決戦シリーズの第6弾で、7人の作家による短編競作集である。奥書を見ると「過ぎたるもの」「戦さ神」「蜻蛉切」「秀秋の戯」「燃ゆる病葉」の5篇は岐阜新聞・信濃毎日新聞に2016年7月より随時連載が開始され、「ダミアン長政」は「小説現代」2017年7月号に掲載されたという。「名だけを残して」は書き下ろしの作品とのこと。2017年7月に単行本として出版されている。
慶長5年(1600)9月15日早朝、関ヶ原に白く濃霧が漂う中で天下分け目の戦が東軍と西軍の間で始まった。この戦いはわずか半日で決着がついた。関ヶ原に臨んだ東軍・西軍の個別の武将の立場から、この戦いが語られて行く。関ヶ原の戦いは武将の立場に応じて、見え方と実相が異なっている。その多面性を楽しめるところが競作集の利点と言える。個々の短編の読後印象をまとめてみたい。
「ダミアン長政」 葉室麟
冒頭は慶長の朝鮮出兵の場面から始まる。黒田長政は、加藤清正の蔚山籠城戦を救援するために長躯し、背後を急襲して明・朝鮮軍を退却させる。だが、追撃しなかったと秀吉に報告され秀吉が激怒したことに対し、長政は石田三成に怒りを抱く。「豊臣家に神の罰を下してくれる」と。著者は長政が徳川家康に味方する原点をここに見ている。
秀吉の九州征伐の折、20歳の長政が陣中で自ら進んで修道僧から受洗したと記す。父の如水(通称官兵衛)のことは有名だが、長政の受洗は知らなかった。
秀吉の死後に三成が「<啐啄同時>の機がわかるのは黒田殿だけと存ずるゆえに」と長政に語る。長政は家康に味方し、西軍の小早川秀秋、吉川広家の調略も行い、積極的な戦を行う。その長政の行動と戦ぶりが描かれていく。だが、それは三成の語った言葉に対する長政の解釈であり行動でもあったという論理の転換が興味深い。捕縛され大津城外でさらしものになっている三成に長政が言う。「石田殿は一粒の麦でござる。ようなされた」と。
関ヶ原の合戦の位置づけについて、著者の視点がここに描き出されている。
「過ぎたるもの」 吉川永青
笹尾山に本陣を置いた石田三成の前衛として島左近(清興)は陣を張る。そこで繰り広げられた黒田長政ら東軍の右翼との間での戦いぶりを描いていく。
この短編は、なぜ島左近が三成のためにかくまで奮戦するのかという根源を描くところが核になっている。左近は三成の家臣となったが、友と呼び合う人間関係を築いていた。世の行く末を思う心が同じ方向を向いていたからだと著者は掘り下げていく。
清興が三成の許に仕官した後、「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」という歌が人々の口の端に上るようになったという。この短編のタイトルはここに由来する。島左近を描くことは、石田三成を描くことにもなっている。
「戦さ神」 東郷隆
会津の上杉景勝征伐という名目で豊臣恩顧の大名衆を率い、慶長5年(1600)7月に徳川家康は北上する。現栃木県小山市の思川沿いにある小山三城跡の一つに建てた大井楼上から家康が小荷駄隊の先頭を騎乗で進む武士を目に止める場面からストーリーが始まる。名は仙石久勝。略歴及び福島正則に属することを知ると家康は不機嫌になる。
石田三成が挙兵した報せを受けた家康は、急遽反転して東を目指す。真っ先に家康に味方すると宣言した福島正則とその配下の仙石久勝及び可児才藏たちの思いと行動を描く。
久勝と才蔵が盟友となった経緯を中軸に、山城国の愛宕権現を戦さ神として尊崇しつつ、活躍する姿を描く。そして、久勝の晩年の姿と高知市内の愛宕神社の由緒で締めくくる。家康のしたたかさと関ヶ原に名を残した一武将の生き様が活写されていておもしろい。
「名だけを残して」 箕輪諒
戦国時代、大半の大小名は家名の存続を第一目的に、主家の乗り換え、寝返りという変節を繰り返すのが常だった。関ヶ原の戦いにおいても、東軍の調略により寝返った者が多くいた。その中で、吹けば飛ぶような小領主から七万石の大名にまでのし上がった変節漢小川祐忠の生き様を著者はその典型例として描いて行く。
