著者の作品群の中では、好きなシリーズの一つである。竜崎伸也というキャリアの警察官を主人公とするシリーズもの。今回は、大森署署長竜崎が実質的に最後の陣頭指揮をして解決する事件となる。なぜなら、竜崎に人事異動の内示が発令されるという噂を警視庁の伊丹俊太郎刑事部長が竜崎に告げるからである。それが事実になる。どこに異動となるのか?それは本書を開くお楽しみに残しておこう。
さて、今回は竜崎が朝出かける支度をしている時に、息子の邦彦がポーランドに留学しようと思っていると告げるところから始まる。邦彦は2年遅れで東大の学生になっている。留学すれば、さらに卒業が遅れることにもなる。
竜崎が大森署に着くと、大森署管内を通過している電車がシステムダウンで止まっているという。システムダウンの原因は発表されていないと聞き、竜崎は問い合わせてみるように指示を出す。原因不明という回答を聞くと、竜崎は生安課長を呼び大森署の管轄外で高輪にある私鉄の本社にサイバー犯罪に詳しい捜査員を行かせろと指示する。ところが、その直後に、ある銀行でもシステムダウンが発生したという。本店は千代田区大手町。竜崎はこちらにもすぐに捜査員を行かせろと指示する。このことが管轄重視の警察組織に波紋・軋轢を呼び起こす。勿論、事件性を感じたらすぐに行動を起こすという原理原則主義の竜崎は、つまらぬ組織間の軋轢は気にも留めないが、周囲はハラハラしている。初っ端から異色な始まりとなる。まずは例の野間崎管理官が弓削方面本部長の指示で竜崎の前に現れる。竜崎を良く知る野間口管理官は板挟みの心境である。また、警視庁の前園生安部長からも文句の電話が入ってくる。このストーリー、おもしろい出だしだ。読者は、どうなっていくのかと興味津々となることだろう。
翌朝5時に竜崎は携帯電話の振動で目を覚ます。平和の森公園内の池の畔で遺体が発見されたという。関本刑事組対課長からの報告である。竜崎は現場に臨場する。山辺検視官は遺体を見分し他殺と判断した。山辺は既に、竜崎がそろそろ禊を終えられる、つまり降格人事による警察署勤めを終えて異動するという噂を知っていた。山辺は、遺体に複数の殴打の跡が見られ、溺死させられたと判断したのだ。
殺人事件として大森署に捜査本部が立つ。捜査本部長は警視庁の伊丹刑事部長、竜崎が副本部長である。警視庁からは、田端捜査一課長、岩井管理官が加わる。岩井管理官が捜査本部の中心の管理官になる。そして、組織的には竜崎が実質的に陣頭指揮をとる形になっていく。
被害者については、大森署生安課に記録があった。少年係が以前からマークしていた非行グループのリーダーだった玉井敬太、18歳。夜回りをしていた少年係の根岸が深夜2時に恐喝の現場を押さえ、その結果家裁の審判により少年院送致となった。だが、一般短期処遇であり、6ヵ月後に少年院を出て来ていたのだ。そして元の非行少年グループに戻っていた。非行少年グループはギャングと呼ばれていた。捜査員は、このギャングのメンバー3人を任意同行させ事情聴取することから始めて行く。少年たちの取り調べということで、少年係の根岸が取り調べに立ち合う。彼女は、ギャングのメンバーたちの取調中に見せる普通より反抗的な態度から、誰かをかばっているのか、何かを恐れているのではないかと感じるという。
捜査が進展する中で、いくつかの事実がわかってくる。
*玉井が少年院入りする前には、「玉井一派」などと名乗っていたこと。
*玉井が少年院から出て来て、戻ってきた時には、ギャンググループは「ルナティク」と名乗っていたこと。いつ頃から「ルナティック」と名乗り始めたかは不明。
*「玉井一派」と名乗っていたころに、玉井は一人の少年をいじめていたということ。
*玉井が殺されていた状況はリンチ殺人のように見えたこと。
などである。
事情聴取を受けた少年たちが誰かをかばう、あるいは恐れている風に感じるのはなぜか? その点の解明が必要となっていく。
そんな最中に、文部科学省のホームページが改竄されたという事件が発生する。このハッキングは、私鉄や銀行のシステムダウンの実行犯と同一の可能性も言い出される。
