醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1304号   白井一道

2020-01-20 13:05:06 | 随筆・小説



   
  徒然草129段   顔回は志、人に労を施さじとなり。



原文
 顔回(がんくわい)は、志、人に労を施さじとなり。すべて、人を苦しめ、物を虐(しへた)ぐる事、賤(いや)しき民の志をも奪ふべからず。また、いときなき子を賺(すか)し、威(おど)し、言ひ恥かしめて、興ずる事あり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身に沁みて、恐ろしく、恥かしく、あさましき思ひ、まことに切なるべし。これを悩まして興ずる事、慈悲の心にあらず。おとなしき人の、喜び、怒り、哀しび、楽しぶも、皆虚妄(こまう)なれども、誰か実有(じつう)の相に著(ぢやく)せざる。

現代語訳
 孔子の弟子、顔回(がんくわい)は人に苦労をかけまいと心がけていた。普段、人を苦しめ、物をぞんざいに扱う事、下賤な者たちの気持ちを無視することはしてはならない。またあどけない子の機嫌をとり、脅かし、からかい辱めて笑いをとることがある。分別ある大人は本心ではないのでたいしたことではないと思うが、幼き子供にとっては身に沁みて恐ろしく恥ずかしく生々しい思いはまとこに切なるものなのだ。この子供の心を悩ませるようなことして面白がることは慈悲の心ではない。分別のある大人の喜び、哀しみ、楽しみはすべて見せかけの事であるけれども本当の事だと誰も思わないと言えようか。

原文
 身をやぶるよりも、心を傷(いた)ましむるは、人を害(そひな)ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少し。薬を飲みて汗を求むるには、験(しるし)なきことあれども、一旦恥ぢ、恐るゝことあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて白頭の人と成りし例、なきにあらず。

現代語訳
 体を悪くするより心を病む方が人の健康を損なう事、甚だしい。病を得ることも多くは心の病からである。外から受ける病は少ない。薬を飲み、汗をかき、効果がないこともあるが、一旦はどうしたことかと恥じたり、恐れたりすることもあるが、必ず汗を流すことは心の影響であることに気が付くべきだ。凌雲の額を書き、恐怖のために白髪頭になった人がいることはなきにしもあらずだ。

醸楽庵だより   1303号   白井一道   

2020-01-18 10:54:41 | 随筆・小説

 
  
 徒然草128段『雅房大納言は』



原文
 雅房大納言(まさふさのだいなごん)は、才賢(ざえかしこ)く、よき人にて、大将(だいしやう)にもなさばやと思しける比、院の近習(きんじゆ)なる人、「たゞ今、あさましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を斬り侍りつるを、中墻(なかがき)の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、憎く思しめして、日来(ひごろ)の御気色(みけしき)も違ひ、昇進(しやうじん)もし給はざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言(そらごと)は不便なれども、かゝる事を聞かせ給ひて、憎ませ給ひける君の御心は、いと尊き事なり。

現代語訳
 雅房大納言(まさふさのだいなごん)は、才能の溢れた善い人なので、大将にもなるのではと思われていたころ、亀山法皇に仕える人が「ただ今、あさましきことを見て参りました」と言うので亀山法皇が「何事だ」と聞いたところ「雅房卿が鷹の餌のため、生きている犬の足を斬られるところを隣との垣根の間から見ました」と言うの聞き、亀山法皇は気味悪く、憎らしく思ったのか、日頃の機嫌をそこね、雅房大納言を昇進させなかった。あれほどの人が鷹を飼っているとは思いもしなかったけれども、犬の足を斬ったことは根拠のないことだ。嘘を言われて昇進できなかったことはお気の毒であったが、亀山法皇がこのような事をお聞きになり、犬の足を斬るようことを憎む亀山法皇のお気持ちは大変尊いことだ。

