醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1294号   白井一道

2020-01-07 14:36:47 | 随筆・小説



   徒然草119段『鎌倉の海に』



原文
 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。

現代語訳
 鎌倉の海浜では鰹と言う魚を一番高級なものとしてこの頃もてなしているものである。それも鎌倉の年寄が言っていることによると「この魚を私らが若かった頃までは、立派な人の前に出せるようなものではなかった。頭は下人も食べなかったし、切り捨てていたものだ」と言っている。

原文
 かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。

現代語訳
 このようなものも世の末になると、身分の高い人までもがいただくようになるもののようだ。

 
犬肉料理は文化か、それとも動物虐待か。
 東アジアの一部の地域において犬の肉が食用として生産されている。日本では犬の肉を食べる事はない。
 「貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている。また根崎光男は、天和3年(1682年)に綱吉の子・徳松が5歳で病死しているが、この頃から死や血の穢れを意識した政策である服忌令の制定が進められており、子の死によって綱吉の思考に、生類憐れみの観念が助長されていったとみている。」
 ウィキペディア(Wikipedia)より
 日本人が犬肉を食べないのは、綱吉の「生類憐みの令」以来のことだと言う話を聞いたことがある。この話がどこまで本当の事なのかを私は知らない。
 東アジアの一部の地域においては間違いなく犬肉を食べる文化を持つ地域が存在している。
 「2014年現在でも中国東北部・南部では犬肉を食べる習慣があり、広東省、広西チワン族自治区、湖南省、雲南省、貴州省、江蘇省等では、広く犬食の風習が残っている。江蘇省沛県や貴州省関嶺県花江、吉林省延辺朝鮮族自治州は犬肉料理で有名な場所である。地名にも養殖場があった場所として、「狗場」等の名が使われている場所が多くある。広東省広州では「狗肉」(広東語カウヨッ)の隠語として「三六」(サムロッ)や「三六香肉」(サムロッヒョンヨッ)と呼ぶが、「3+6=9」で同音の「狗」を表した表現である。おおむね、シチューに似た煮込み料理に加工して食べられる。調理済みのレトルトパックや、冷凍犬肉も流通している。一般に、中国医学では、犬肉には身体を温める作用があると考えられているため、冬によく消費されるが、広西チワン族自治区玉林市では、夏至の頃に「狗肉茘枝節」と称して、犬料理とレイシを食べる行事が行われている。 しかし、中国でも犬肉を食べることへの批判は年々強まっている。中国広西チワン族自治区玉林市で、犬肉を食べる伝統の「犬肉祭り」をめぐり、愛犬家・人気女優が反対しており、食文化だと反論する食堂などとの間で大論争となった。玉林市は「10歩に一軒の犬肉料理店がある」と言われるほど、犬肉食が盛んな地域とされており、犬肉祭りだけで1万匹の犬が食用処理され、表通りでも犬をさばき、至る所に犬の死体が散乱しているなど、規模・残酷さで際立っているとされている[10]。玉林市では犬肉とライチを食べる「玉林ライチ犬肉祭」が1995年から開かれていたが、本物の犬肉だと証明するために業者が客の目の前で犬を殺すため、愛犬家・著名人などから激しい抗議を受けるようになっていた。浙江省金華市では、犬肉祭をめぐって世論の批判を受け、2011年に600年以上続いていた「金華湖犬肉祭」が廃止されている。 中国は2018年時点で、世界で最も犬肉の消費量が大きい国であり、世界で食用に殺される犬は年間2000万~3000万頭のうち、1000万頭が中国で処理されているが不衛生や処理方法が国外で問題視されている。
 ウィキペディア(Wikipedia)より

