醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  863号  白井一道

2018-09-26 12:48:45 | 随筆・小説


  「月ぞしるべこなたへいらせ旅の宿」  芭蕉21歳 寛文2年(西暦1667年)


句郎 「月ぞしるべこなたへいらせ旅の宿」という芭蕉二一歳の時の句が知られている。西暦一六六四年の作。私はこの句を読み、芭蕉は若かったころから旅への憧れがあったのかと想像した。この句は全くの想像しただけの句ではないかと思う。
華女 芭蕉には旅の経験がまだなかったのかしら。
句郎 江東区芭蕉記念館が出している芭蕉年譜によると寛文2年、芭蕉19歳前後に藤堂藩伊賀付侍大将藤堂新七郎良精(よしきよ)の嫡子良忠に武家奉公人として芭蕉は仕
えている。芭蕉が仕えた藤堂良忠が蝉吟(せんぎん)という俳号を持つ俳人だった。二歳年上の主君蝉吟から芭蕉は俳諧の手ほどきを受けた。
華女 耳学問でいろいろ俳諧についての知識を得たということね。
句郎 芭蕉の主君蝉吟の師が京の北村季吟だった。蝉吟の句を携え芭蕉は伊賀上野から京の季吟の下へ向かったことが度々あったと考えている。伊賀上野から京までは案外近い。強行軍をすれば、日帰りできる距離のようだ。
華女 伊賀上野というのは三重県よね。そんなに近かったかしら。
句郎 山一つ越えると京都のようだよ。芭蕉は京へ行った帰り道月明かりを道標として伊賀上野への道を急いだんじゃないのかな。
華女 「月ぞしるべ」とは、月明かりが道標だったということね。
句郎 街道筋の旅籠の女将から「お宿いかがです」というような言葉をかけられている風景を若かった芭蕉は見た経験があったのかもしれない。
華女 芭蕉自身も呼び込みの言葉をかけられた経験があるんじゃないのかしら。
句郎 身なり、出で立ちを見をみられて芭蕉はどうだったのかと思うとなかったように思っているんだけど。
華女 そんな旅籠への呼び込みを受けてみたいなぁーという気持ちを詠んだ句だということなの。
句郎 旅籠への呼び込みを見て、薄暗くなっていく心細さのような気持ちをどのように表現すべきか、混沌とした心の中を整理することなしには、表現できないことに芭蕉は気が付いたのではないかと思う。
華女 人間の気持ちというのは整理するとなしには自分の気持ちを表現することはできないわね。
句郎 整理され、秩序立てられた言葉を芭蕉は謡曲の台詞に発見した。
華女 当時、謡曲というのが流行していたのね。
句郎 下級武士たちの慰みとして楽しむことができた。芭蕉も武家奉公人として謡曲に接する機会があったんじゃないかと思っているんだ。
華女 どんなものに題材をとった謡曲があるのかしら。
句郎 一つは源平合戦を題材にしたものとかが流行っていたんじゃないのかな。だから芭蕉は義経や木曽義仲が好きになった。そんな謡曲の一つに義経の幼少期牛若丸を表現した謡曲『鞍馬天狗』がある。その中の一節に「奥は鞍馬の山道の、花ぞしるべなる。此方へ入らせ給へや」がある。この言葉を借用して「月ぞしるべこなたへいらせ旅の宿」と詠んだ。
華女 芭蕉は謡曲の台詞を使って句を詠んだのね。

醸楽庵だより  862号  白井一道

2018-09-26 12:48:45 | 随筆・小説


  「秋風の鑓戸の口やとがり声」  芭蕉24歳 寛文7年(西暦1667年)


句郎 「秋風の鑓戸(やりど)の口やとがり声」という芭蕉二四歳の時の句が伝わっている。西暦一六六七年の作のようだ。私はこの句を読んだ時、雨戸の戸袋で女将さんが怒鳴る高い声を想像した。使用人を怒るとがり声かな。ゴミゴミした下町の街角に聞こえる狭い路地が想像された。
華女 「とがり声」という言葉が町人を想像させるのよね。なぜか男じゃなく、痩せた中年の女の声なのよね。
句郎 「とがり声」が表現する人は女の人であり、生活経験のある女性というイメージだよね。この女性は武家の女性でもなく、ましてや公家の女性では絶対ない。町人の女だよね。
華女 和歌が表現する女性は公家の女性じゃないのかしらね。
句郎 百人一首「あらざらむ このよのほかの おもひでに いまひとたびの あふこともがな」。和泉式部の歌が表現している女性は公家の女性だよね。平安時代の平民が女性がこのような歌を詠むはずがない。当時の庶民は文字を読めなかっただ
ろうし、もちろん文字を書くことなどできなかった。
華女 公家の女がとがり声を発することはないでしょう。静かに心の中にある気持ちを赤裸々に言うことはないように思うわ。
句郎 「とがり声」は赤裸々な気持ちを表現する言葉だよね。
華女 赤裸々に気持ちを表現する言葉に芭蕉は人間を発見したのかもしれないわ。
句郎 気持ちを内に秘める言葉に美しさを見る公家の美意識に対して赤裸々な気持ちを表現する言葉に芭蕉は美を発見したからこそ、「秋風の鑓戸(やりど)の口やとがり声」という句が生れたんだろうね。
華女 元禄時代になり、町人たちの経済力が武士をも凌ぐようになると公家や武士と同じように町人にだった高貴な心があるという気持ちが生れてきていたということなんでしょうね。
句郎 町人にも時間的な余裕が生まれたということなんじゃないのかな。
華女 平民というか、庶民に余暇が生れたということが俳諧を楽しむ町人出てきたということなのね。
句郎 古代ギリシアは奴隷制社会だったと言われている。だからポリスの市民には余暇があった。生産的な体を動かす仕事はすべて奴隷にさせていたからね。
華女 大学に入ったころかしら、school の語源は古代ギリシアの言葉schola余暇からきている教わったことを覚えているわ。
句郎 江戸時代の一部町人や豪農に余暇が生れたことが自分たちの文芸として俳諧を発展させたということなんだと思う。単なる笑いの文芸に過ぎなかった俳諧を文学にまで高めたのが芭蕉だったと考えているんだ。
華女 二四歳の若者であった芭蕉は公家や武士の文芸であった俳諧の連歌から俳諧を独立した文学にまで高めたということなのね。
句郎 余暇を創って勉強をして俳諧の連歌を学び、俳諧を詠んだ。俳諧が文学へと生成していく過程の句の一つが「秋風の鑓戸(やりど)の口やとがり声」なんだと思う。この句には人間の表現がある。