読み継いでいる作家の一人。読了後に少し関連情報をネット検索していて、遅ればせながら、この作品が2021年上期の直木賞受賞作だったということを知った。奥書を読むと、別冊文藝春秋(2019年7月号~2021年1月号)に連載後、2021年5月に単行本が出版されている。
本書は、河鍋暁斎と3番目の妻妻ちかとの間に生まれた長女とよ、画号河鍋暁翠の人生を、とよの視点から描き出している。師匠に「画鬼」の仇名を付けられ、自らも「画鬼」と称した河鍋暁斎。その父暁斎から5歳の時に「実を付けた柿の枝に、くりくりと丸い目の鳩が止まった小さな絵」(下絵)を与えられて、とよは絵を描き始めた。とよが絵師暁翠として生涯を方向付けられた瞬間である。
一言で言えば、「暁斎の桎梏・呪縛との葛藤」が本書のテーマになっている。とよは絵師として生涯に渡って父暁斎の画技・力量と闘い続けた。その苦しみが延々と描き込まれていく。それが一方で、とよ(暁翠)が絵師として己の画技を磨く礎になっていくのも事実である。
とよには腹違いの兄周三郎(暁雲)がいた。兄の周三郎ととよとの間には、父暁斎の作品を介して、絵師の技量について確執が存在した。だが、一方で周三郎ととよは共に「暁斎の桎梏・呪縛」に呻吟しているということも感じていた。その状況がこの小説の中心にある。
「ただ自分と父が、そして兄が、血縁以上に画技によって結ばれ、だからこそ暁斎の死後もなお互いを憎み、妬まずにはいられぬのは、まぎれもない事実だ」(p145)
「風狂だったあの父は、死んでもなお己の絵で以て自分たちを縛り付ける。周三郎は暁斎そっくりの絵を描きながら、こんな苦悩のただなかにあったのか。冷ややかな笑みを口元に絶えず浮かべながら、あまりにも偉大過ぎる父を愛し、憎み、足掻いていたのか、そう思えば暁斎と同じ病に倒れた周三郎の死は、長きにわたる父親との葛藤に敗れたかのようだ。」(p185)
「もともと暁斎は生写(写生)を尊ぶ狩野派の技術に桁外れの想像力を混ぜ合わせ、更にやまと絵や浮世絵の技法すら貪欲に取り入れて、己の画風を築いた。ただ逆説的に言えば、脳裏に浮かんだ事物をそのまま紙上に現すには、徹底的に写生を繰り返し、万物を己の筆で捕らえておかねばならない。つまり暁斎の絵の根幹には、徹頭徹尾、狩野派の手法があったわけだ。
周三郎はそんな父に少しでも近づこうと足掻き続けて亡くなった。画鬼とまで呼ばれた暁斎は、それを知れば少しは倅を哀れと思うだろうか。」(p195)
「河鍋の家の者が暁斎に抗弁しなかったのは、彼を思いやってではない。とよが生まれる以前から、あの家では絵が描ける者だけが偉かった。・・・・暁斎そっくりの絵を描く周三郎は、大根畑の家での気ままな暮らしを許された。自分たちは赤い血ではなく、黒い墨で結び合わされた一家だったのだ。」(p220-221)
「家族を憎み続けた周三郎の孤独も、暁斎にその生前も没後も振り回され続けたとよの葛藤も。」(p221)
という風に、著者はとよの人生の節々でその桎梏・呪縛について語らせている。
読後に調べてみると、河鍋とよ(暁翠)は慶応3年12月10日〈1868年1月4日>生まれ、で昭和10年(1935)5月7日に死去。明治時代から昭和時代初期の日本画家、浮世絵師である。本書は、河鍋家と彼女の人生について、河鍋暁斎の弟子たちと暁斎と関わった様々な人々について、とよの視点から語られていく。とよの人生の節々に焦点を当てながら描写されていく。とよの人生の節として捉えられたフェーズに沿って簡略にご紹介していこう。
<蛙鳴く 明治22年、春>
長男周三郎には大根畑の家が与えられる。一方、河鍋家は明治20年に根岸金杉村に転居するが、明治22年暁斎がそこで死ぬ。暁斎の葬式前後の状況が描かれる。とよが河鍋家の中心的立場に置かれてしまう。そんなとよの状況と心理が描かれる。
「自分さえ胸をさすって堪えていれば、兄弟姉妹の平穏は保たれる。そして血によって結ばれた間柄とは、残念ながら互いがこの世に在る限り、否が応でもつながり続けねばならぬのだ。」(p33)とよには、青春時代に既に一種の諦念が生まれていく・・・・。
<かざみ草 明治29年、冬>