玉井が少年院送りになる判断が家裁で下される前に、玉井は嵌められたのだと主張していたという。根岸が恐喝現場を目撃して逮捕していたのに、これはなぜか? このことを改めて調べ直すために当時の被害者を含めて改めて調査する作業も加わってくる。町の少年たちへの聞き込みを片っ端から根岸・戸高は行った結果から、少年たちもまた、事情聴取を受けたメンバー以上に何かを恐れている様子が見えるという。さらに、根岸は、大森署管内やネット上で、若者たちの間で、「ルナリアンが支配する」という言葉がよくみられるという。
恐喝を受けた被害者にも改めて事情聴取が行われ、当時の事件発生までの状況が明らかにされる。また、いじめの対象になっていた少年も判明し、警察に任意同行してもらい事情を聴取することになる。
捜査結果の事実を聞く一方、事情聴取に竜崎が立ち合うなどの行動から、思わぬ推論が竜崎には浮かび上がってくる。
竜崎は、システムダウンの問題解明に携わらせている捜査員の田鶴に電話連絡をした折り、思いつきで、ルナリアンを知っているかと尋ねる。田鶴は掲示板やSNSで話題になっていることを知っていた。これが田鶴を触発し、思いがけない発想に展開していく。それが事態解明に結びついていく。このストーリーの中では、田鶴のキャラクターがけっこう楽しい。
殺人事件を解明するためには物的証拠を懸命に捜査することが定石行動となている。聞き込み捜査も、物的証拠を発見し押さえるための作業である。だが、このストーリーでは、竜崎は信頼する部下たちが捜査過程で感じた思い・考えという物的証拠が未だない印象論にも合理性があると判断し、合理的な推論を展開していく。ここに原理原則主義者竜崎の新たな一面が加わっている。
「ルナリアン」は「ルナー」は「月」であり、「ルナリアン」は「月世界の人」という意味になる。「棲月」という本書のタイトルは、このルナリアンに由来するネーミングのようである。
このストーリーのおもしろいところは、内示の噂を知らされた竜崎の心に戸惑いが生じたという事実である。キャリアの国家公務員で警察官僚の己に取り、異動は当たり前という原理原則主義の己に起こった心理的動揺。竜崎には初めての体験だという。竜崎が実質的に陣頭指揮をとる捜査本部での捜査の展開プロセスの折々に、竜崎が己の心理の動きを自己分析していくことが織り込まれていく。これが正式に内示が伝えられる前の竜崎の準備となっていく。竜崎がどこに異動することになるのか? 読者にはそれが明らかになるプロセスを興味深く読む事ができる。
異動の噂を伊丹から聞いた後、竜崎は帰宅して、妻の冴子に一応そのことを心の準備として告げる。竜崎は己の動揺には触れずに、「もしかしたら俺は、大森署に来てからだめになったにかもしれない」と言う。冴子は即座にそれを逆だと否定する。「大森署があなたを人間として成長させたの」と。実に適切で楽しい発言ではないか。
このストーリー、竜崎の人事異動の内示と異動先の確定までに、家族を含め周辺の人々がどのように反応し意思表示していくかがおもしろい読ませどころにもなっていく。
本書の末尾は、竜崎の大森署での最終日を描いている。感動的な場面描写でエンディングとなる。竜崎は新任地へ車で向かうというのが最終行となる。
このシリーズ、当然今度の異動先での新たなポジションでの活躍が描かれることになるだろう。私は今から期待している。違ったおもしろみが加わるのではないかと。まさかこれでシリーズのエンディングではないだろう。
ご一読ありがとうございます。
このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『回帰 警視庁強行犯係・樋口顕』 幻冬舎
『変幻』 講談社
『アンカー』 集英社
『継続捜査ゼミ』 講談社
『サーベル警視庁』 角川春樹事務所
『去就 隠蔽捜査6』 新潮社
『マル暴総監』 実業之日本社
『臥龍 横浜みなとみらい署暴対係』 徳間書店
『真贋』 双葉社
『防諜捜査』 文藝春秋
『海に消えた神々』 双葉文庫
『潮流 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』 中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』 中公文庫
