著者は「まえがき」で、悪の本質を実地で教えてくれた人物は、エリツィン・ロシア大統領の最側近だったゲンナジー・ブルブリス元ロシア国務長官だと言う。ブルブリスとの関わり方は、本書をお読み頂くとして、著者が彼から学んだことは、「どのような状況であっても自分が犯した悪を、善であると強弁してはならないということだ」と言う。そして、「悪の現実を、等身大で見つめ、その責任を自覚することが重要なのだ」と「まえがき」の末尾に記す。
そして、第1章「悪は人間によって行われる」の最初に、「『悪』という切り口から、人間に不安や混乱、ときには不幸をもたらす『悪の正体』を見極め、そこに囚われないためにはどうしたらいいか」(p21)ということについて、著者自身が経験から導き出したヒントを本書で語っている。本書は7章構成になっていて、各章の末尾に、著者は各章で語った各章毎のまとめを法則として要約している。
本書の特徴はいくつかある。
*著者はプロテスタントのキリスト教徒として聖書を常に持ち歩き、事あるごとに参照してきたという。大学でキリスト教神学を学び研究した視点を基盤として、悪の正体を見極めるという立場で論じている。つまり、「聖書の言葉を参照しながら、悪をリアルなものと感じ取る感覚をつかみましょう」(p33)と方向づける。
*結局のところ、人間と人間の関係の中、つまり「関係性における悪」が考究すべき課題とする。その視点で、著者の経験や過去並びに現代社会の事例を話材しながら、悪の現実について等身大で迫ろうとする。本書で採りあげられた話材の領域の広がりが興味深い。
*著者は本書で2冊の本を底本にしてその中に記された悪の問題を扱う上で重要な箇所を抽出し、一般読者にわかりやすい解説を加え、祖述しながら、持論を展開する。これらの本から抽出された箇所の文と聖書をワンセットにして、著者の経験を踏まえ現在的な意味を解説しつつ「悪の構造」をつかまえようとする試みである。
1冊は『悪の系譜』(大瀧啓裕訳、青土社)。著者はカリフォルニア大学サンタバーバラア校のの歴史学教授であり、哲学博士のジェフリー・バートン・ラッセルという。ラッセルは、悪魔論を論じる書として、『悪魔』・『サタン』・『ルシファー』・『メフィストフエレス』の「悪魔四部作」を出版し、その簡約版として著したのが『悪の系譜』だと言う。ラッセルの著書は歴史的な裏付けがきちんとなされていると本書の著者は述べている。
もう1冊は『人間への途上にある福音-キリスト信仰論』(平野清美訳、佐藤優監訳、新教出版社)である。著者はチェコの神学者ヨゼフ・フロマートカで、1958年、スターリン主義の影響が強かったチェコスロバキアで刊行された神学書だという。
しっかりした基盤を踏まえて、著者の論を展開していくという論法である。
著者の経験を踏まえた具体的事例や社会現象における関係性への著者の論及は、これらの基盤とする3冊の説くところについて、読者にその納得度を高める役割を果たしている。そこで、著者が導き出したエッセンスをいくつか引用あるいは要約的にご紹介しておこう。その導き出し方が本書の読ませどころといえる。
*「神学には、神が悪を創ったか否かという問題は存在しません。神が悪を創ることはありえず、神にはこの世の悪に対する責任が一切ないのです。こう結論が決まっているので、その過程でうまく理屈をつけていくのです。・・・・つまり、悪は善の欠如に過ぎない」(p43-44)この論理の展開が啓蒙主義に行き着く。
*ラッセルは「①悪は現実的で具体的である。②悪は人間によって行われる」(p56)という2点を定義している。悪は人間と人間の関係から生まれるのであり、「悪が人格かしたものが悪魔である」(p47)とラッセルは定義する。つまり「人間こそが悪魔」(p115)ということに帰着する。
*我々はいま、『悪に対する感度』が鈍くなった時代に生きているということへの自覚が必要である。悪に対して鈍感になることは、他者の苦痛に対しても鈍感になることなのだ。その結果、「集合的無意識から生じる超個人的な悪」が厳然と現れている。著者はその一例を指摘している。