暁斎の死後、父の弟子で江戸屈指の豪商・鹿島屋清兵衛の勧めで、とよは鹿島屋が隠居所として建てた深川佐賀町の家に転居する。清兵衛の支援を受けつつ絵師としてとよが独り立ちしている状況、暁斎没後の弟子たちの去就、清兵衛が送り届けてきた梅の木の鉢植えに絡む顛末譚、清兵衛が芸妓を落籍し一方で写真館を開いた状況などが描かれる。清兵衛の行動が後々問題を引き起こす因となる。
<老龍 明治39年、初夏>
明治37年にとよは機械商・高田商会で働く高平常吉と結婚した。上野池之端七軒町の新居に移る。明治39年には子を身ごもっていた。夫の常吉はとよが絵を描くことに干渉はしなかった。とよは週に二度、女子美術学校で絵を教える立場になっていた。
本格的な狩野派・土佐派の絵は古臭いと見なされるように時代は大きく変化していた。周三郎が開いた百画会と橋本雅邦を筆頭とする日本美術院が対比的に描かれる。
とよは女子を出産する。「わが子までを、絵の道に巻き込んではならない。あんな画鬼の棲家の住人となるのは、自分一人で十分だ」(p145)と決意することになる。
周三郎は血を吐き、病臥する。婿養子だった鹿島屋清兵衛は離縁される状況に転落する。とよは女子美での教授を辞める。とよの周辺で有為転変がみられることに・・・・・。絵の世界における時代の変遷が描き込まれていく。
「夫は優しい。さりながらいつぞや周三郎が罵った通り、優しいとはそれだけとよをちゃんと見ていない事実の裏返しだ。・・・・泥濘にまみれてもなお描き続けなければならぬ自分たちの宿業を、彼は決して理解してはくれぬだろう。」(p175)
とよは常吉との間に心理的隔たりを感じ始める。
<砧 大正2年、春>
暁斎の二十五回忌法要。浅草伝法院の新書院で「河鍋暁斎遺墨展覧会」も催される。
とよは、我が子よしを引き取り、高平常吉とは別居してはや6年ほどになっていた。再び根岸の家で暮らしていた。絵師として生きるとよの生活環境が変化していく。
この展覧会に鹿島清兵衛が訪れる。今は梅若流の能で笛師を生業にしていた。秋に行われる梅若舞台で「砧」を吹くという。とよに観能してほしいと告げにきたのだ。
この展覧会に出席した弟子筋の人々の思い・思惑がとよの心を傷つけることになる。
「河鍋派なぞ、とよはご免だ。そんなものを自称しては、自分は終生、暁斎の軛から逃れられない。だいたいそれでは、周三郎があまりに気の毒ではないか。」(p197)
さらに、展覧会に訪れた栗原玉葉の事、真野八五郎の息子・松司の頼み事、「砧」の観能などのエピソードが織り込まれて行く。この観能はとよにとり、清兵衛とぽん太という夫婦の姿を通して夫婦の在り方を考えさせられる機会となる。
<赤い月 大正12年、初秋>
神田の道具屋の廣田がとよに掛幅の鑑定を頼みにくる。河鍋暁斎筆かどうか。とよはそれを見て、兄周三郎の絵だと判定する。それが契機で、その売主が音信の絶えていた兄嫁だと推測し、所在を確かめるのに廣田の助けを借りることに。だが、そこに関東大震災が襲ってくる。この大震災下でのとよの行動及び大震災の状況が描き出されていく。
この過程で、とよは思う。「人にとって家族とは、己の血肉同様に大切に思い、守ろうとする相手。だとすれば暁斎が真実、家族と考えていたのはとよや周三郎ではなく、自らの筆で生み出す絵だけだったのだろう。やはり自分たちは親子ではなく、ただの師弟だったのだ。」(p274)
とよは己とわが娘よしとの関係性の在り方に立ち戻って行く。「絆」とは何か。それはどのように築かれていくものなのか。深い問いかけがここにある。
大震災当時の根岸の地域の被害は比較的に少なかった、その状況も描かれる。
<画鬼の家 大正13年、冬>
真野松司の同行で正行院を訪れたとよは、その後浅草寺に足をのばす。そして偶然、ぽん太に出会う。清兵衛の消息を知るとともに、彼が今は三樹如月と名乗っていることを知る。ともは鎌倉に住む清兵衛宅を訪れる。父暁斎についての話を聞く為である。この時はじめて、ぽん太がゑつという名前であることを清兵衛から聞かされる。
ともは村松梢風から河鍋暁斎の評伝を取り上げたいので話を聞きたいと懇願されていたのだった。