寝返りを繰り返し、無節操さを嘲笑われても、生き残った者の勝ちだと信じてきた祐忠が、関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、大谷吉継の采配のもとで、最後の勇名を残そうとする。大谷吉継の催した軍議の席で、過去の変節ぶりを脇坂安治に罵倒される。だが、その脇坂自身が密かに東軍側に変節していた事実を土壇場で知る羽目になり、祐忠はまたも小早川の裏切りに同調して大谷陣を攻撃する行動をとる。
賊名だけを後世に残した武将に光を当てた短編である。だが、大半の凡将は関ヶ原において、五十歩百歩の生き様だったのでは・・・・と考えさせる一篇でもある。
「蜻蛉切」 宮本昌孝
本田平八郎忠勝の生き様を描く。幼名を鍋之助と呼ばれた忠勝が、岡崎城下の伊賀八幡宮の社前で、長さ二間半・径二寸の鉄棒(如意鉄にょいがね)を自力で持ち上げるという試練に挑む場面から書き起こされる。これは本田平八郎家の男子が5歳を迎えた年の始めに行う家法だという。鍋之助がこれをやり遂げる姿がまず活写される。
その忠勝が元服し、十三歳の時に、叔父忠真が忠勝の手に合わせて作らせたと察せられる槍の柄とともに、忠勝の初陣の折に授けるようにと植村氏明から託された槍の穂を与えられる。その槍の穂は、三河文珠派の名工、藤原正真の大笹穂だった。それとともに、「この槍一筋をもって、終生、主君の御命を守り奉れ。なれど、決して、主君より長命を保ってはならぬ」と言う氏明の遺言を聞かされる。それが、忠勝のその後の人生の命題となっていく姿を描く。
蜻蛉切とは忠勝がある思いを込めて自らこの槍に付けた銘である。
信長の面前で、蜻蛉切の銘の由来を尋ねられる。従兄の栄政が代わりに答えるという機知を働かせた。この偽りを述べるエピソードがおもしろい。なぜか? その真意は最後に明かされる。忠勝の忠義一筋の生き様が鮮やかに描かれ、読ませどころとなる短編である。
「秀秋の戯」 天野純希
小早川秀秋は、関ヶ原の合戦に西軍の武将として加わり、松尾山の山城を横取りして将兵15,000人を率いて着陣した。秀秋自身の思いと判断という観点から、関ヶ原の合戦を描きあげて行く。早朝から始まった戦の半ばで、初めて秀秋は己の旗幟を明らかにし、西軍を裏切り大谷隊を攻撃する。この秀秋の裏切りが一気に東軍勝利への決定因となっていく。
一旦、秀吉の養子にさせられた秀秋は、秀吉の都合だけで、小早川家の養子に放り出される。その秀秋が戦というものに興を覚えるようになった経緯を織り込みながら、秀秋が関ヶ原の東西両軍をどのような観点から眺めていたかという秀秋の内心を描きあげていくところが興味深い。ここに描かれた秀秋は、腑抜けでも言いなりの馬鹿殿でもない。この大戦の勝敗を己の行動の選択で決定づけさせたいという思惑一点で動いた男として描きあげていく。秀秋が主観的主体的に行動したととらえ、そのしたたかさを描写するところが新鮮であり、おもしろい。
「燃ゆる病葉」 冲方丁
大谷吉継を正面から取り上げ、関ヶ原の合戦に彼がなぜ、どういう立場で、どういう思いで臨み、華々しく大谷隊の采配をふるい、最後は戦場で自刃して果てたかを描く。
戦は速度であり、速度をもって勝機をつかみ、戦に勝つことで富むことへ展開させていかねばならないという思いが、大谷吉継の義の根底にあると著者は記す。
壮年期に入り、奇怪な業病に罹患した吉継は、顔を白い頭巾で覆い、白い衣に甲冑を描かせた画鎧という姿で輿に乗り戦陣に出る。吉継は秀吉の没後、家康との親交を重ね、家康と三成の仲裁を行い、天下のためにともに歩むという願望をもっていた人物だと著者はいう。だが、最後は盟友三成の「貴様は幸いにして病んだから、わしのように矢面に立たずにすんだのだ」という言葉に、唐突に一理あると自覚し、吉継は三成に協力し西軍に加わる。その吉継の行動を描いていく。
「三成も自分も、最後まで一国の領土を得るためになど、戦いはしなかった。あくまで天下太平の義に従い、殉じるのである」(p279)と吉継の思いを著者は記す。
もし、大谷吉継が業病に無縁の武将であったなら戦国の世は・・・・と想像の翼を広げたくなる人物である。