*ここ数年世間を騒がせてきている「政治とカネ」「政治と悪」は、50年以上前に石川達三が書いた小説『金環蝕』(新潮文庫)に、「権力とカネ」の本質的な構造としてとらえられている。腐敗の構造、悪の構造は時代を経ても変わらない。
*著者は、フロマートカの文章から悪の本質とそれから逃れるヒントが隠されていると考える箇所を引用している。 p98
1)「悪と罪がとくにはびこるのは、人間が他者を踏みにじるところ、他者の尊厳を傷つけるところ、自分の利己的な目的のために他者を利用するところである。」
2)「人間同士の関係は個々人の自己中心性によって深く崩壊しているので、神の言葉は私たちのために、神だけでなく隣人をも絶えず新たに発見させてやらなければならない。」
著者はこの2つの悪の本質を具体的な事例を使いながら祖述し論を展開していく。
*キリスト教が信じているのは、究極的には神権だけであり、判断の基準は神である。人間が倫理的な価値判断を自分勝手に決めようとしたとき悪が生まれるのだ。
*著者は、フロマートカの挙げた「悪の本質」から論を展開した上で、新たに自ら「悪の三カ条」を加えている。つぎの3つである。各項の1行目だけ引用する。p129-129
1) 悪と呼ばれるものには、人間の責任がつきまとう。
2) 悪は人間の規模を超える。個人的な活動の限界も、個人的な責任の限界も超える。
3) 悪をありのままの姿で見る。悪を悪と呼び、虚偽を虚偽と呼び、邪悪を邪悪と呼ぶ。
著者は第2項を特に悪の構造を考える上で重要だと言う。我々は誰もが悪と無縁ではいられない世界に生きている。それを認識した上で、どう行動するべきかを論じていると言える。
*資本主義システムは、労働力の商品化の中に「搾取」の構造が内在化されている。その合法的合理的なシステムに構造的に悪が組み込まれている。故に、聖書を拠り所とするキリスト教では、基本的には資本主義的な発展に対して常に異議を申し立てる傾向がある。
第4章「不条理さに何を見るか」では旧約聖書のヨブ記の内容が読み解かれていく。そして第5章「言葉だけで心理を操る」では、映画「人のセックスを笑うな」の中に描かれる「悪の構造」をとりあげ、ヨブ記におけるサタンの登場と対比しつつ論じていく。第6章「直観と洞察力を働かせる」では、テロの脅威に溢れる現代社会と旧約聖書の創世記に登場するバベルの塔やノアの箱船の話を重ねて読み解いている。
これらの章では、キリスト教徒ではない読者にとり、聖書の読み方、読み解き方の一端にふれるという副産物があって、おもしろくかつ興味深い。
第7章「角度を変えて世界を見る」では、ドストエフスキーの描く悪と現在の「イスラム国」のテロ行為、内戦を関係づけて悪を論じていく。さらに、18世紀のライプニッツの発想から動物行動学者のコンラート・ローレンツやリチャード・ドーキンスの考え方に世界を理解する考え方を広げている。そして、悪の問題を考える上で、思想的潮流への目配りが大切だと論じている。
上記した各章のまとめとしての法則なるものを列挙しておく。
この法則が具体的に各章でどのように説かれているか、この印象記と以下の法則に興味を抱かれれば、本書を開きお読みいただければよい。
法則1 悪に無自覚であってはならない
悪に無自覚な人は、自分でもきふかないうちに人から恨みを買っていたり、
憎しみの対象になっていたりすることがある。
悪に鈍感であれば、「他者の苦痛」や人の気持ちが理解できなくなる。
人間と人間の関係の中から悪は生まれる。
法則2 欲望は自力でコントロールせよ
欲望とカネはスパイラルの関係にある。欲望は際限なく膨らみ、虚勢を張ったり、
貢いだり、カネはいくらあっても取りなくなる。
資本主義は、過剰な欲望を燃料に生き延びるシステムだ。
欲望を自力で調節しないと、悪に食われてしまう。
法則3 不当に人を利用してはならない