原文
 大方、生ける物を殺し、傷め、闘はしめて、遊び楽しまん人は、畜生残害の類なり。万の鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、嫉(ねた)み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜しめること、偏へに愚痴なる故に、人よりもまさりて甚だし。彼に苦しみを与へ、命を奪はん事、いかでかいたましからざらん。

現代語訳
 大方、生き物を殺し、傷つけ、闘わせて遊び楽しむ人は畜生と同類の者だ。万の鳥獣、小さな虫までも心にとめている有様を見るにつけ、子を思い、親を大切にし、夫婦一緒に妬み、怒り、欲深く、体を大事にし命を惜しむこと、人間より偏に愚かであるが故に強く甚だしい。それらのものに苦しみを与え、命を奪う事、いかに痛ましいことであろうか。

原文
 すべて、一切の有情を見て、慈悲の心なからんは、人倫にあらず。

 すべて、一切の生物を見て、慈悲の心のないものは人間ではない。



 仏教の不殺生戒について   白井一道
不殺生(アヒンサー)を仏教が主張する理由は、 自他の生命(いのち)を大切に生きるということのようだ。
 仏教の戒律とは、悟りを求める修行の過程で自発的に守ろうとする戒めのことである。
 ①不殺生戒、殺してはいけない。
 ②不偸盗戒、盗んではいけない。
 ③不邪淫戒、不道徳な性行為を行ってはならない。
 ④不妄語戒、嘘をついてはいけない。
 ⑤不飲酒戒、酒を飲んではいけない。
 これらの戒律は人間が自然の一部であると自覚せよと教えている。人間は自然に生かされている。自然を受け入れよと仏の声を聴けというのが、五戒であろう。自然と共生せよという教えが不殺生戒である。人間は人間を殺すようなことをするはずがないということが仏教の教える人間観なのである。人は人と仲良くすることに人間の真実があるという教えが仏教なのだ。
 「不偸盗戒」とは、人間の真実が分かって来るならそのようなことがあるはずがない。盗むということが現実にあるということは、その人間がまだ人間の真実に目覚めていないということなのだ。人間の真実を知れと教えている。

   

醸楽庵だより   1302号   白井一道

2020-01-16 11:51:04 | 随筆・小説


 徒然草127段 改めて益なき事は、
原文
 改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり。


現代語訳
 改めて悪くなることは、改めないほうがいい。


 今、改めて悪くなることを安倍政権はしている。  白井一道

 政府は水道法の一部改正をしました。その理由を次のように説明している。
「人口減少に伴う水の需要の減少、水道施設の老朽化、深刻化する人材不足等の水道の直面する課題に対応し、水道の基盤強化を図るため、水道法を改正しました」。
 本当に水道の基盤強化になるのだろうか。疑問が出されている。
 「上水道事業を行っている地方公共団体が、運営権実施契約(運営権契約、コンセッション契約)により契約の相手方である民間事業者に数十年の期間で運営権を設定、民間事業者側は運営権対価を支払い、水道施設運営等事業を行う、というのが基本的な構造である。
 事業の主な収入は当然のことながら水道料金であり、これを自己収入として、自らのリスクを取りながら事業、つまり水の供給・水道施設の維持管理・保守、場合によっては施設更新等を行うことになる。

 別の言い方をすれば、水道料金で人件費等のコストを賄い、収益を出す事業。したがって、それに見合った料金設定とするとともに、収益を減らしたり、ましてや赤字が出るといったことがないように、人件費も含めてコストを適正化することが重要となる。
 そして、まさにここが水道コンセッションの問題点なのだ。
 すなわち、通常の維持管理や保守コストが当初の予想以上にかかってしまった場合、あるいは自然災害が起きて水道管が破損したり、浄水場の機能に不具合が生じたりして想定外の多額の費用が必要となった場合。公的資金を入れないという前提に立てば、削減できるコストを削減するか、一時的なものも含め料金を引き上げることをしなければ、こうした不測の事態によって生じた赤字を解消させたり、収益性を安定させたりすることは極めて困難であろう。
 もちろん、不測の事態に備えて、過去の災害発生データも参照しつつ、必要と思われる額の積立金等を用意しておけば、対処できる場合もありうるだろう。しかし、最近の気象状況変化や自然災害の発生状況を踏まえれば、そうした想定が容易に覆される可能性は大いにある。
 つまり、杓子定規に考えれば事業者にとってもリスクが高く、軽々に参入できる事業ではないはずであるということである。
 しかし、それはあくまでも杓子定規に考えた場合の話である。」  
「水道法改正が「民営化」でないばかりかタチが悪い理由」より    室伏謙一