醸楽庵だより   1293号   白井一道

2020-01-06 11:35:08 | 随筆・小説



    徒然草118段『鯉の羹(あつもの)食ひたる日は』




原文
 鯉の羹(あつもの)食ひたる日は、鬢(びん)そゝけずとなん。膠(にかは)にも作るものなれば、粘りたるものにこそ。

現代語訳
 鯉のお吸い物を食べた日は、髪の毛が乱れることがない。膠の材料にもなるものだから粘っているからなのだろう。

原文
 鯉ばかりこそ、御前にても切らるゝものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿(みゆどの)の上に懸りたるも苦しからず。その外は、心うき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒み棚に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて、御文にて、「かやうのもの、さながら、その姿にて御棚にゐて候ひし事、見慣はず、さまあしき事なり。はかばかしき人のさふらはぬ故にこそ」など申されたりけり。

現代語訳
 鯉だけが天皇の御前で料理されるものだから貴重な魚なのだ。鳥では雉が並ぶもののないものだ。雉や松茸などは、天皇がご入浴されるお風呂の上に置いてあったとしても見苦しいことはない。その他はあってはならないことだ。皇后さまのご入浴されるお風呂の上の黒い棚に雁が見えるのを皇后さまの父上がご覧になり、御帰りになった後、やがて文書をしたため、「このようなものがあたかもその姿そのものが棚の上に置いてあることは見慣れないことであり、そのような状態はよくない事だ。しっかりした意見をいう人がいないからなのだろう」などとおっしゃられたという。


 礼儀が社会を秩序したのが中世社会だ 白井一道
 普段の日本人はグダグダしているのに、学校の入学式や卒業式になると物々しく、厳かにするのねと、話す日本人と結婚したアメリカ人女性がいた。確かにアメリカの小学校やハイスクールでは日本のような厳粛な入学式や卒業式は執り行われていないようだ。もっと自由に楽しむ行事のようだ。
 中学生だった頃、体育祭の行進の練習をさせられた経験がある。その時、私はこのような行進練習にバカバカしさを感じて、不貞腐れて歩いた時、体育担当の教師から全校生徒の前で大声をあげて叱責された経験がある。これは私の経験ではないが友人の一人が隣の者とおしゃぺりし、口を開け、声を出さずに笑った。その白い歯を見つけた教師が全校生徒の前で歯を見せて笑うようなことはするなと厳しく注意した。
 高校ではこのようなことがあった。一学期の終業式にのぞんだ生徒たちを特に教師たちが指導することはなかった。学年ごと、クラス毎に一列になんとなく並んで校長の訓辞を聞いていた。話の内容は何も記憶に残っていない。記憶に残っていることは、終業式を終え、教室に帰って来たときである。担任教師が珍しく帰りのホームルームをしたのだ。そして発言した。終業式のだらしないおしゃべりの多い終業式というものはいかがなものか。もっときちんとした終業式にならないものなのかと、発言した。この教師の発言に後に国立有名大学に入学した生徒が発言した。「校長先生の話は聴くに値しない話だ。隣の小学校の校長先生の話となんら変わることのないつまらない話だ」と。この生徒の話に担任教師は「たとえ、君の主張が正しいとしても礼儀というものがあるのじゃないか」と言った。この担任教師の発言に生徒は何も言わなかった。
 礼儀というものは人と人との関係を秩序立てる働きがある。礼儀そのものに豊かな意味内容がなかったとしても、礼儀が人間関係を組織する。その結果、礼儀が秩序に意味内容を付与するようになる。
 今までお辞儀をしてくれた人が、廊下で出会っても知らんぷりして過ぎ去っていく。人の世の冷たさを実感する時だ。定年退職し、役職を失い、単なる事務員に格下げされた公務員が味わう悲哀である。今までお辞儀をしてくれたのは、私に対してではなく、私の机にたいしてお辞儀をしてくれていたのだと実感するときだ。
 礼法が社会が規律し、人間関係が組織された社会が中世封建社会なのではないかと私は考えている。日本では礼法が重視されているところが学校という組織のようだ。分掌の一つとして学校には儀式がある。儀式を執り行う仕事が役割分担の一つとして存在している。儀式は封建遺制の一つである。

