「蜻蜒(とんぼう)やとりつきかねし草の上」芭蕉 元禄三年(1690)
句郎 この句には凝縮した命の輝きのようなものを感じる。芭蕉がじっと蜻蛉を見つめている視線の先に震える命がある。
華女 生きることへの緊張感よね。
句郎 「物に入りて、その微の顕れて情感ずるや、句となる所なり」と芭蕉は述べていたと『三冊子』にある。蜻蛉が羽を震わせて一か所にとどまり草の葉の水滴を吸おうとしている。この蜻蛉の姿をじっと見て、感じたことが句となったということなんだろうな。
華女 トンボの姿を見て感じたことが句になるということなのよね。
句郎 蜻蛉の飛ぶ姿に自分の姿を発見するということだと思う。
華女 封建性社会、身分が厳しく規制されている社会に芭蕉は生きていたのよね。今では考えられないような言論の規制があった社会に生きていたのよね。
句郎 句を詠むということが誰かを傷つけるということがあってはならないという厳しい規制を芭蕉は自分に課していたと思う。
華女 切り捨て御免ということがまかり通った社会だったんでしょう。
句郎 日頃の行い、言動に緊張があった。この緊張感が芭蕉の言葉には反映しているのじゃないかと思う。
華女 トンボが草の葉に止まろうとして止まることができないでいるその緊張感ね。
句郎 このようなことを加藤楸邨は「真実感合」と言ったのではないかと思う。
華女、加藤楸邨は芭蕉の俳諧精神のようなものを継承しているということなのかしら。
句郎 例えば楸邨の句「物の葉にいのちをはりし蜻蛉かな」という句がある。この句は芭蕉の句を詠っていないだろうか。
華女 加藤楸邨は「人間探求派」と言われた近代の俳人よね。
句郎 「寒雷」という俳句結社の創立者かな。
華女 「寒雷やぴりりぴりりと真夜の玻璃」という句から「寒雷」と俳誌の名が生れたのかしらね。
句郎 加藤楸邨は何回も『奥の細道』を読んでいるようだからね。
華女 楸邨にとって『奥の細道』は枕頭の書だったのね。
句郎 堀切実著『現代俳句に生きる芭蕉』を読むと楸邨の句には芭蕉が生きているということを述べている。
華女 「真実感合」とは、客観的なものと主観的なものが一体化ものというようなことでいいのかしら。
句郎 草の葉の前で蜻蛉が羽を震わせている姿の真実とは、草の葉に止まろうとして止まれない。この事実にある真実とは何かということなんだろうな。真実とは人間の事実に対する認識だよ。認識とは主観だよ。
華女 「真実感合」とは、客観的な事実を見てその事実の真実を明らかにするということなのね。
句郎 そうだと思う。俳句とは事実を見て、その事実の真実を探求した営みの結果が俳句として誕生するということだと思う。
華女 じゃぁー、客観と主観の合一ということは、真実を得たということね。
句郎 その真実が読者に納得して受け入れられるか、どうかということだと思う。読者がそうだ、そうだと納得して受け入れてくれるならその真実は真実なのかもしれない。
華女 「蜻蜒(とんぼう)やとりつきかねし草の上」と詠んだ芭蕉の句に私も句郎君と同じような命の躍動を感じるわ。危険と戦っている緊張感のようなものね。
句郎 そう、楸邨も「物の葉にいのちをはりし蜻蛉かな」と詠んで物の葉に止まるということが命の輝きだと認識ということだと思う。
華女 芭蕉の句は、草の葉の前で勇気を奮っている姿を蜻蛉に見ているのよね。この勇気を奮う姿に真実を見ているということね。
句郎 危険だと気持ちと戦うことに真実があるという認識を得たということなのかな。その認識は芭蕉の主観だよ。
華女 楸邨は蜻蛉が草の葉に止まって露を吸う姿に命の輝きを発見した。この発見が句になったということなのよね。
句郎 俳句を詠むということは真実を発見すること、真実を究明すること、そのようなことだということを芭蕉は俳句を詠んで明らかにしたということなんだろうと考えているんだ。