醸楽庵だより   1301号   白井一道  

2020-01-15 11:04:18 | 随筆・小説



 世界史から現代社会を考える 「産業革命が資本主義経済を生んだ」



 資本主義という経済の仕組みは魔法の如きもの。
 お金が循環するとお金は自己増殖する。資本主義経済は魔法の仕組みだ。
お金が自己増殖するのは資本主義経済だからである。お金が循環する仕込みを作るとお金は自己増殖していく。だから銀行にお金を預けると利子が付く。勿論、お金の循環に異変が生じ、または失敗をして元金を失ってしまうこともある。また経済全体に異変が生じ、お金の循環が滞るような事態が生れることもある。マイナス金利などという事態は資本主義経済全体に異変が生じていることを意味している。
資本主義経済が正常に機能するには厳しい倫理観が求められる。その倫理観とは質素、勤勉、正直ということである。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中でマックス・ウェーバーが述べている。イギリスのピューリタニズム、ドイツのプロテスタンティズムが支配する社会の中で資本主義経済は発展し、普及した。このような資本主義精神を体現した人に元日本経団連会長をした土光敏夫という人がいる。土光元経団連会長の一ヶ月の生活費は五万円だと言われていた。真冬であっても質素な灯油ストーブを付けるだけだ。朝ごはんのおかずは目刺しだという。まさに資本主義の精神を体現していると讃えられた。美味しいものを食べる事、美しいものに囲まれて生活する事、高価な衣服を身にまとう事、豪華な家に住むことなどは資本主義の精神に反することと嫌われる。今、資本主義経済が揺らぎ始めたと言う事は強欲すぎる人々が資本主義経済の中心に跋扈しているからなのかもしれない。資本主義の精神を忘れ、資本主義の倫理観を失ってしまった人々が世界経済を牛耳っているからなのかもしれない。
資本という言葉を発見し、資本の概念を究明したのがカール・マルクスだった。資本主義経済の魔法の仕組みをマルクスは解明した。ドイツ人のマルクスはドイツの古典哲学、主にヘーゲル哲学を学び、イギリスの経済を研究することで資本主義経済の魔法の仕組みを解明した。
資本が循環すると資本は自己増殖する。どうして資本はなぜ自己増殖するのかというと資本は循環する過程で剰余価値が生産されるからである。資本は循環の過程で剰余価値が生産されるから自己増殖する。
資本の循環の過程を詳しく見ると資本の循環はまず貨幣資本として存在し、貨幣資本は生産資本に変わり、商品資本に変わり、また貨幣資本に変わる。貨幣資本↓生産資本↓商品資本↓貨幣資本。生産資本の段階で貨幣資本の価値に剰余価値が付け加わる。生産資本は不変資本と可変資本に分けられる。工場の建物、機械、原料その物の価値は変わらないから不変資本、一方労働者に支払われる賃金が可変資本である。労働者が機械を使って原料を加工するなど労働を加えることによって賃金以上の価値を創り出す。この賃金以上のつくられた価値が剰余価値といわれるものである。マルクスはアダム・スミス以来の労働価値説を継承して剰余価値説を新たに付け加えた。マルクスの『資本論』はアダム・スミスの倫理学の著作『諸国民の富』の正統な継承者である。資本家は生産手段の所有者であるから当然のこととして労働者が新たに作り出した剰余価値を自分のものにする。このことを現代のマルクス主義経済学者は搾取と言っている。搾取は法的権利である。生産する営みは社会的なものであるが生産手段は私的に所有されている。この生産の社会性と生産手段の私的所有に矛盾がある。この矛盾が資本主義社会に存在する基本的な矛盾である。
 資本とは、どのようにこの世に生まれて来たのか。その出自はどこにあるのか。マルクスはイギリスの産業革命によって資本が誕生し、成長発展していったことを解明した。だから『資本論』という著書はイギリス産業革命について研究した著書でもある。ドイツの古典哲学、ヘーゲルの弁証法でイギリスの経済を批判した結果が『資本論』である。
 まずイギリスにおいて「資本の原始的蓄積」が始まった。この資本の原始的蓄積とは、具体的に何を意味しているのかというと、それは労働者の誕生・出現ということなのだ。イギリスにおける労働者の誕生が経済的には資本の原始的蓄積なのだ。