醸楽庵だより   1292号   白井一道

2020-01-05 10:33:25 | 随筆・小説

    徒然草117段『友とするに悪き者』




原文
 友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。

現代語訳
 友人にならないタイプは七つある。一つには身分の高い人。二つ目は若い人。三つ目は病なく、頑健な人、四つ目は酒好きの人、五つ目は猛々しい武士、六つ目は嘘を言う人、七つ目は欲深な人。

原文
 よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。

現代語訳
 友人にしたい三つのタイプ。一つは気前の良い人。二つ目は医師。三つ目は知恵のある人。


 私はこのようなことを今まで一度も考えたことがない。しかし武者小路実篤の小説『友情』を中学生の頃読み、いたく感動した記憶が残っている。ベートーベンのデスマスクを割った気持ちが痛いように分かった。
友情についてのモンテーニュが述べた随想について書かれたものをを紹介したい。   白井一道
 友情について        宮下志朗
 キケロの『友情について』とか、プルタルコスなら少しひねって『似て非なる友について』とか、「友情」は伝統的な主題だし、モンテーニュはもちろんこれらの古典を読んでいる。でも、モンテーニュが描き出した「友情」は、特別なものだ。『エセー』1・27の「友情について」は、ボルドー高等法院の同僚として知り合ったエチエンヌ・ド・ラ・ボエシー(1530-1563)との異常ともいえる友愛をめぐる濃密なディスクールで満ちていて、第三者がくちばしをはさむ余地もないような気までしてしまう。
 『自発的隷従論』の書き手として――写本で流通していたようだ――、モンテーニュは3歳年長のラ・ボエシーという存在を知っていた。ラ・ボエシーもまた、モンテーニュの噂を聞いていたらしい。なにせラテン語を母語として育って、6歳だかで、地元の名門コレージュ・ド・ギュイエンヌに入学し、ずっと年上の連中と張り合った神童なのだから。そして二人は、「人出でにぎわう、町の大きな祭りのときに、初めて偶然に出会ったのだが、たがいにとりことなり、すっかり意気投合して、結びついた」(1・27「友情について」)。モンテーニュによれば、「そこには、なにかしら説明しがたい、運命的な力が働いており、この結びつきのなかだちをしてくれた」のだった。それは、そんじょそこらの友情ではなかった。「世間のありふれた友情を、われわれの友情と同列になど置かないでほしい。わたしだって、そうした友情のことは、人並みに知っているし、そのなかでもっとも完全なものだって知らなくはない。でも[…]、通常の友情の場合は、手綱をしっかり持って、慎重に、注意深く進んでいく必要がある。それは、うっかりしているとほどけてしまうほどの結びつきなのだから」(1・27)。
 では彼らの友情はというと、「この高貴な交わりにおいては、ほかの友情をはぐくむような、奉仕だとか、恩恵は、考慮にもあたいしない」ものであって、「われわれの意志は、完全に融合している」(1・27)という。こうして彼は、次の有名なせりふを吐く。「わたしがお話ししている友情の場合、ふたつの魂は混じり合い、完全に渾然一体となって、もはや両者の縫い目もわからないほどなのである。もしだれかに、なぜ彼が好きだったのかと、しつこく聞かれても、〈それは彼だったからだし、わたしだったから〉と答える以外に、表現のしようがない気がしている」(1・27)。親しい友人たちはいても、「渾然一体」とはとても言いがたいわたしなどは、うなだれて、平伏するしかない。それにしても、「もはや両者の縫い目もわからないほど」というのは、モンテーニュならではのみごとな比喩だ。ところで、〈それは彼だったからだし、わたしだったから〉という、ある種有無を言わせぬいい方については、アンドレ・ジッドが異議を唱えている。ジッドは、恋愛ならば、その動機が〈それは彼だったからだし、わたしだったから〉でも、しっくりくるけれど、これはあくまでも友情なのだから、ちがうのではないのかとして、「モンテーニュがこの友情を描き出すために、その晩年に臨んでつけ加えた上記の言葉の価値を低く」評価したいと述べているのだ(「モンテーニュについて」渡辺一夫訳、『世界文学大系9』筑摩書房、所収)。わたしも、そこまで友情なるものを絶対化していいのかなとも思う。ちなみに、「晩年に臨んでつけ加えた」とは、この表現が手沢本での加筆ということである(ジッドは長い注まで付けて、この表現に疑義を呈している)。
 なお、これは友情であって、肉体的な同性愛ではない。そもそもラ・ボエシーは妻帯者だし、モンテーニュも、「ギリシアでは許容されていた、もうひとつの放埒さ」について、「完璧な結合や調和に対応するものとはいえない」、それは外見的な美に惹かれた激情で、「精神性への愛」ではないと明言しているのだから(1・27)。