それまで、話をするのを拒否していたとよは、村松の求めに応じて父暁斎の話をすることになる。その場面がこのストーリーのエンディングとなる。
清兵衛がとよに語ったことがとよを動かしたのだろう。
「わたしが、どんな目に遭ってもゑつと別れられなかったように、とよさんもまたその年まで絵を続けているのは、そこに少しなりとも喜びがあったためではないですか。暁斎先生や周三郎さんへの引け目のせいで、ご自身の中にある喜びに顔を背けちゃいませんか」(p315)
このあと地の文として「人は喜び、楽しんでいいのだ。生きる苦しみ哀しみと、それは決して矛盾はしない。いや、むしろ人の世が苦悩に満ちていればこそ、たった一瞬の輝きは生涯を照らす灯火となる」(p316)とつづく。
本書のタイトル「星落ちて、なお」は、その語句そのものは出て来なかったと思う。だが、この象徴的な語句の後には、本書末尾の少し前に記述されている「彼らの生きた事実はいまだ空の高みに輝き続けている。そしてそれらを指し示す者がいなければ、どれだけ眩しかった輝きもいずれは忘れ去られてしまうのだ」(p320)がつながるのではないかと、私は読後印象として受けとめた。
その一方で、「星落ちて、なお」という語句は、河鍋暁斎という巨星が落ち(=死亡して)、なお、その先でとよと兄周三郎が如何に苦闘しつづけたかというその桎梏・呪縛の存在という意味を重層化していると思う。
己の経験を経て辿りついた境地からの清兵衛の発言を契機に、とよの意識が転換していく。とよがその言葉を受容できるに至るまでの前段階の経緯が本書のストーリーである。つまり、とよにとって絵を描くという苦闘・苦悶のプロセスと様々な人生経験のプロセスそのものがあってこそ、とよが暁斎を語るという選択肢を受け入れた。拒否から受諾への心理の転換、それを読者の立場で味わうのが、このストーリーの醍醐味なのだろうと思う。
とよ、つまり河鍋暁翠の伝記風小説であるとともに、本書は併せて河鍋暁雲(周三郎)の小伝的側面を持っている。さらに、とよの父暁斎に対する思いの記述及び、とよと周三郎との確執の記述を媒体として、河鍋暁斎という絵師の存在を間接的に浮かび上がらせ語ることになっている。
いずれにしても、河鍋ファミリーについて、思いを馳せるには、読みやすくわかりやすい一書である。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連してネット検索してみた、一覧にしておきたい。
河鍋暁翠 :ウィキペディア
河鍋暁斎 :ウィキペディア
河鍋暁斎記念美術館 ホームページ
河鍋暁斎記念美術館 :「Art Agenda」
河鍋暁斎とは ゴールドマン・コレクション これぞ暁斎!:「Bunkamura」
河鍋暁雲 :ウィキペディア
綾部暁月 :ウィキペディア
石川光明 :ウィキペディア
橋本雅邦 :ウィキペディア
西郷孤月 :ウィキペディア
北村四海 :ウィキペディア
河鍋暁斎記念美術館 企画展「暁翠生誕150年記念 暁翠のお手本・画稿」展 同時開催 特別展「立原位貫 復刻版画」 YouTube
河鍋暁斎記念美術館 企画展「暁翠作品展―花鳥風月、そして美人―」展 同時開催 特別展「暁翠の弟子 小熊忠一氏寄贈作品展」 YouTube
父・暁斎から娘・暁翠に引き継がれた伝承とは? 暁斎の多彩な画業の本質に触れる「暁斎・暁翠伝」が開催中 :「美術手帖」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『輝山』 徳間書店
『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』 光文社
『駆け入りの寺』 文藝春秋
『日輪の賦』 幻冬舎
『月人壮士 つきひとおとこ』 中央公論新社
『秋萩の散る』 徳間書店
『関越えの夜 東海道浮世がたり』 徳間文庫
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』 徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』 徳間書店