 イギリスにおける労働者の誕生は、16世紀、絶対主義王朝時代までさかのぼる。そのころオランダ・フランドル地方で毛織物工業が発展するとこの毛織物工業の原料供給地としてイギリスでは牧羊業が普及発展する。そのため今まで農奴に耕させていた土地をジェントリと呼ばれていた郷紳は土地を囲い込み、農奴を農村から追い出した。その土地で郷紳は羊の飼育をする羊毛生産を始めた。農村から追い出された農民は中世都市の貧民街に流れ込んでいった。中世都市ロンドンでは乞食に鑑札を与え、乞食が都市にあふれた。鑑札なく乞食をして、三回捕まると死刑になった。このことをイギリスの人文学者トマス・モアは著書『ユートピア』の中で「羊が人間を食う」と書いている。更に西ヨーロッパの基本農法であった三圃制は、イングランド東部のノーフォーク州において新たな農法にとって変っていった。ノーフォーク農法は、三圃制にみられた休耕地の時期がなく、4年収期で同一耕地に大麦↓クローバー↓小麦↓根菜のカブの順に輪作するやり方である。クローバーとカブは牧草として家畜の飼料となった。牧草が不足する冬季において、冬の寒さに強いカブを飼料として栽培することで、1年を通じての飼育と穀物生産が可能となり、18世紀には生産量が激増した。その結果、議会は法律を制定し、農地の囲い込みを法律で制定した。この結果、大量の乞食の群れが中世都市に出現した。こうして自分の労働力を売ることなしには生きていく手段を持たない大量な人々が出現した。この事をカール・マルクスは「血と涙、汚物にまみれて資本は生まれて来た」と述べ、この事を資本の原始的蓄積と著書『資本論』の中で述べている。資本の誕生とは労働者の誕生ということを意味している。
 一方、イギリスの重商主義経済政策の結果、インド綿布がイギリスに普及していくとイギリス本国に置いてもインドから輸入したインド綿花を加工する綿布生産が始まる。こうして工場制手工業といわれるマニュファクチャーがイギリスの農村地域に誕生し普及していく。工場制手工業、マニュファクチャーが綿布生産をする。このような代表的な農村工業地帯の中心となった所がマンチェスターという所だった。綿布生産のマニュファクチャーは農村をエンクロージャー、囲い込みによって追い出され、生活手段を奪われた元農奴を雇い入れ、工場労働者にした。このマニュファクチャーが産業資本家の誕生である。こうした綿布を生産する産業資本家の成立が資本主義経済の成立である。
 綿布生産者のマニュファクチャーに資金を提供したのがリヴァプールの奴隷貿易商たちである。マンチェスターから50キロほど離れた港町がリヴァプールである。この港町リヴァプールから20世紀の世界に大きな影響を与えた若者四人組がいる。それがビートルズである。未だに階級社会のイギリスで労働者階級出身の若者が20世紀音楽に大きな影響を与えた。奴隷貿易で得た巨万の富がリヴァプールの繁栄であり、産業革命の資金になった。だから未だにリヴァプールの街の紋章はニグロが象られているという。
 1830年、リヴァプールとマンチェスターを結ぶ鉄道が敷設された。工業都市マンチェスターと貿易港リヴァプールの間の約50キロメートルを蒸気機関車が走り、時刻表を用いて定期運行する世界初の営利事業としては初めての鉄道が出現した。馬車とちがって季節や天候に左右されず、大量、迅速かつ確実に輸送し、移動することが可能になった。これはまた交通革命でもあった。
 リヴァプールの奴隷商人は銃とアフリカ黒人とを交換した。ベニン湾に沿った西アフリカの大西洋岸である。16世紀初頭のポルトガルの到来から19世紀初頭の奴隷貿易の公式廃止まで、大西洋岸の全域から多くの黒人奴隷が大西洋奴隷貿易で売られた。西欧や新世界(南北アメリカ大陸)へ運ばれる奴隷貿易船に西アフリカの黒人たちが乗せられた。他の黄金海岸・象牙海岸・胡椒海岸(穀物海岸)と並び、「主要産品」にちなんで西アフリカ海岸は「奴隷海岸」と呼ばれていた。
 リヴァプールの奴隷商人は西アフリカで仕入れたアフリカ黒人を船に積み込み、西インド諸島、カリブ海地域のスペイン人経営の奴隷砂糖プランテーションで売りさばき、砂糖を仕入れた。このような大西洋三角貿易によってリヴァプールの奴隷商人は巨万の富を築いた。イギリスの繁栄は西アフリカ黒人の血と涙の結果であった。英語で奴隷のことをslave
という。これまで西ヨーロッパの人々にとって奴隷とはスラブ人を意味していた。奴隷貿易が普及し、黒人奴隷が増えるに従ってアフリカ人奴隷のことを今まで通りにスラブ、slaveと言うようになった。
 リヴァプールにもたらされたこの富がイギリス産業革命の資金になった。
 一方イギリス、ランカシャーやヨークシャー地域にある農村工業地帯で手工業としての綿布生産が始まっていた。そのような中で1733年綿布生産業者ジョク・ケイによって飛び杼(ひ)が発明された。飛び杼とは、綿布の横糸を通す道具をいう。これを機械化した工場制機械工業が産業革命の始まりだ。