 「わたしが話題にしている完璧な友情は、分割不可能なものであって、各人がその友に自分をまるごとあげてしまうので、ほかに分けるものなど残らないのだ。[…]ありきたりの友情は、それを分割することができる。つまり、この人間については、その美しさを、こっちの人間は、自由闊達な生き方を、こっちは気前のよさを、こっちは父親のような温情を、もうひとりは兄弟のような親しみをといったふうに、分けて愛することができる。でも、魂にまでとりついて、それを絶対的に支配する、あの友情は二人分にはなれない」(1・27)。引用を続けていたらきりがない。こうして彼は、若くして、「たったひとつの完璧な友情という美味」(3・3「三つの交際について」)を教えこまれてしまった。ラ・ボエシーの死後も、モンテーニュは彼の眼差しの元で生きる。その友情の決算というか、喪の儀式が、ラ・ボエシーの作品集を上梓することと、自分の『エセー』を刊行することだった。その『エセー』初版(1580)において、第1巻全57章の中央となる第29章には、ラ・ボエシーのソネット29篇を収めたことはよく知られている(ただし、晩年に削除する)。異様なふるまいとしかいいようがないが、その直前が第28章「友情について」なのである。あと一個所だけ紹介しよう——古典からの巧みな引用は省いて。「だが、こうした人生でも──あえて全生涯をといわせてもらうけれど──、それを、あの人との甘美なる交わりや付き合いを享受すべく与えられた、あの四年間と比較するならば、それはもう、はかない煙にすぎず、暗くて、やりきれない夜でしかないのだ。[…]われわれは、すべてを半々に分けていたのだから、今は、なんだか彼の分け前を奪っているような気がする。[…]そしてわたしは、なにごとにつけても、自分が二あるうちの一のようにできていて、それに慣れきっていたから、いまではもう、ただの半分になったみたいな気がしている。[…]なにをしていても、なにを考えていても、彼のいないことが淋しくてたまらない。それはまるで、彼がわたしのことを淋しがっているかのようなのだ。というのも、彼は、ほかの能力や美徳についても、わたしよりも断然すぐれていたのと同じく、友情のつとめについても、そうであったのだから」(1・27)。
 ラ・ボエシーが死んで四半世紀後、『エセー』生前決定版(1588)では、こんな境地が披露される。「わたしは本当の友情には精通しているのだけれど、そこでのわたしは、わが友を自分のほうに引き寄せるよりも、自分を友に与えている。彼がわたしに尽くしてくれるよりも、わたしが彼に尽くすほうを好むだけではなく、彼が、わたしよりも、自分の得になってくれたほうがいい。彼自身が得するとき、わたしももっとも得をするのである」(3・9「空しさについて」)。「分割不可能」なのだから、フィフティ=フィフティだと早合点してはいけない。むしろ自分を相手に与えるほうが得をするというのだ。「他人に自分を貸す必要はあっても、自分以外に自分を与えてはならない」([3・10]「自分の意志を節約することについて」)というのが、本来の彼の主義であったものの、この「縫い目もわからない」友情においては、やはり、自分の思い入れが深かったにちがいない。それに、われわれも、このような気持ちを抱くことはあるではないか。『エセー』の読者かどうかは知らないけれど、ラ・ロシュフーコーの「自分自身よりも友達のほうが好きな時でさえ、われわれは自分の好みと自分の喜びに従っている」(『箴言集』81、二宮フサ訳、岩波文庫)という皮肉を思い出さずにはいられないのだが。もっともその直後で彼が、「とはいえ、友情が真実で完全な友情になり得るのは、ひとえにこの、自分よりも好きだという気持ちによる」と、めずらしく純な気持ちを吐露していることも忘れまい。
 いずれにせよラ・ボエシーは死んでしまったのだから、一方的な思い入れも可能になる。このあたり、メルロー=ポンティの冷徹な見方が興味深い。「ラ・ボエシーに対する彼の友情は、まさしく〈他者にわれわれを隷属せしめる〉たぐいの絆であった。[…]彼はラ・ボエシーの目で見られながら生きていたのだ」、「彼にとって存在するとは、親友のまなざしのもとに存在することなのだ」と述べて、この哲学者は、「モンテーニュが自分に問いかけ、自分を研究するのは、ラ・ボエシーが彼を知っていたように、自らを知るためなのである」と述べる(「モンテーニュを読む」二宮敬訳、『シーニュ2』みすず書房、所収)。
 そのモンテーニュは、こうもいう。「彼にとっては、不在であることのほうが心地よく、有益だというのなら、わたしにとっても、彼がいるよりも、不在であるほうがはるかに気持ちがいいのである。お互いのことを伝えあう手段があれば、それは本当の不在ではないのだから。[…]肉体的な現前を飽くことなく渇望するのは、ある意味では、精神的な喜びの弱さの表れなのだ」(3・9「空しさについて」)。
 真の友の死による不在という「暗い夜」を乗り越えて、モンテーニュが達したところの、友の「不在」が心地よいという境地。「不在」によってこそ、真の再会がはたせるという逆説、フロイト流に精神分析することもできそうだ。 





