遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『源氏物語を反体制文学として読んでみる』 三田誠広  集英社新書

2018-11-15 11:53:12 | レビュー
 タイトルに使われた「反体制文学として」という文言に惹かれて読んでみた。
 本書は、『源氏物語』の成立過程を重視しながら、その作者紫式部について著者の推論をかなり大胆に語っているところが、興味深くて印象的だった。本書を読んだことで知らなかった事実をいくつか知った。そのことをまずご紹介しよう。そんなこと常識だよと笑われるかもしれないが・・・。
 *南北朝時代に成立したとされる『尊卑分脈』には、紫式部について「御堂関白道長妾」という記述があるという。 p13
 *宇多天皇に抜擢された菅原道真は右大臣となり内覧の宣旨を与えられる。そして「荘園整理」に着手し財政改革をはかる。それは摂関家の荘園に多大の損失を与える結果となる。そこに太宰府左遷の因がある。 p56
 *藤原道長は、長女彰子を一条天皇のもとに入内させ、皇子の誕生によって摂関家としての政権は盤石となる。長徳元年(995)に内覧の宣旨を受けているが、道長は関白には成らなかった。道長の残した日記は『御堂関白記』と称されるが、それは後世につけられた俗称だとか。 p104,p191
 *道長は一条天皇が親政をめざそうとするのに対し、不要な対立を避ける形で時機を待つスタンスを貫いた。 p175
 *娘の彰子が生んだ長男の後一条天皇の即位により完全な外戚となる。 p193
 *道長は摂政を1年ほどつとめて、52歳で長男の頼通に職務を譲り引退した。 p197
 
 著者は、天皇の皇子から臣籍降下して源氏姓を得た源氏一族は、藤原摂関家の権勢の拡大過程で、没落していく悲劇の中にあったという。そして、藤原兼家が雌伏の時代を経て、独裁政権を確立するプロセスを具体的に論じていく。兼家の独裁により、抵抗勢力が源氏一族ばかりでなく、傍流の藤原一族にまで広がっていったという。この兼家に対し、円融天皇の寵愛を受け、男児(一条天皇)を産んだ娘の詮子までもが批判的な立場をとるようになる。それが左大臣源雅信の娘倫子に、4歳年下の三男道長を入り婿という形で結びつけることで、詮子は左大臣を自分の味方に引き入れたとみている。倫子は道長の正室となる。さらに倫子を道長の正室にする以前に、詮子が、失脚した源高明の娘明子を道長の愛妾として結び付けていると著者は推測している。この明子を側室と認めさせる前提で、倫子を道長の正室にすることを画策したとする解釈はおもしろい、藤原道長は若い頃、源氏一族と強い絆で結ばれていた。そのことが、父兼家と二人の兄たちの権勢や強引なやり方に距離を置かせる一つの要因にもなっていたとする。
 源雅信の邸が土御門殿であり、倫子のもとに入り婿となった道長は当然土御門殿に住むことになる。紫式部の自宅は東京極大路をはさみ土御門殿の斜向かいにあった。著者はこのことを重視している。

 紫式部が『源氏物語』を書着始めた時代は、道長の父兼家が摂政となり、絶対的な権勢を確立した時代である。つまり政治的体制は摂関政治であり、その黄金期を迎えていたということになる。著者はこれを「体制」という。一方、紫式部が『源氏物語』で描いた時代は、宇多天皇・醍醐天皇・村上天皇が親政を行った時代、つまり「延喜天暦の治」を念頭においていると考えられている。天皇親政の時代を背景として物語が展開していく。『源氏物語』には摂政も関白も登場しない。紫式部が生きた時代の体制の中での物語ではなく、「あえて皇族(天皇あるいは上皇)に権威があった時代を設定し、さらに『光源氏』とよばれるスーパーヒーローが、藤原一族を凌駕していく物語を書いた」(p30)ことが「反体制として」の創作だと著者は指摘する。「反体制として」はそういう意味合いで述べられたのか・・・・・である。「反体制」という言葉に過剰反応していたのだろうか、少し肩すかしをくらった感じを受けた。