醸楽庵だより   1300号   白井一道   

2020-01-14 14:24:24 | 随筆・小説



   徒然草126段 ばくちの、負極まりて


原文
 「ばくちの、負極まりて、残りなく打ち入れんとせんにあひては、打つべからず。立ち返り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり」と、或者申しき。

現代語訳

 「博打の負が極まり、残った金もすべて賭けようかという時には、賭けてはならない。平常に立ち帰り、続けて勝てる時が来ることがあると気付くべきだ。その時を持ち得る人を良き博打ちという」と或るものが言っていた。

 『徒然草126段』の解釈について 白井一道

「負けてばかりいる相手が、負けてばかりいるということはないだろう。今度は勝ち続けるかもしれないから、止めておけ」という解釈が『126段』の多数意見のようだ。しかし勝負事で大事なことは、負けを受け入れることができるかどうかにかかっている。どけだけ冷静に勝負ができるかというのが、勝負師の器量というもののようだ。
 勝っても負けても冷静でいられるか、どうかに勝負師の器量がある。



醸楽庵だより   1299号   白井一道

2020-01-13 10:15:25 | 随筆・小説


 徒然草125段 人におくれて、



原文
 人におくれて、四十九日の仏事に、或聖を請じ侍りしに、説法いみじくして、皆人涙を流しけり。導師帰りて後、聴聞の人ども、「いつよりも、殊に今日は尊く覚え侍りつる」と感じ合へりし返事に、或者の云はく、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなん上は」と言ひたりしに、あはれもさめて、をかしかりけり。さる、導師の讃めやうやはあるべき。