他人をうとましく思い排除しようとするとき、嘘に嘘を重ねたとき、
利己的に人間関係を利用したとき、夫婦、家族、友人との義務を守らなかったとき、
それらはすべて罪を犯し、悪をなしたことになる。
しかも悪は、個人的な責任の限界を超える。
法則4 正しいことをしても酷い目に遭うことがある
何不自由なく幸せに暮らしてきた善人が、
悪魔のささやきによって地獄の苦しみを味わう。
旧約聖書に描かれる「ヨブ記」は、正しい人がひどい目に遭う試練の物語だ。
因果関係による善悪が打ち砕かれ、理屈ではどうにもならないことがある。
法則5 反応しすぎてはならない
命令も要請もせず自在に人を動かす。権力における自らの優位性は手放さない。
そんな人物には気をつけた方がいい。これこそ典型的な悪の技法にほかならない。
「悪は言葉から生まれる」。すなわち、口から出てくるものが人を汚すのである。
法則6 目に見えるものだけが真実ではない
人生の基準は必ずしも自分の中だけにあるのではない。
不合理と思えることであっても、はっきり目に見えるものではなくても、
信用に値するものは存在する。直観の力を信じる場面は必ずある。
法則7 専門家と称する人物の行動を見続けよ
自然科学の物の見方の中にも、その時代に流行った思想が反映されるものだ。
悪について日々思考をめぐらせていると専門家や言論人の発言と行動の裏にある
「真のねらい」が見えてくる。正義を語る人には気をつけた方がいい。
最後に、本書には「一から分かる『新約聖書』の読み方と忙しい人のためのワンポイントレッスン」という付録が末尾にある。その小見出しをご紹介して終わりとしよう。
・役立つ聖書の読み方
・要約がうまくなる「抜き書き」の効用
・本の知識を定着させる「三度読み」と音読
・断片読みを手掛かりに功利的に生きる
そして、著者は「いかによく生きるか」が究極的な目標だと述べている。そのためにも、「悪の正体」を等身大でつかみ、悪から逃れる努力が不可欠だと論じている。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、ネット検索してみた結果を一覧にしておきたい。
ゲンナジー・ブルブリス :ウィキペディア
ジェフリー・バートン・ラッセル :ウィキペディア
Jeffrey Burton Russell From Wikipedia, the free encyclopedia
Jeffrey Burton Russell on the Geography of Heaven and Hell :YouTube
Exposing myths about Christianity - Jeffrey Barton Russell - theDove.us :YouTube
佐藤優氏がJ・L・フロマートカを解説 新教出版70周年講演会 :「SHRISTIAN TODAY」
ヨゼフ・フロマートカと佐藤優 :「THEOLOGIA ET PHILOSOPHIA」
ゴットフリート・ライプニッツ :ウィキペディア
モナド (哲学) :ウィキペディア
コンラート・ローレンツ :ウィキペディア
コンラート・ローレンツの名言 :「パーソナルトレーナー浜本哲治」
リチャード・ドーキンス :ウィキペディア
リチャード・ドーキンスの名言 :「パーソナルトレーナー浜本哲治」
戦闘的無神論 リチャード・ドーキンス :YouTube
【神と闘う男】進化論の雄、リチャード・ドーキンスまとめ【悪魔に仕える牧師】
:「NAVERまとめ」
日本の論理、そして思想を斬る 出口汪×佐藤優 :「DEGUCHI HIROSHI.com」
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ブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『小説・北方領土交渉 元外務省主任分析官・佐田勇の告白』 徳間書店