 一方で、読んでおもしろかったのは、なぜそういうストーリーに設定されていったのかという点での著者の推論である。その箇所が読ませどころになっている。著者が藤原兼家の摂関政治体制確立のプロセスを詳しく説明したのは、その裏返しと言えるかもしれない。一方、この摂関体制確立のプロセスでどういうことがあったのかをかなり具体的に理解できるところが、通読する副産物としてのメリットである。具体的な系図や姻戚関係図を使った説明がわかりやすい。

 著者の論点だと私が理解した点を要約する。その論点を具体的事実や小説家としての経験を踏まえ、わかりやすく展開していくところが読ませどころになっている。
*紫式部の父藤原為時は儒学者だが、藤原氏の傍流で、長らく下級官吏階層のままだった。だから紫式部は権勢をもつ藤原摂関家に批判的立場・反抗する側の立場がわかる。
*紫式部は少女の頃から、左大臣の土御門殿には出入りしていた。そこは源氏一族の邸であり、女房たちは下級貴族の出身である。紫式部の書いた物語の直接の読者層はまず彼女たちだった。つまり、読者の関心・ニーズは源氏が活躍し、そこに登場するヒロインに己を重ねていける仮想現実の展開、単なる絵空事でなく、リアリティが感じられる物語である。著者は、読者のニーズが光源氏のキャラクターを作り上げたという。
*『源氏物語』に先行する有名な物語にも、反体制的な要素が含まれている。
*道長は『源氏物語』の評判が高まると、入内させた彰子のところに、一条天皇が訪れる誘引となる道具としてそれを利用した。一条天皇の関心は紫式部の創作意欲を高めることにもなる。
*一条天皇は自ら親政を行う意志を持っていたので、天皇と源氏を主体に描いた『源氏物語』に関心を寄せ、愛読者になった。

 藤原摂関家という政権を担い権勢を発揮する立場からみれば、『源氏物語』という物語の世界でいくら源氏がヒーローであろうと、反体制の政治思想自体を鼓舞するような内容でない限り、痛痒を感じないということではないのかと、本書を読み思った。「延喜天暦の治」と称される時代が過去にあったことは事実なのだから、その時代を懐かしむ程度に留まるならば、源氏一族や摂関家の体制に不満を持つ反抗勢力のガス抜きの役割すら果たすという意識があったかもしれない。道長が『源氏物語』を、一条天皇を引き寄せる道具に使ったということは、その内容において、政権担当者に害を及ぼすほどのことはないという判断があったからだろうと思う。ストーリーのメインは、光源氏を中心にしながらの男女の色恋、人間関係が描かれているのだから。
 著者は、「道長の専横に対する批判や怨嗟が下級貴族の間に広がっていたことが、源氏の英雄が活躍するこの物語の普及の大きな要因だったのではないだろうか」(p205)と記している。

 奥書を読むと、著者は大学で文学部の教授を歴任しているが、芥川賞を受賞した文学者である。日本史の研究者、学者ではない。そのため、『源氏物語』や『紫式部日記』などとともに参考文献を広く参照しつつも、独自に大胆な仮説(推論)を展開している。この部分も読ませどころとなっている。その仮設(推論)をいくつか要約しておこう。
*光源氏の「光」は「光輝くお方」と通常説明されている。著者は一歩踏み込み、「光」には「思いがけない天皇」という意味がこめられていると説く。 p24,p30
*『竹取物語』の作者に源順の名が挙がるのは、藤原一族の悪口を書くには、没落した源一族だからという憶測が働くから。 p121
*著者は『源氏物語』が「若紫」の巻から書き始められたとみる。 p130
*22歳頃の道長自身は、自分の将来について確たるビジョンを持っていなかった。p146
*紫式部が父の邸宅にいるころに、道長は紫式部を訪ね関係を持ったとみる。p165
*紫式部と藤原宣孝との縁談は道長が己の思惑からまとめたもの。 p168
*紫式部の生んだ女児は宣孝の娘ではなく、父親は道長と著者は推論する。 p170
*著者は、道長の栄光が長くは続かないと予見していたと推論する。 p201