現代語訳
 人に先立たれて四十九日の法事に或る僧侶を招いて説法をしていただいたところ、あまりにも素晴らしい話だったので皆涙を流した。導師がお帰りなった後、聴聞された人々が「いつもより今日は殊に尊い話だった」と感じたことを話し合っていると、ある者が言った。「何ともなー、あれほど唐の狗(いぬ)に似ていてはなー」と言ったことに、感動もさめて、笑ってしまった。この導師への誉めようはあるように。

原文
 また、「人に酒勧むるとて、己れ先づたべて、人に強ひ奉らんとするは、剣にて人を斬らんとするに似たる事なり。二方に刃つきたるものなれば、もたぐる時、先づ我が頭を斬る故に、人をばえ斬らぬなり。己れ先づ酔ひて臥しなば、人はよも召さじ」と申しき。剣にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。

現代語訳
 また、「人に酒を勧める際、自分が先に飲み、人に勧めようとするのは、剣で人を切ろうとすることに似ている。両刃であるものなら持ち上げる時に、まず自分の頭を切ってしまう故に人をば切ることはできない。自分が先に酔いて寝てしまうなら、人は決して酒をのむことはないであろう」と言った。剣で切り合ったことがあるのだろうか。大変面白い話だ。

醸楽庵だより   1298号   白井一道

2020-01-12 10:47:20 | 随筆・小説



    徒然草124段 是法法師は


原文
 是法法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、たゞ、明暮念仏して、安らかに世を過す有様、いとあらまほし。

現代語訳
 是法法師は浄土宗に恥じることないと言うけれども、学者ぶることもなく、ただ朝晩念仏を唱え、安らかに世を過ごすありさまである。実に理想的である。

  浄土宗について   白井一道
 「西方極楽浄土の仏さまである阿弥陀仏は「私の国(極楽浄土)へ生まれたいと願って私の名前を呼びなさい。そうすれば煩悩の有無などに関係なく、必ず極楽浄土に迎え導きます」と誓われています。
その誓い(本願)を素直に信じ、心からお念仏をとなえ、悩みや苦しみのない(だから極楽なのです!)浄らかな仏さまの国へ救い導いていただきましょう、というのが浄土宗の教えの根幹です。」
浄土宗サイトより

醸楽庵だより   1297号   白井一道

2020-01-10 11:26:49 | 随筆・小説



 徒然草122段 人の才能は



原文
 人の才能は、文(ふみ)明らかにして、聖の教を知れるを第一とす。次には、手書く事、むねとする事はなくとも、これを習ふべし。学問に便りあらんためなり。次に、医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝の務も、医にあらずはあるべからず。次に、弓射、馬に乗る事、六芸に出だせり。必ずこれをうかゞふべし。文・武・医の道、まことに、欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は、人の天なり。よく味はひを調へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、万に要多し。

現代語訳
 人の才能は、中国古典の典籍に明るく、四書・五経に精通していることが第一だ。次には、書き写すことまですることはなくとも、古典を学ぶべきだ。学問に精通するためだ。次に医術を習うべきだ。身を養い、人を助け、忠孝の務めも医術に優るものは無い。次に弓を射り、馬に乗る事、六芸に優れることだ。必ずこれらの事に取り掛かるべきだ。文・武・医の道、まことに欠けてはならないものだ。これらを学ぼうとする人は無駄なことをしている人だと言ってはならない。次に食は人の命を左右するものだ。良く食べ物について知っている人は実に立派なことだ。次に料理方法については大事なところが多くある。

原文
 この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金はすぐれたれども、鉄の益多きに及かざるが如し。

現代語訳
 この他のいろいろなことができることを神様は恥ずかしいことだと言っている。詩歌を上手に詠み、管弦の妙は幽玄の道だ。君臣はこれを重視してはいるが、これによって世を治めることはどう考えてもできることではない。金には優れた輝きがあるが、鉄のようにいろいろなことに役立つことがないようにだ。