関ヶ原の合戦には、まだまだ限りない作品化への視点がありそうである。作家の創作欲をかき立てる宝庫なのだろう。関ヶ原の3が続くのだろうか。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、ネット検索で得られる情報を調べてみた。一覧にしておきたい。
関ヶ原観光ガイド :「関ケ原古戦場おもてなし連合(関ケ原観光協会 事務局)」
関ヶ原観光実用マップ~関ヶ原の戦い史跡めぐり観光スポット情報50選
黒田長政 :ウィキペディア
「黒田長政」知略の父・官兵衛とは一線を画す、武勇に優れた将。 :「戦国ヒストリー」
島清興 :ウィキペディア
「三成に過ぎたるもの」島左近の墓の通説・異説 :「iRONNA 毎日テーマを議論する」
仙石久勝 :「コトバンク」
可児吉長 :ウィキペディア
小川祐忠 :ウィキペディア
本田忠勝 :ウィキペディア
戦国時代に神がかりの57戦無傷!徳川家康を支え続けた猛将、本多忠勝の忠義 :「和楽」
本多忠勝の生涯と5つの最強エピソード!年表付【徳川四天王 壱之太刀】:「武将ジャパン」
小早川秀秋 :ウィキペディア
小早川秀秋 :「コトバンク」
大谷吉継 :ウィキペディア
大谷吉継 :「武士道美術館」
大谷吉継 :「敦賀の歴史」
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決戦シリーズとして、以下のものを読み継いでいます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『決戦! 関ヶ原』 作家7人の競作集 講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方 講談社
『決戦! 桶狭間』 冲方・砂原・矢野・富樫・宮本・木下・花村 講談社
『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 忠臣蔵』 葉室・朝井・夢枕・長浦・梶・諸田・山本 講談社
『決戦! 三國志』 木下・天野・吉川・東郷・田中 講談社
『決戦! 新選組』 葉室・門井・小松・土橋・天野・木下 講談社
慶長5年(1600)9月15日早朝、関ヶ原に白く濃霧が漂う中で天下分け目の戦が東軍と西軍の間で始まった。この戦いはわずか半日で決着がついた。関ヶ原に臨んだ東軍・西軍の個別の武将の立場から、この戦いが語られて行く。関ヶ原の戦いは武将の立場に応じて、見え方と実相が異なっている。その多面性を楽しめるところが競作集の利点と言える。個々の短編の読後印象をまとめてみたい。
「ダミアン長政」 葉室麟
冒頭は慶長の朝鮮出兵の場面から始まる。黒田長政は、加藤清正の蔚山籠城戦を救援するために長躯し、背後を急襲して明・朝鮮軍を退却させる。だが、追撃しなかったと秀吉に報告され秀吉が激怒したことに対し、長政は石田三成に怒りを抱く。「豊臣家に神の罰を下してくれる」と。著者は長政が徳川家康に味方する原点をここに見ている。
秀吉の九州征伐の折、20歳の長政が陣中で自ら進んで修道僧から受洗したと記す。父の如水(通称官兵衛)のことは有名だが、長政の受洗は知らなかった。
秀吉の死後に三成が「<啐啄同時>の機がわかるのは黒田殿だけと存ずるゆえに」と長政に語る。長政は家康に味方し、西軍の小早川秀秋、吉川広家の調略も行い、積極的な戦を行う。その長政の行動と戦ぶりが描かれていく。だが、それは三成の語った言葉に対する長政の解釈であり行動でもあったという論理の転換が興味深い。捕縛され大津城外でさらしものになっている三成に長政が言う。「石田殿は一粒の麦でござる。ようなされた」と。
関ヶ原の合戦の位置づけについて、著者の視点がここに描き出されている。
「過ぎたるもの」 吉川永青
笹尾山に本陣を置いた石田三成の前衛として島左近(清興)は陣を張る。そこで繰り広げられた黒田長政ら東軍の右翼との間での戦いぶりを描いていく。