『私の「情報分析術」超入門 仕事に効く世界の捉え方』 徳間書店
『読書の技法』 東洋経済新報社
『新・帝国主義の時代 右巻 日本の針路篇』 中央公論新社
『新・帝国主義の時代 左巻 情勢分析編』 中央公論新社
そして、第1章「悪は人間によって行われる」の最初に、「『悪』という切り口から、人間に不安や混乱、ときには不幸をもたらす『悪の正体』を見極め、そこに囚われないためにはどうしたらいいか」(p21)ということについて、著者自身が経験から導き出したヒントを本書で語っている。本書は7章構成になっていて、各章の末尾に、著者は各章で語った各章毎のまとめを法則として要約している。
本書の特徴はいくつかある。
*著者はプロテスタントのキリスト教徒として聖書を常に持ち歩き、事あるごとに参照してきたという。大学でキリスト教神学を学び研究した視点を基盤として、悪の正体を見極めるという立場で論じている。つまり、「聖書の言葉を参照しながら、悪をリアルなものと感じ取る感覚をつかみましょう」(p33)と方向づける。
*結局のところ、人間と人間の関係の中、つまり「関係性における悪」が考究すべき課題とする。その視点で、著者の経験や過去並びに現代社会の事例を話材しながら、悪の現実について等身大で迫ろうとする。本書で採りあげられた話材の領域の広がりが興味深い。
*著者は本書で2冊の本を底本にしてその中に記された悪の問題を扱う上で重要な箇所を抽出し、一般読者にわかりやすい解説を加え、祖述しながら、持論を展開する。これらの本から抽出された箇所の文と聖書をワンセットにして、著者の経験を踏まえ現在的な意味を解説しつつ「悪の構造」をつかまえようとする試みである。
1冊は『悪の系譜』(大瀧啓裕訳、青土社)。著者はカリフォルニア大学サンタバーバラア校のの歴史学教授であり、哲学博士のジェフリー・バートン・ラッセルという。ラッセルは、悪魔論を論じる書として、『悪魔』・『サタン』・『ルシファー』・『メフィストフエレス』の「悪魔四部作」を出版し、その簡約版として著したのが『悪の系譜』だと言う。ラッセルの著書は歴史的な裏付けがきちんとなされていると本書の著者は述べている。
もう1冊は『人間への途上にある福音-キリスト信仰論』(平野清美訳、佐藤優監訳、新教出版社)である。著者はチェコの神学者ヨゼフ・フロマートカで、1958年、スターリン主義の影響が強かったチェコスロバキアで刊行された神学書だという。
しっかりした基盤を踏まえて、著者の論を展開していくという論法である。
著者の経験を踏まえた具体的事例や社会現象における関係性への著者の論及は、これらの基盤とする3冊の説くところについて、読者にその納得度を高める役割を果たしている。そこで、著者が導き出したエッセンスをいくつか引用あるいは要約的にご紹介しておこう。その導き出し方が本書の読ませどころといえる。
*「神学には、神が悪を創ったか否かという問題は存在しません。神が悪を創ることはありえず、神にはこの世の悪に対する責任が一切ないのです。こう結論が決まっているので、その過程でうまく理屈をつけていくのです。・・・・つまり、悪は善の欠如に過ぎない」(p43-44)この論理の展開が啓蒙主義に行き着く。
*ラッセルは「①悪は現実的で具体的である。②悪は人間によって行われる」(p56)という2点を定義している。悪は人間と人間の関係から生まれるのであり、「悪が人格かしたものが悪魔である」(p47)とラッセルは定義する。つまり「人間こそが悪魔」(p115)ということに帰着する。
*我々はいま、『悪に対する感度』が鈍くなった時代に生きているということへの自覚が必要である。悪に対して鈍感になることは、他者の苦痛に対しても鈍感になることなのだ。その結果、「集合的無意識から生じる超個人的な悪」が厳然と現れている。著者はその一例を指摘している。
*ここ数年世間を騒がせてきている「政治とカネ」「政治と悪」は、50年以上前に石川達三が書いた小説『金環蝕』(新潮文庫)に、「権力とカネ」の本質的な構造としてとらえられている。腐敗の構造、悪の構造は時代を経ても変わらない。