『鬼龍』 中公文庫
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新5版 (62冊)
さて、今回は竜崎が朝出かける支度をしている時に、息子の邦彦がポーランドに留学しようと思っていると告げるところから始まる。邦彦は2年遅れで東大の学生になっている。留学すれば、さらに卒業が遅れることにもなる。
竜崎が大森署に着くと、大森署管内を通過している電車がシステムダウンで止まっているという。システムダウンの原因は発表されていないと聞き、竜崎は問い合わせてみるように指示を出す。原因不明という回答を聞くと、竜崎は生安課長を呼び大森署の管轄外で高輪にある私鉄の本社にサイバー犯罪に詳しい捜査員を行かせろと指示する。ところが、その直後に、ある銀行でもシステムダウンが発生したという。本店は千代田区大手町。竜崎はこちらにもすぐに捜査員を行かせろと指示する。このことが管轄重視の警察組織に波紋・軋轢を呼び起こす。勿論、事件性を感じたらすぐに行動を起こすという原理原則主義の竜崎は、つまらぬ組織間の軋轢は気にも留めないが、周囲はハラハラしている。初っ端から異色な始まりとなる。まずは例の野間崎管理官が弓削方面本部長の指示で竜崎の前に現れる。竜崎を良く知る野間口管理官は板挟みの心境である。また、警視庁の前園生安部長からも文句の電話が入ってくる。このストーリー、おもしろい出だしだ。読者は、どうなっていくのかと興味津々となることだろう。
翌朝5時に竜崎は携帯電話の振動で目を覚ます。平和の森公園内の池の畔で遺体が発見されたという。関本刑事組対課長からの報告である。竜崎は現場に臨場する。山辺検視官は遺体を見分し他殺と判断した。山辺は既に、竜崎がそろそろ禊を終えられる、つまり降格人事による警察署勤めを終えて異動するという噂を知っていた。山辺は、遺体に複数の殴打の跡が見られ、溺死させられたと判断したのだ。
殺人事件として大森署に捜査本部が立つ。捜査本部長は警視庁の伊丹刑事部長、竜崎が副本部長である。警視庁からは、田端捜査一課長、岩井管理官が加わる。岩井管理官が捜査本部の中心の管理官になる。そして、組織的には竜崎が実質的に陣頭指揮をとる形になっていく。
被害者については、大森署生安課に記録があった。少年係が以前からマークしていた非行グループのリーダーだった玉井敬太、18歳。夜回りをしていた少年係の根岸が深夜2時に恐喝の現場を押さえ、その結果家裁の審判により少年院送致となった。だが、一般短期処遇であり、6ヵ月後に少年院を出て来ていたのだ。そして元の非行少年グループに戻っていた。非行少年グループはギャングと呼ばれていた。捜査員は、このギャングのメンバー3人を任意同行させ事情聴取することから始めて行く。少年たちの取り調べということで、少年係の根岸が取り調べに立ち合う。彼女は、ギャングのメンバーたちの取調中に見せる普通より反抗的な態度から、誰かをかばっているのか、何かを恐れているのではないかと感じるという。
捜査が進展する中で、いくつかの事実がわかってくる。
*玉井が少年院入りする前には、「玉井一派」などと名乗っていたこと。
*玉井が少年院から出て来て、戻ってきた時には、ギャンググループは「ルナティク」と名乗っていたこと。いつ頃から「ルナティック」と名乗り始めたかは不明。
*「玉井一派」と名乗っていたころに、玉井は一人の少年をいじめていたということ。
*玉井が殺されていた状況はリンチ殺人のように見えたこと。
などである。
事情聴取を受けた少年たちが誰かをかばう、あるいは恐れている風に感じるのはなぜか? その点の解明が必要となっていく。
そんな最中に、文部科学省のホームページが改竄されたという事件が発生する。このハッキングは、私鉄や銀行のシステムダウンの実行犯と同一の可能性も言い出される。
玉井が少年院送りになる判断が家裁で下される前に、玉井は嵌められたのだと主張していたという。根岸が恐喝現場を目撃して逮捕していたのに、これはなぜか? このことを改めて調べ直すために当時の被害者を含めて改めて調査する作業も加わってくる。町の少年たちへの聞き込みを片っ端から根岸・戸高は行った結果から、少年たちもまた、事情聴取を受けたメンバー以上に何かを恐れている様子が見えるという。さらに、根岸は、大森署管内やネット上で、若者たちの間で、「ルナリアンが支配する」という言葉がよくみられるという。