 「食は人の天なり」  白井一道
 「食は人の天なり」とは、兼好法師の言葉である。この言葉は「医食同源」と同じことを表現していると私は理解した。

「医食同源という言葉自体は中国の薬食同源思想から着想を得て、近年、日本で造語された。この言葉「医食同源」は発想の元になった中国へ逆輸入されている。 初出は1972年、NHKの料理番組『きょうの料理』の特集「40歳からの食事」において、臨床医・新居裕久が発表したもの(NHK「きょうの料理」同年9月号)。これは健康長寿と食事についてのもので、中国に古くからある薬食同源思想を紹介するとき、薬では化学薬品と誤解されるので、薬を医に代え医食同源を造語し、拡大解釈したものであると新居裕久は述懐している。 また、同年の1972年12月に『医食同源 中国三千年の健康秘法』(藤井建著)が出版されているが、これは前出の「医食同源」の語彙を転用したものである。その他の使用例では、朝日新聞の記事見出データベースの初出は1991年3月13日であった。また『広辞苑』では第三版には無く、1991年の第四版から収載されていた。
以上のことから考えると、この「医食同源」という言葉は1990年前後にはすでに一般で使われており、その思想も健康ブームなどにより、広く受け入れられてきたものと考えられる。」
 『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 

醸楽庵だより   1296号   白井一道

2020-01-09 10:24:44 | 随筆・小説



   徒然草121段『養ひ飼ふものには』
原文
 養ひ飼ふものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかゞはせん。犬は、守り防くつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。

現代語訳
 養い飼うものに馬。牛がある。繫ぎ止めて苦しませていることは痛ましい限りだが、いなくてはならないものだから、やむを得ない。犬は守備兵にも勝る働きをするのだから必ずいなくてはならないものだ。しかしながら、家ごとにいるものだから殊更に買い求めて飼わなくともよいであろう。

原文
 その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさゝれ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷(わうしいう)が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。

現代語訳
 その他の鳥や獣はすべて無用なものだ。動き回る獣は檻に閉じ込め、鎖で繫ぎ止める。飛ぶ鳥は羽を切られ、籠に入れられて、雲を恋しがり、野山を思い愁いの止む時がない。この思いが我が身の事のように忍び難いものだ。心のある人だったら籠に入れられた鳥を見て楽しむことがあるのだろうか。生きているものを苦しめ、そのものを眺めて楽しむのは、古代中国の暴君、桀・紂と同じような心の持ち主だ。中国晋王朝時代の書聖といわれた王義之の息子、王子猷(わうしいう)が鳥を愛したのは林間に鳥が飛びまわるのを見て、散歩の友にしたことによる。捕らえ苦しめるためではない。

原文
 凡そ、「珍らしき禽、あやしき獣、国に育(やしな)はず」とこそ、文にも侍るなれ。

現代語訳
 おおよそ、「珍しい鳥、見なれない獣を国は養うことはない」と古典文書にあるようだ。

 仏教の不殺生戒について   白井一道
不殺生(アヒンサー)を仏教が主張する理由は、 自他の生命(いのち)を大切に生きるということのようだ。
 仏教の戒律とは、悟りを求める修行の過程で自発的に守ろうとする戒めのことである。
 ①不殺生戒、殺してはいけない。
 ②不偸盗戒、盗んではいけない。
 ③不邪淫戒、不道徳な性行為を行ってはならない。
 ④不妄語戒、嘘をついてはいけない。
 ⑤不飲酒戒、酒を飲んではいけない。
 これらの戒律は人間が自然の一部であると自覚せよと教えている。人間は自然に生かされている。自然を受け入れよと仏の声を聴けというのが、五戒であろう。自然と共生せよという教えが不殺生戒である。人間は人間を殺すようなことをするはずがないということが仏教の教える人間観なのである。人は人と仲良くすることに人間の真実があるという教えが仏教なのだ。
 「不偸盗戒」とは、人間の真実が分かって来るならそのようなことがあるはずがない。盗むということが現実にあるということは、その人間がまだ人間の真実に目覚めていないということなのだ。人間の真実を知れと教えている。
 不邪淫戒とは、性の喜びを否定するものとして戒めているのだ。性とは人間の生きる喜びなのだ。人間の神聖な喜びである性を汚してはならない。早く性は生きる男と女の喜びであることに気付きなさいと教えているのがこの戒めなのだ。
 不妄語戒、嘘を言う事ほどつまらないことはない。真実を言うことに人間の喜びがあるのだ。真実の人になりなさい。真実の人になることが生きる力になることを知りなさいと、教えている。
 不飲酒戒、お酒は人間が人間になるのを妨げる危険性がある。お酒を飲むと人間の悪い欲望がむき出しになり、人間が人間になるのを妨げるから飲むでないと、教えている。人間は人間と共生して初めて人間になる。人間の共生を妨げるものが人間のむき出しの欲望というものだと教えている。