『夢も定かに』 中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』 淡交社
『名残の花』 新潮社
『落花』 中央公論新社
『龍華記』 KADOKAWA
『火定』 PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』 集英社文庫
『腐れ梅』 集英社
『若冲』 文藝春秋
『弧鷹の天』 徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』 徳間書店
本書は、河鍋暁斎と3番目の妻妻ちかとの間に生まれた長女とよ、画号河鍋暁翠の人生を、とよの視点から描き出している。師匠に「画鬼」の仇名を付けられ、自らも「画鬼」と称した河鍋暁斎。その父暁斎から5歳の時に「実を付けた柿の枝に、くりくりと丸い目の鳩が止まった小さな絵」(下絵)を与えられて、とよは絵を描き始めた。とよが絵師暁翠として生涯を方向付けられた瞬間である。
一言で言えば、「暁斎の桎梏・呪縛との葛藤」が本書のテーマになっている。とよは絵師として生涯に渡って父暁斎の画技・力量と闘い続けた。その苦しみが延々と描き込まれていく。それが一方で、とよ(暁翠)が絵師として己の画技を磨く礎になっていくのも事実である。
とよには腹違いの兄周三郎(暁雲)がいた。兄の周三郎ととよとの間には、父暁斎の作品を介して、絵師の技量について確執が存在した。だが、一方で周三郎ととよは共に「暁斎の桎梏・呪縛」に呻吟しているということも感じていた。その状況がこの小説の中心にある。
「ただ自分と父が、そして兄が、血縁以上に画技によって結ばれ、だからこそ暁斎の死後もなお互いを憎み、妬まずにはいられぬのは、まぎれもない事実だ」(p145)
「風狂だったあの父は、死んでもなお己の絵で以て自分たちを縛り付ける。周三郎は暁斎そっくりの絵を描きながら、こんな苦悩のただなかにあったのか。冷ややかな笑みを口元に絶えず浮かべながら、あまりにも偉大過ぎる父を愛し、憎み、足掻いていたのか、そう思えば暁斎と同じ病に倒れた周三郎の死は、長きにわたる父親との葛藤に敗れたかのようだ。」(p185)
「もともと暁斎は生写(写生)を尊ぶ狩野派の技術に桁外れの想像力を混ぜ合わせ、更にやまと絵や浮世絵の技法すら貪欲に取り入れて、己の画風を築いた。ただ逆説的に言えば、脳裏に浮かんだ事物をそのまま紙上に現すには、徹底的に写生を繰り返し、万物を己の筆で捕らえておかねばならない。つまり暁斎の絵の根幹には、徹頭徹尾、狩野派の手法があったわけだ。
周三郎はそんな父に少しでも近づこうと足掻き続けて亡くなった。画鬼とまで呼ばれた暁斎は、それを知れば少しは倅を哀れと思うだろうか。」(p195)
「河鍋の家の者が暁斎に抗弁しなかったのは、彼を思いやってではない。とよが生まれる以前から、あの家では絵が描ける者だけが偉かった。・・・・暁斎そっくりの絵を描く周三郎は、大根畑の家での気ままな暮らしを許された。自分たちは赤い血ではなく、黒い墨で結び合わされた一家だったのだ。」(p220-221)
「家族を憎み続けた周三郎の孤独も、暁斎にその生前も没後も振り回され続けたとよの葛藤も。」(p221)
という風に、著者はとよの人生の節々でその桎梏・呪縛について語らせている。
読後に調べてみると、河鍋とよ(暁翠)は慶応3年12月10日〈1868年1月4日>生まれ、で昭和10年(1935)5月7日に死去。明治時代から昭和時代初期の日本画家、浮世絵師である。本書は、河鍋家と彼女の人生について、河鍋暁斎の弟子たちと暁斎と関わった様々な人々について、とよの視点から語られていく。とよの人生の節々に焦点を当てながら描写されていく。とよの人生の節として捉えられたフェーズに沿って簡略にご紹介していこう。
<蛙鳴く 明治22年、春>
長男周三郎には大根畑の家が与えられる。一方、河鍋家は明治20年に根岸金杉村に転居するが、明治22年暁斎がそこで死ぬ。暁斎の葬式前後の状況が描かれる。とよが河鍋家の中心的立場に置かれてしまう。そんなとよの状況と心理が描かれる。