 著者の仮説(推論)を含めて、『源氏物語』の構想・内容を考え、紫式部の素顔を考えるのには興味深い書となっている。

 ご一読ありがとうございます。
 タイトルに使われた「反体制文学として」という文言に惹かれて読んでみた。
 本書は、『源氏物語』の成立過程を重視しながら、その作者紫式部について著者の推論をかなり大胆に語っているところが、興味深くて印象的だった。本書を読んだことで知らなかった事実をいくつか知った。そのことをまずご紹介しよう。そんなこと常識だよと笑われるかもしれないが・・・。
 *南北朝時代に成立したとされる『尊卑分脈』には、紫式部について「御堂関白道長妾」という記述があるという。 p13
 *宇多天皇に抜擢された菅原道真は右大臣となり内覧の宣旨を与えられる。そして「荘園整理」に着手し財政改革をはかる。それは摂関家の荘園に多大の損失を与える結果となる。そこに太宰府左遷の因がある。 p56
 *藤原道長は、長女彰子を一条天皇のもとに入内させ、皇子の誕生によって摂関家としての政権は盤石となる。長徳元年(995)に内覧の宣旨を受けているが、道長は関白には成らなかった。道長の残した日記は『御堂関白記』と称されるが、それは後世につけられた俗称だとか。 p104,p191
 *道長は一条天皇が親政をめざそうとするのに対し、不要な対立を避ける形で時機を待つスタンスを貫いた。 p175
 *娘の彰子が生んだ長男の後一条天皇の即位により完全な外戚となる。 p193
 *道長は摂政を1年ほどつとめて、52歳で長男の頼通に職務を譲り引退した。 p197
 
 著者は、天皇の皇子から臣籍降下して源氏姓を得た源氏一族は、藤原摂関家の権勢の拡大過程で、没落していく悲劇の中にあったという。そして、藤原兼家が雌伏の時代を経て、独裁政権を確立するプロセスを具体的に論じていく。兼家の独裁により、抵抗勢力が源氏一族ばかりでなく、傍流の藤原一族にまで広がっていったという。この兼家に対し、円融天皇の寵愛を受け、男児(一条天皇)を産んだ娘の詮子までもが批判的な立場をとるようになる。それが左大臣源雅信の娘倫子に、4歳年下の三男道長を入り婿という形で結びつけることで、詮子は左大臣を自分の味方に引き入れたとみている。倫子は道長の正室となる。さらに倫子を道長の正室にする以前に、詮子が、失脚した源高明の娘明子を道長の愛妾として結び付けていると著者は推測している。この明子を側室と認めさせる前提で、倫子を道長の正室にすることを画策したとする解釈はおもしろい、藤原道長は若い頃、源氏一族と強い絆で結ばれていた。そのことが、父兼家と二人の兄たちの権勢や強引なやり方に距離を置かせる一つの要因にもなっていたとする。
 源雅信の邸が土御門殿であり、倫子のもとに入り婿となった道長は当然土御門殿に住むことになる。紫式部の自宅は東京極大路をはさみ土御門殿の斜向かいにあった。著者はこのことを重視している。

 紫式部が『源氏物語』を書着始めた時代は、道長の父兼家が摂政となり、絶対的な権勢を確立した時代である。つまり政治的体制は摂関政治であり、その黄金期を迎えていたということになる。著者はこれを「体制」という。一方、紫式部が『源氏物語』で描いた時代は、宇多天皇・醍醐天皇・村上天皇が親政を行った時代、つまり「延喜天暦の治」を念頭においていると考えられている。天皇親政の時代を背景として物語が展開していく。『源氏物語』には摂政も関白も登場しない。紫式部が生きた時代の体制の中での物語ではなく、「あえて皇族(天皇あるいは上皇)に権威があった時代を設定し、さらに『光源氏』とよばれるスーパーヒーローが、藤原一族を凌駕していく物語を書いた」(p30)ことが「反体制として」の創作だと著者は指摘する。「反体制として」はそういう意味合いで述べられたのか・・・・・である。「反体制」という言葉に過剰反応していたのだろうか、少し肩すかしをくらった感じを受けた。