   

醸楽庵だより   1291号   白井一道

2020-01-04 12:15:23 | 随筆・小説


    徒然草116段『寺院の号(ごう)』


原文
 寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。

現代語訳
 寺院の名、そればかりでなくすべての物に名を付けることを昔の人は少しもそのようなことはせず、ただありのままに気安く付けていた。この頃は深く考え、教養をひけらかしているかのように感じられるから実に難しい。人の名も見慣れない文字を付けようとすることは無駄なことである。

原文
 
何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。

現代語訳
 何事も珍しい事をしようとして、異なったことを好むことは、浅はかな人が必ずすることであるぞ。

 露路裏の駄菓子屋    白井一道
 北千住の路地裏の街並みを歩き回ったことがある。もう十年ほど前のことになるだろうか。定年退職後、東京は新宿に仕事を得て、週に二度ほど通っていたころのことだ。子供だった頃の懐かしさのようなものを求めて北千住の街の路地裏をあてどなく歩いた。昔となんら変わることのない銭湯がある。薄黒い暖簾をくぐって老人が入って行く。あー、昔、このような風景を見たな。私の経験では銭湯の前には焼き鳥屋があり、コップ酒を飲む親爺たちがいた。焼き鳥屋から上がる煙がない。道幅が広がり、道路には自動車が走っている。ポツンと残った銭湯の入り口に昔を発見した。
 小さな路地に入り、歩いて行くと駄菓子屋と看板のかかった小さな店があった。薄暗い店の奥におばぁさんがいる。小学校低学年の子供たちが駄菓子屋に入って行く。子供の声とおばぁさんの声が聞こえる。ここには私が子供だった頃の街が残っていた。駄菓子屋とのみ書かれたトタン板の看板をじっと眺めていた。