*著者は、フロマートカの文章から悪の本質とそれから逃れるヒントが隠されていると考える箇所を引用している。 p98
1)「悪と罪がとくにはびこるのは、人間が他者を踏みにじるところ、他者の尊厳を傷つけるところ、自分の利己的な目的のために他者を利用するところである。」
2)「人間同士の関係は個々人の自己中心性によって深く崩壊しているので、神の言葉は私たちのために、神だけでなく隣人をも絶えず新たに発見させてやらなければならない。」
著者はこの2つの悪の本質を具体的な事例を使いながら祖述し論を展開していく。
*キリスト教が信じているのは、究極的には神権だけであり、判断の基準は神である。人間が倫理的な価値判断を自分勝手に決めようとしたとき悪が生まれるのだ。
*著者は、フロマートカの挙げた「悪の本質」から論を展開した上で、新たに自ら「悪の三カ条」を加えている。つぎの3つである。各項の1行目だけ引用する。p129-129
1) 悪と呼ばれるものには、人間の責任がつきまとう。
2) 悪は人間の規模を超える。個人的な活動の限界も、個人的な責任の限界も超える。
3) 悪をありのままの姿で見る。悪を悪と呼び、虚偽を虚偽と呼び、邪悪を邪悪と呼ぶ。
著者は第2項を特に悪の構造を考える上で重要だと言う。我々は誰もが悪と無縁ではいられない世界に生きている。それを認識した上で、どう行動するべきかを論じていると言える。
*資本主義システムは、労働力の商品化の中に「搾取」の構造が内在化されている。その合法的合理的なシステムに構造的に悪が組み込まれている。故に、聖書を拠り所とするキリスト教では、基本的には資本主義的な発展に対して常に異議を申し立てる傾向がある。
第4章「不条理さに何を見るか」では旧約聖書のヨブ記の内容が読み解かれていく。そして第5章「言葉だけで心理を操る」では、映画「人のセックスを笑うな」の中に描かれる「悪の構造」をとりあげ、ヨブ記におけるサタンの登場と対比しつつ論じていく。第6章「直観と洞察力を働かせる」では、テロの脅威に溢れる現代社会と旧約聖書の創世記に登場するバベルの塔やノアの箱船の話を重ねて読み解いている。
これらの章では、キリスト教徒ではない読者にとり、聖書の読み方、読み解き方の一端にふれるという副産物があって、おもしろくかつ興味深い。
第7章「角度を変えて世界を見る」では、ドストエフスキーの描く悪と現在の「イスラム国」のテロ行為、内戦を関係づけて悪を論じていく。さらに、18世紀のライプニッツの発想から動物行動学者のコンラート・ローレンツやリチャード・ドーキンスの考え方に世界を理解する考え方を広げている。そして、悪の問題を考える上で、思想的潮流への目配りが大切だと論じている。
上記した各章のまとめとしての法則なるものを列挙しておく。
この法則が具体的に各章でどのように説かれているか、この印象記と以下の法則に興味を抱かれれば、本書を開きお読みいただければよい。
法則1 悪に無自覚であってはならない
悪に無自覚な人は、自分でもきふかないうちに人から恨みを買っていたり、
憎しみの対象になっていたりすることがある。
悪に鈍感であれば、「他者の苦痛」や人の気持ちが理解できなくなる。
人間と人間の関係の中から悪は生まれる。
法則2 欲望は自力でコントロールせよ
欲望とカネはスパイラルの関係にある。欲望は際限なく膨らみ、虚勢を張ったり、
貢いだり、カネはいくらあっても取りなくなる。
資本主義は、過剰な欲望を燃料に生き延びるシステムだ。
欲望を自力で調節しないと、悪に食われてしまう。
法則3 不当に人を利用してはならない
他人をうとましく思い排除しようとするとき、嘘に嘘を重ねたとき、
利己的に人間関係を利用したとき、夫婦、家族、友人との義務を守らなかったとき、
それらはすべて罪を犯し、悪をなしたことになる。
しかも悪は、個人的な責任の限界を超える。