醸楽庵だより   1295号   白井一道

2020-01-08 12:13:18 | 随筆・小説



   徒然草120段『唐の物は、薬の外は、』



原文
 唐の物は、薬の外は、みななくとも事欠くまじ。書(ふみ)どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。唐土舟(もろこしぶね)の、たやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る、いと愚かなり。

現代語訳
 薬を除き、中国からの舶来ものはなくても事欠くことはないであろう。書物どももこの国には多く普及しているので書き写すことができる。中国風の交易船の容易くない船旅に無用のもののみを選んだかのように積み込み所狭しに持って来ることほど愚かなことはない。

原文
 「遠き物を宝とせず」とも、また、「得難き貨を貴まず」とも、文にも侍るとかや。

現代語訳
 「君主は遠来の物を宝としない」とも言っている。また「得難い貨幣を尊ぶこともない」とも昔の文書にはあるとも聞いている。


イギリスの文化とアメリカの文化  白井一道
 『徒然草120段』を読み、イギリスの文化とアメリカの文化の違いのようなものを読んだように感じた。君主の文化を持つ国がある。日本も君主を尊ぶ文化があるように思うが、アメリカには君主を尊ぶ文化がない。アメリカには民衆の文化を尊んでいる。アメリカに民主主義があるとしたなら、それはもともとアメリカには君主の支配を尊ぶ伝統がないからであろう。
 アメリカ人は国旗を掲げるのが好きである。この国は自分たちの国だという気持ちが強い。アメリカ国民はアメリカという国を自分たちが築き上げたという強い気持ちを持っている。この国は私の国だと気持ちはイギリス人とは比べようもなくアメリカ人は強い。アメリカ建国の裏側にはネイティブ・アメリカンの泪と深い悲しみがある。アメリカ人にはネイティブ・アメリカンとの闘いの歴史の上に今があるという意識があるからなのだろう。銃の所持が法的に認められている。アメリカの負の遺産として今問題になっていることの一つが銃の所持ということである。イギリスにもアイルランド征服戦争といった負の遺産がある。
 もともとアメリカに入植してきたイギリス人たちの多くは本国イギリスでは恵まれた人々ではなかった。大半が貧しい人々であった。入植地アメリカにはイギリスの庶民の文化が持ち込まれた。どこの国にあっても庶民はフレンドリーである。なぜなら庶民は助け合うことなしには生きていけなかったから、そこに人に対する優しさのようなものが培われていった。アメリカに入植した者たちは助け合って生きて来た。だからフレンドリーなアメリカ文化が形成された。マグカップでグイグイコーヒーを飲む文化がアメリカ文化だとしたら、イギリス人は真っ白な中国製の茶碗で紅茶を嗜む。イギリス貴族の文化を継承しているのがイギリスの文化のようだ。
 アメリカ人がごく普通のコーヒーを好むのに対してイギリス人は高級な紅茶を好む。このようなイメージがある。アメリカ文化が民衆の文化だとしたら、イギリスの文化は貴族の文化なのであろう。