醸楽庵だより   1290号   白井一道

2020-01-03 12:23:06 | 随筆・小説



    徒然草115段『宿河原といふ所にて、』




原文
 宿河原(しゆくがはら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。

現代語訳
 宿河原(しゆくがはら)という所では、ぼろぼろが大勢集まって、九品の念仏を唱えている所に他所から入って来たぼろぼろが「もし、皆さんの中にいろをし房というぼろはおりますか」と尋ねたので、その中から「いろをしはここにおる。そういうあなたは誰ですか」と答えたので、「私はしら梵字という者だ。私の師匠はなにがしという者に東国でいろをしというぼろに殺されたと聞いたので、そのぼろに逢い恨みを言わねばと思い、尋ねたのです」と言う。いろをしは「あっぱれにも尋ねて下さった。そのようなことが確かにありました。この場所であなたと立ち会うとこの場所を汚すことになろう。あの前の河原に行こう。かしこまった。手下の者たち、どちらも助勢するな。大きな出来事になって仏事を妨げになってはならない」と言い置いて二人は河原に出て行き、思う存分斬り合って共に死んだ。

原文
 ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執(がしふ)深く、仏道(ぶつだう)を願ふに似て闘諍(とふじやう)を事とす。放逸(ほういつ)・無慙(むざん)の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍(はんべ)るなり。

現代語訳
 ぼろぼろという者、昔はいなかったようだ。先ごろ、ぼろんじ・梵字(ぼんじ)・漢字(かんじ)などという者がその初めのようだ。世を捨てた者に似て、自分勝手な思いが深く、仏道を願うようなふりをして争い喧嘩をよくする。放蕩で無慚な有様ではあるが死ぬ事を何とも感じずに少しも悩み苦しむことなく、潔く見えると人が話しているのを書きつけるまでだ。

 映画『仁義なき戦い』を思い出す   白井一道
 1970年代の代表的な日本映画の作品の一つである。
 「映画『仁義なき戦い』は『キネマ旬報』誌が1999年に発表した「映画人が選ぶオールタイム・ベスト100 日本映画篇」で歴代第8位、同じく2009年の「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」では歴代第5位にそれぞれ選出されている。このほか、舞台化もなされた。」
『ウィキペディア(Wikipedia)』より
 人と人との結びつき方に中世封建社会の遺制があると映画『仁義なき戦い』を見て深く感じたことがある。親子の擬制を取り持つ縁組を結ぶ儀式がある。このような擬制の血縁関係が人と人とを結びつけていく。封建社会の秩序というものは擬制的な血縁関係によって組み立てられているものだと当時の私は考えていた。反社会的勢力の代表的な組織の一つがヤクザの世界である。その世界を規律する組織か擬制的な血縁関係にあるのだと映画『仁義なき戦い』を見て感じた。
親と子、兄と弟、伯父、叔父と甥、このような擬制的血縁関係によって組というもが形作られている。だから本家があり、分家がある。直参の子分がいて、縁の遠い子分がいる。富の分け前を巡って絶えず争いが起きる。
簡単に若者が仲間の一人を殺し、殺される。殺される者の大半は若者である。若者がたくさん殺されるのも封建社会だと思った。争いの中心にいる者は若者であり、若者の成果を取り上げるのは年老いた男たちである。命を惜しむことなく、喧嘩に挑んでいく若い命が迸る。ここにこの映画の魅力があった。

