きているということである。「…なら」という条件を入れて解釈しているところに和田の「苦役列車」に対する評価の弱さがある。確かにこの小説の面白さ、笑いに心が奪われかねない危険性があるように思う。ここに石原もこの作品の身体性があると理解している。この点に私は異議を感じる。
「苦役列車」の主人公北町貫多は「豊饒な甘えた」時代のピカレスクではない。父親が猥褻罪で逮捕される。テレビ番組ウィークエンダーで父親の事件が面白おかしく放送される。両親が離婚する。母親と姉・貫多は近所の人々が寝静まった夜、ひっそりと生まれ育った家を後にする。親の事件に打ちのめされた少年がそこにいる。中学を卒業すると母からも離れ、十六歳の少年は家を出て自立する。誰にも心を開くことなく、暗くうつむいて生きる少年はその日の生活の糧を得るため日払いの仕事を求め、東京の街をさまよう。この少年が何でピカレスクなのだろう。この少年が犯罪者の手先となり、盗みをする。俺オレ詐欺の仲間になる。暴力団の使い走りにでもなればピカレスクといえよう。しかし北町貫多は真面目に働き、日銭を稼ぎ、生きている。
 豊饒な甘えた社会のピカレスクとは進学エリート高の少年が劣等感に陥り渋谷のヤクザの手先になったりすることであるだろう。湘南海岸でヨット遊びに興じ、「狂った果実」の少年になったのは「豊饒な甘えた」時代のピカレスクであったであろう。親や学校などの善意に頼って遊びほうける少年たちである。しかし、北町貫多は豊饒な甘えた境遇に生きていない。回りの人の善意に頼ることのできない厳しい社会の荒波に放り出された中学卒の少年である。中学卒の少年や少女が金の卵と云われたのは三十年も前のことである。父親が性犯罪者であるという劣等意識を背負った中学生貫多は父親と自分は別人格だといわれてもこの劣等意識に耐えるにはまだ貫多にその力は備わっていなかった。劣等意識に心を奪われた貫多は中学校の生活を真面目におくることができなかった。そのため貫多は中学校での進路指導・就職紹介を希望することができなかった。教師もまた特に進路に関する相談を持ちかけることもなかった。劣等生に対し学校は冷ややかである。中学からの紹介もなく、親の援助もなく社会に放り出された十六歳の少年がアルバイト情報誌で見つけた仕事、履歴書も、保証人も必要とせず、収入を得る道は日雇い人夫以外になかった。
 貫多は自問する。三十キロの凍った蛸やイカを艀から冷凍庫へ、出荷用に冷凍庫から台車へと積み替える仕事に出て行こうか、行くまいか悶々とする。優柔不断な若者がここにいる。アルバイト、パート、派遣労働を発注する企業が派遣会社に支払う費目は物件費である。物件費とはコピー用紙やインク、ボールペンのような消耗品費のことである。派遣元の企業は派遣労働者を人間として見ていない。まさに現代に生きる奴隷労働が日雇い人夫や派遣労務者の労働なのだ。ウォーターフロントに立ち並ぶ巨大な倉庫での単純肉体労働は中世の奴隷労働のようなものだと貫多は感じている。この労働を貫多は嫌がっているのだ。尽きることのない単純肉体労働、永遠に続く果てしない苦役として貫多は感じている。カミュが「シジフォスの神話」で書いている。巨岩をシジフォスが山頂に運び上げると岩は自らの重みで谷底に転げ落ちる。それをまたシジフォスは山頂に運び上げる。するとまた、岩は自らの重みで谷底に転げ落ちる。そのような苦役として凍った蛸やイカを運び出すことを感じている。賽の河原で石を積み上げては鬼に壊され、また石を積み上げるような徒労としてしかこの労働が感じられない。苦役としてしか感じられない労働をしたあと心と体を癒してくれるものはお酒と女、そんな生活の中にあっても友人ができると奴隷のような仕事であっても出勤するか、どうか、自問することなく体が朝起きると出勤態勢になる。どのような労働であっても仲間ができると、労働そのものが厭わしいものではなくなってくる。ここにこの小説の本領がある。
 フォーリフトの運転作業をするため免許も無料で取らせてもらえる予定になる。がここで仲間の一人が運転練習中に足指を二本切断する事故を起こす。家族を持つ怪我をした仲間を思い、暗い気持ちに貫多はなる。労災保険も何の保障もないフォークリフト運転作業に貫多は物怖じする。フォークリフト運転免許を取ることに躊躇した貫多は運転免許取得を遠慮する。このように貫多はこの仕事のあり方に疑問をもち、不満も持つのだ。
 こうして日雇い人夫の労働が苦役以外の何者でもないということを西村賢太は体験的に告発している。現日本社会の最底辺に生きる者にとっての人生とは苦役を強制される列車に乗っているようなものである、と告発している。ここにこの小説の力がある。この小説は最底辺に位置する派遣労働のルポとしても読むことができる。


 この文章は西村氏が芥川賞を受賞した時に書いたものである。