法則4 正しいことをしても酷い目に遭うことがある
何不自由なく幸せに暮らしてきた善人が、
悪魔のささやきによって地獄の苦しみを味わう。
旧約聖書に描かれる「ヨブ記」は、正しい人がひどい目に遭う試練の物語だ。
因果関係による善悪が打ち砕かれ、理屈ではどうにもならないことがある。
法則5 反応しすぎてはならない
命令も要請もせず自在に人を動かす。権力における自らの優位性は手放さない。
そんな人物には気をつけた方がいい。これこそ典型的な悪の技法にほかならない。
「悪は言葉から生まれる」。すなわち、口から出てくるものが人を汚すのである。
法則6 目に見えるものだけが真実ではない
人生の基準は必ずしも自分の中だけにあるのではない。
不合理と思えることであっても、はっきり目に見えるものではなくても、
信用に値するものは存在する。直観の力を信じる場面は必ずある。
法則7 専門家と称する人物の行動を見続けよ
自然科学の物の見方の中にも、その時代に流行った思想が反映されるものだ。
悪について日々思考をめぐらせていると専門家や言論人の発言と行動の裏にある
「真のねらい」が見えてくる。正義を語る人には気をつけた方がいい。
最後に、本書には「一から分かる『新約聖書』の読み方と忙しい人のためのワンポイントレッスン」という付録が末尾にある。その小見出しをご紹介して終わりとしよう。
・役立つ聖書の読み方
・要約がうまくなる「抜き書き」の効用
・本の知識を定着させる「三度読み」と音読
・断片読みを手掛かりに功利的に生きる
そして、著者は「いかによく生きるか」が究極的な目標だと述べている。そのためにも、「悪の正体」を等身大でつかみ、悪から逃れる努力が不可欠だと論じている。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、ネット検索してみた結果を一覧にしておきたい。
ゲンナジー・ブルブリス :ウィキペディア
ジェフリー・バートン・ラッセル :ウィキペディア
Jeffrey Burton Russell From Wikipedia, the free encyclopedia
Jeffrey Burton Russell on the Geography of Heaven and Hell :YouTube
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ヨゼフ・フロマートカと佐藤優 :「THEOLOGIA ET PHILOSOPHIA」
ゴットフリート・ライプニッツ :ウィキペディア
モナド (哲学) :ウィキペディア
コンラート・ローレンツ :ウィキペディア
コンラート・ローレンツの名言 :「パーソナルトレーナー浜本哲治」
リチャード・ドーキンス :ウィキペディア
リチャード・ドーキンスの名言 :「パーソナルトレーナー浜本哲治」
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【神と闘う男】進化論の雄、リチャード・ドーキンスまとめ【悪魔に仕える牧師】
:「NAVERまとめ」
日本の論理、そして思想を斬る 出口汪×佐藤優 :「DEGUCHI HIROSHI.com」
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その点、ご寛恕ください。)
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こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『小説・北方領土交渉 元外務省主任分析官・佐田勇の告白』 徳間書店
『私の「情報分析術」超入門 仕事に効く世界の捉え方』 徳間書店
『読書の技法』 東洋経済新報社
『新・帝国主義の時代 右巻 日本の針路篇』 中央公論新社
『新・帝国主義の時代 左巻 情勢分析編』 中央公論新社