醸楽庵だより   1289号   白井一道

2020-01-01 12:43:12 | 随筆・小説



    2020年を迎えての挨拶


  
 「醸楽庵だより」をブログに初めてアップしたのが2014年11月13日です。まる5年を過ぎ、6年目に入りました。この間、一時期中断したことが二度ほどありました。一度目は、パソコンの具合が悪くなったためでした。二度目は私が病に倒れ、二週間ほど入院したためでした。
 定年退職後、私は仲間を募り、日本酒に親しむ同好会を作り、楽しんでいました。もう一つ、高校生の頃からの思いであった芭蕉の文学作品をじっくり読むことでした。その目的を実現するため、『おくのほそ道』を読む会を組織しました。全く素人の者が仲間を募って芭蕉の文章と発句を読んできました。その過程で学んだことを私はブログに載せたのが始まりでした。
 「醸楽庵だより」第1号に次のような文章を載せています。金沢から山中温泉に向かう途中、那谷寺で芭蕉が詠んだ句が「石山の石より白し秋の風」です。2014、11、13、に投稿したものです。
「石山の石より白し秋の風  芭蕉
 なぜ秋の風は白いの。芭蕉はなぜ秋の風を白く感じたのだろう。不思議だ。私は全然秋風が白いなんて感じたことはない。「吹き来れば身にも沁みける秋風を色なきものと思ひけるかな」と平安時代の歌人は詠んでいる。「秋風を色なきもの」と昔の日本人は感じた。秋風の吹く景色は殺風景だということかな。殺風景な景色を「色なきもの」と表現したのだ。殺風景な景色に吹く風が身に染みる。分かるな。
 「色なき風」はなぜ白いのかな。錦秋という季語が表現する色は赤や黄色に色づく紅葉の色だ。そこに吹く風が色なきものであるはずがない。秋風は紅葉を吹き飛ばす。色づいていた山から色が抜けていく。野山の景色を色なきものにしていくのが秋風だ。
 清少納言は「秋は夕暮」と言っている。夕暮の秋には秋を感じる。特に晩秋の夕暮に秋を感じる。晩秋の夕暮の景色には色がない。野山に紅葉がなくなった景色を見て、芭蕉は無常観を感じた。生あるものの哀しみを思った。この世の無常と哀愁に白をいう色を感じたのかな。」
 65歳になって初めて岩波文庫の『おくのほそ道』を最初から終わりまで読みました。十代の終わりごろ抱いていた芭蕉像が大きく変わりました。孤高の俳人・芭蕉というイメージが高校生の頃抱いたイメージでしたが、今はそうではなく、世俗に生きた生活力旺盛な俳諧師というイメージです。
 芭蕉は29歳という歳になって、江戸に出ている。高校生の頃はなぜ京都や大坂に出なかったのかという疑問を持っていたが、芭蕉は江戸に出たので、芭蕉は芭蕉になったと今、私は考えている。京都や大坂に出ていたら、芭蕉は芭蕉になることはなかった。そのように考えている。文化的には遥かに江戸より京都や大坂の方が高かった。文化的水準が京都や大坂に比べてより低い江戸に出たことによって芭蕉は俳諧の発句を文学へと引き上げることができた。芭蕉は江戸に出て、俳諧師になる道を選んだことによって言葉遊びの俳諧の連歌が文学になった。なぜ京都や大坂ではこのようなことができなかったのかと言うとその理由は俳諧の大御所と言われる人々が京都や大坂には大勢いたということだ。そのことによって若者の俳諧にある新しさが否定的に評価されがちである。新しさのある若者の俳諧が江戸にあっては受け入れられる余地が大きかった。潰される可能性が低かったということだ。若い俳諧師の生活が江戸では成り立ったということだ。農民の出である芭蕉にとってまず大事なことは俳諧師としての生活が成り立つということだ。俳諧に楽しみを求める人々がいて、初めて芭蕉の生活は成り立つ。新興都市江戸には日本中から仕事を求めて集まってくる人々がいた。江戸には貧民街が出現していた。そのような貧民街の住人の一人として芭蕉は江戸の住人になった。江戸深川は今だに東京の代表的な下町の一つである。
 芭蕉の文学はその出自から江戸町人の中から生まれてきている。公家といわれる人々や武士と言われる人々の中から芭蕉の文学は生まれて来たものではないということを私は知った。確かに芭蕉は過去の文学作品から大きな影響を受けていることは間違いないことではあるが、それら過去の文学作品を継承しながら新しい町人や農民の文学としての発句を詠んだ。芭蕉の文学を長谷川櫂氏はシェイクスピアの作品に匹敵するものとして評価している。全くその通りであり、ヨーロッパで起きたルネサンスに匹敵することを日本の文学において実現したのが芭蕉だと私は考えるようになった。『おくのほそ道』を読み終わったので現在は『徒然草』を読み始めたように次第です。私のつたない文章を読んでくださる読者の皆様、本当にありがとうございます。