恐喝を受けた被害者にも改めて事情聴取が行われ、当時の事件発生までの状況が明らかにされる。また、いじめの対象になっていた少年も判明し、警察に任意同行してもらい事情を聴取することになる。
捜査結果の事実を聞く一方、事情聴取に竜崎が立ち合うなどの行動から、思わぬ推論が竜崎には浮かび上がってくる。
竜崎は、システムダウンの問題解明に携わらせている捜査員の田鶴に電話連絡をした折り、思いつきで、ルナリアンを知っているかと尋ねる。田鶴は掲示板やSNSで話題になっていることを知っていた。これが田鶴を触発し、思いがけない発想に展開していく。それが事態解明に結びついていく。このストーリーの中では、田鶴のキャラクターがけっこう楽しい。
殺人事件を解明するためには物的証拠を懸命に捜査することが定石行動となている。聞き込み捜査も、物的証拠を発見し押さえるための作業である。だが、このストーリーでは、竜崎は信頼する部下たちが捜査過程で感じた思い・考えという物的証拠が未だない印象論にも合理性があると判断し、合理的な推論を展開していく。ここに原理原則主義者竜崎の新たな一面が加わっている。
「ルナリアン」は「ルナー」は「月」であり、「ルナリアン」は「月世界の人」という意味になる。「棲月」という本書のタイトルは、このルナリアンに由来するネーミングのようである。
このストーリーのおもしろいところは、内示の噂を知らされた竜崎の心に戸惑いが生じたという事実である。キャリアの国家公務員で警察官僚の己に取り、異動は当たり前という原理原則主義の己に起こった心理的動揺。竜崎には初めての体験だという。竜崎が実質的に陣頭指揮をとる捜査本部での捜査の展開プロセスの折々に、竜崎が己の心理の動きを自己分析していくことが織り込まれていく。これが正式に内示が伝えられる前の竜崎の準備となっていく。竜崎がどこに異動することになるのか? 読者にはそれが明らかになるプロセスを興味深く読む事ができる。
異動の噂を伊丹から聞いた後、竜崎は帰宅して、妻の冴子に一応そのことを心の準備として告げる。竜崎は己の動揺には触れずに、「もしかしたら俺は、大森署に来てからだめになったにかもしれない」と言う。冴子は即座にそれを逆だと否定する。「大森署があなたを人間として成長させたの」と。実に適切で楽しい発言ではないか。
このストーリー、竜崎の人事異動の内示と異動先の確定までに、家族を含め周辺の人々がどのように反応し意思表示していくかがおもしろい読ませどころにもなっていく。
本書の末尾は、竜崎の大森署での最終日を描いている。感動的な場面描写でエンディングとなる。竜崎は新任地へ車で向かうというのが最終行となる。
このシリーズ、当然今度の異動先での新たなポジションでの活躍が描かれることになるだろう。私は今から期待している。違ったおもしろみが加わるのではないかと。まさかこれでシリーズのエンディングではないだろう。
ご一読ありがとうございます。
このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『回帰 警視庁強行犯係・樋口顕』 幻冬舎
『変幻』 講談社
『アンカー』 集英社
『継続捜査ゼミ』 講談社
『サーベル警視庁』 角川春樹事務所
『去就 隠蔽捜査6』 新潮社
『マル暴総監』 実業之日本社
『臥龍 横浜みなとみらい署暴対係』 徳間書店
『真贋』 双葉社
『防諜捜査』 文藝春秋
『海に消えた神々』 双葉文庫
『潮流 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』 中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』 中公文庫
『鬼龍』 中公文庫
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新5版 (62冊)