この短編は、なぜ島左近が三成のためにかくまで奮戦するのかという根源を描くところが核になっている。左近は三成の家臣となったが、友と呼び合う人間関係を築いていた。世の行く末を思う心が同じ方向を向いていたからだと著者は掘り下げていく。
清興が三成の許に仕官した後、「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」という歌が人々の口の端に上るようになったという。この短編のタイトルはここに由来する。島左近を描くことは、石田三成を描くことにもなっている。
「戦さ神」 東郷隆
会津の上杉景勝征伐という名目で豊臣恩顧の大名衆を率い、慶長5年(1600)7月に徳川家康は北上する。現栃木県小山市の思川沿いにある小山三城跡の一つに建てた大井楼上から家康が小荷駄隊の先頭を騎乗で進む武士を目に止める場面からストーリーが始まる。名は仙石久勝。略歴及び福島正則に属することを知ると家康は不機嫌になる。
石田三成が挙兵した報せを受けた家康は、急遽反転して東を目指す。真っ先に家康に味方すると宣言した福島正則とその配下の仙石久勝及び可児才藏たちの思いと行動を描く。
久勝と才蔵が盟友となった経緯を中軸に、山城国の愛宕権現を戦さ神として尊崇しつつ、活躍する姿を描く。そして、久勝の晩年の姿と高知市内の愛宕神社の由緒で締めくくる。家康のしたたかさと関ヶ原に名を残した一武将の生き様が活写されていておもしろい。
「名だけを残して」 箕輪諒
戦国時代、大半の大小名は家名の存続を第一目的に、主家の乗り換え、寝返りという変節を繰り返すのが常だった。関ヶ原の戦いにおいても、東軍の調略により寝返った者が多くいた。その中で、吹けば飛ぶような小領主から七万石の大名にまでのし上がった変節漢小川祐忠の生き様を著者はその典型例として描いて行く。
寝返りを繰り返し、無節操さを嘲笑われても、生き残った者の勝ちだと信じてきた祐忠が、関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、大谷吉継の采配のもとで、最後の勇名を残そうとする。大谷吉継の催した軍議の席で、過去の変節ぶりを脇坂安治に罵倒される。だが、その脇坂自身が密かに東軍側に変節していた事実を土壇場で知る羽目になり、祐忠はまたも小早川の裏切りに同調して大谷陣を攻撃する行動をとる。
賊名だけを後世に残した武将に光を当てた短編である。だが、大半の凡将は関ヶ原において、五十歩百歩の生き様だったのでは・・・・と考えさせる一篇でもある。
「蜻蛉切」 宮本昌孝
本田平八郎忠勝の生き様を描く。幼名を鍋之助と呼ばれた忠勝が、岡崎城下の伊賀八幡宮の社前で、長さ二間半・径二寸の鉄棒(如意鉄にょいがね)を自力で持ち上げるという試練に挑む場面から書き起こされる。これは本田平八郎家の男子が5歳を迎えた年の始めに行う家法だという。鍋之助がこれをやり遂げる姿がまず活写される。
その忠勝が元服し、十三歳の時に、叔父忠真が忠勝の手に合わせて作らせたと察せられる槍の柄とともに、忠勝の初陣の折に授けるようにと植村氏明から託された槍の穂を与えられる。その槍の穂は、三河文珠派の名工、藤原正真の大笹穂だった。それとともに、「この槍一筋をもって、終生、主君の御命を守り奉れ。なれど、決して、主君より長命を保ってはならぬ」と言う氏明の遺言を聞かされる。それが、忠勝のその後の人生の命題となっていく姿を描く。
蜻蛉切とは忠勝がある思いを込めて自らこの槍に付けた銘である。
信長の面前で、蜻蛉切の銘の由来を尋ねられる。従兄の栄政が代わりに答えるという機知を働かせた。この偽りを述べるエピソードがおもしろい。なぜか? その真意は最後に明かされる。忠勝の忠義一筋の生き様が鮮やかに描かれ、読ませどころとなる短編である。
「秀秋の戯」 天野純希
小早川秀秋は、関ヶ原の合戦に西軍の武将として加わり、松尾山の山城を横取りして将兵15,000人を率いて着陣した。秀秋自身の思いと判断という観点から、関ヶ原の合戦を描きあげて行く。早朝から始まった戦の半ばで、初めて秀秋は己の旗幟を明らかにし、西軍を裏切り大谷隊を攻撃する。この秀秋の裏切りが一気に東軍勝利への決定因となっていく。