 一方で、読んでおもしろかったのは、なぜそういうストーリーに設定されていったのかという点での著者の推論である。その箇所が読ませどころになっている。著者が藤原兼家の摂関政治体制確立のプロセスを詳しく説明したのは、その裏返しと言えるかもしれない。一方、この摂関体制確立のプロセスでどういうことがあったのかをかなり具体的に理解できるところが、通読する副産物としてのメリットである。具体的な系図や姻戚関係図を使った説明がわかりやすい。

 著者の論点だと私が理解した点を要約する。その論点を具体的事実や小説家としての経験を踏まえ、わかりやすく展開していくところが読ませどころになっている。
*紫式部の父藤原為時は儒学者だが、藤原氏の傍流で、長らく下級官吏階層のままだった。だから紫式部は権勢をもつ藤原摂関家に批判的立場・反抗する側の立場がわかる。
*紫式部は少女の頃から、左大臣の土御門殿には出入りしていた。そこは源氏一族の邸であり、女房たちは下級貴族の出身である。紫式部の書いた物語の直接の読者層はまず彼女たちだった。つまり、読者の関心・ニーズは源氏が活躍し、そこに登場するヒロインに己を重ねていける仮想現実の展開、単なる絵空事でなく、リアリティが感じられる物語である。著者は、読者のニーズが光源氏のキャラクターを作り上げたという。
*『源氏物語』に先行する有名な物語にも、反体制的な要素が含まれている。
*道長は『源氏物語』の評判が高まると、入内させた彰子のところに、一条天皇が訪れる誘引となる道具としてそれを利用した。一条天皇の関心は紫式部の創作意欲を高めることにもなる。
*一条天皇は自ら親政を行う意志を持っていたので、天皇と源氏を主体に描いた『源氏物語』に関心を寄せ、愛読者になった。

 藤原摂関家という政権を担い権勢を発揮する立場からみれば、『源氏物語』という物語の世界でいくら源氏がヒーローであろうと、反体制の政治思想自体を鼓舞するような内容でない限り、痛痒を感じないということではないのかと、本書を読み思った。「延喜天暦の治」と称される時代が過去にあったことは事実なのだから、その時代を懐かしむ程度に留まるならば、源氏一族や摂関家の体制に不満を持つ反抗勢力のガス抜きの役割すら果たすという意識があったかもしれない。道長が『源氏物語』を、一条天皇を引き寄せる道具に使ったということは、その内容において、政権担当者に害を及ぼすほどのことはないという判断があったからだろうと思う。ストーリーのメインは、光源氏を中心にしながらの男女の色恋、人間関係が描かれているのだから。
 著者は、「道長の専横に対する批判や怨嗟が下級貴族の間に広がっていたことが、源氏の英雄が活躍するこの物語の普及の大きな要因だったのではないだろうか」(p205)と記している。

 奥書を読むと、著者は大学で文学部の教授を歴任しているが、芥川賞を受賞した文学者である。日本史の研究者、学者ではない。そのため、『源氏物語』や『紫式部日記』などとともに参考文献を広く参照しつつも、独自に大胆な仮説(推論)を展開している。この部分も読ませどころとなっている。その仮設(推論)をいくつか要約しておこう。
*光源氏の「光」は「光輝くお方」と通常説明されている。著者は一歩踏み込み、「光」には「思いがけない天皇」という意味がこめられていると説く。 p24,p30
*『竹取物語』の作者に源順の名が挙がるのは、藤原一族の悪口を書くには、没落した源一族だからという憶測が働くから。 p121
*著者は『源氏物語』が「若紫」の巻から書き始められたとみる。 p130
*22歳頃の道長自身は、自分の将来について確たるビジョンを持っていなかった。p146
*紫式部が父の邸宅にいるころに、道長は紫式部を訪ね関係を持ったとみる。p165
*紫式部と藤原宣孝との縁談は道長が己の思惑からまとめたもの。 p168
*紫式部の生んだ女児は宣孝の娘ではなく、父親は道長と著者は推論する。 p170
*著者は、道長の栄光が長くは続かないと予見していたと推論する。 p201

 著者の仮説(推論)を含めて、『源氏物語』の構想・内容を考え、紫式部の素顔を考えるのには興味深い書となっている。

 ご一読ありがとうございます。