一旦、秀吉の養子にさせられた秀秋は、秀吉の都合だけで、小早川家の養子に放り出される。その秀秋が戦というものに興を覚えるようになった経緯を織り込みながら、秀秋が関ヶ原の東西両軍をどのような観点から眺めていたかという秀秋の内心を描きあげていくところが興味深い。ここに描かれた秀秋は、腑抜けでも言いなりの馬鹿殿でもない。この大戦の勝敗を己の行動の選択で決定づけさせたいという思惑一点で動いた男として描きあげていく。秀秋が主観的主体的に行動したととらえ、そのしたたかさを描写するところが新鮮であり、おもしろい。
「燃ゆる病葉」 冲方丁
大谷吉継を正面から取り上げ、関ヶ原の合戦に彼がなぜ、どういう立場で、どういう思いで臨み、華々しく大谷隊の采配をふるい、最後は戦場で自刃して果てたかを描く。
戦は速度であり、速度をもって勝機をつかみ、戦に勝つことで富むことへ展開させていかねばならないという思いが、大谷吉継の義の根底にあると著者は記す。
壮年期に入り、奇怪な業病に罹患した吉継は、顔を白い頭巾で覆い、白い衣に甲冑を描かせた画鎧という姿で輿に乗り戦陣に出る。吉継は秀吉の没後、家康との親交を重ね、家康と三成の仲裁を行い、天下のためにともに歩むという願望をもっていた人物だと著者はいう。だが、最後は盟友三成の「貴様は幸いにして病んだから、わしのように矢面に立たずにすんだのだ」という言葉に、唐突に一理あると自覚し、吉継は三成に協力し西軍に加わる。その吉継の行動を描いていく。
「三成も自分も、最後まで一国の領土を得るためになど、戦いはしなかった。あくまで天下太平の義に従い、殉じるのである」(p279)と吉継の思いを著者は記す。
もし、大谷吉継が業病に無縁の武将であったなら戦国の世は・・・・と想像の翼を広げたくなる人物である。
関ヶ原の合戦には、まだまだ限りない作品化への視点がありそうである。作家の創作欲をかき立てる宝庫なのだろう。関ヶ原の3が続くのだろうか。
ご一読ありがとうございます。
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関ヶ原観光ガイド :「関ケ原古戦場おもてなし連合(関ケ原観光協会 事務局)」
関ヶ原観光実用マップ~関ヶ原の戦い史跡めぐり観光スポット情報50選
黒田長政 :ウィキペディア
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島清興 :ウィキペディア
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仙石久勝 :「コトバンク」
可児吉長 :ウィキペディア
小川祐忠 :ウィキペディア
本田忠勝 :ウィキペディア
戦国時代に神がかりの57戦無傷!徳川家康を支え続けた猛将、本多忠勝の忠義 :「和楽」
本多忠勝の生涯と5つの最強エピソード!年表付【徳川四天王 壱之太刀】:「武将ジャパン」
小早川秀秋 :ウィキペディア
小早川秀秋 :「コトバンク」
大谷吉継 :ウィキペディア
大谷吉継 :「武士道美術館」
大谷吉継 :「敦賀の歴史」
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決戦シリーズとして、以下のものを読み継いでいます。
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『決戦! 関ヶ原』 作家7人の競作集 講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方 講談社
『決戦! 桶狭間』 冲方・砂原・矢野・富樫・宮本・木下・花村 講談社
『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 忠臣蔵』 葉室・朝井・夢枕・長浦・梶・諸田・山本 講談社
『決戦! 三國志』 木下・天野・吉川・東郷・田中 講談社
『決戦! 新選組』 葉室・門井・小松・土橋・天野・木下 講談社