「自分さえ胸をさすって堪えていれば、兄弟姉妹の平穏は保たれる。そして血によって結ばれた間柄とは、残念ながら互いがこの世に在る限り、否が応でもつながり続けねばならぬのだ。」(p33)とよには、青春時代に既に一種の諦念が生まれていく・・・・。
<かざみ草 明治29年、冬>
暁斎の死後、父の弟子で江戸屈指の豪商・鹿島屋清兵衛の勧めで、とよは鹿島屋が隠居所として建てた深川佐賀町の家に転居する。清兵衛の支援を受けつつ絵師としてとよが独り立ちしている状況、暁斎没後の弟子たちの去就、清兵衛が送り届けてきた梅の木の鉢植えに絡む顛末譚、清兵衛が芸妓を落籍し一方で写真館を開いた状況などが描かれる。清兵衛の行動が後々問題を引き起こす因となる。
<老龍 明治39年、初夏>
明治37年にとよは機械商・高田商会で働く高平常吉と結婚した。上野池之端七軒町の新居に移る。明治39年には子を身ごもっていた。夫の常吉はとよが絵を描くことに干渉はしなかった。とよは週に二度、女子美術学校で絵を教える立場になっていた。
本格的な狩野派・土佐派の絵は古臭いと見なされるように時代は大きく変化していた。周三郎が開いた百画会と橋本雅邦を筆頭とする日本美術院が対比的に描かれる。
とよは女子を出産する。「わが子までを、絵の道に巻き込んではならない。あんな画鬼の棲家の住人となるのは、自分一人で十分だ」(p145)と決意することになる。
周三郎は血を吐き、病臥する。婿養子だった鹿島屋清兵衛は離縁される状況に転落する。とよは女子美での教授を辞める。とよの周辺で有為転変がみられることに・・・・・。絵の世界における時代の変遷が描き込まれていく。
「夫は優しい。さりながらいつぞや周三郎が罵った通り、優しいとはそれだけとよをちゃんと見ていない事実の裏返しだ。・・・・泥濘にまみれてもなお描き続けなければならぬ自分たちの宿業を、彼は決して理解してはくれぬだろう。」(p175)
とよは常吉との間に心理的隔たりを感じ始める。
<砧 大正2年、春>
暁斎の二十五回忌法要。浅草伝法院の新書院で「河鍋暁斎遺墨展覧会」も催される。
とよは、我が子よしを引き取り、高平常吉とは別居してはや6年ほどになっていた。再び根岸の家で暮らしていた。絵師として生きるとよの生活環境が変化していく。
この展覧会に鹿島清兵衛が訪れる。今は梅若流の能で笛師を生業にしていた。秋に行われる梅若舞台で「砧」を吹くという。とよに観能してほしいと告げにきたのだ。
この展覧会に出席した弟子筋の人々の思い・思惑がとよの心を傷つけることになる。
「河鍋派なぞ、とよはご免だ。そんなものを自称しては、自分は終生、暁斎の軛から逃れられない。だいたいそれでは、周三郎があまりに気の毒ではないか。」(p197)
さらに、展覧会に訪れた栗原玉葉の事、真野八五郎の息子・松司の頼み事、「砧」の観能などのエピソードが織り込まれて行く。この観能はとよにとり、清兵衛とぽん太という夫婦の姿を通して夫婦の在り方を考えさせられる機会となる。
<赤い月 大正12年、初秋>
神田の道具屋の廣田がとよに掛幅の鑑定を頼みにくる。河鍋暁斎筆かどうか。とよはそれを見て、兄周三郎の絵だと判定する。それが契機で、その売主が音信の絶えていた兄嫁だと推測し、所在を確かめるのに廣田の助けを借りることに。だが、そこに関東大震災が襲ってくる。この大震災下でのとよの行動及び大震災の状況が描き出されていく。
この過程で、とよは思う。「人にとって家族とは、己の血肉同様に大切に思い、守ろうとする相手。だとすれば暁斎が真実、家族と考えていたのはとよや周三郎ではなく、自らの筆で生み出す絵だけだったのだろう。やはり自分たちは親子ではなく、ただの師弟だったのだ。」(p274)
とよは己とわが娘よしとの関係性の在り方に立ち戻って行く。「絆」とは何か。それはどのように築かれていくものなのか。深い問いかけがここにある。
大震災当時の根岸の地域の被害は比較的に少なかった、その状況も描かれる。
<画鬼の家 大正13年、冬>
真野松司の同行で正行院を訪れたとよは、その後浅草寺に足をのばす。そして偶然、ぽん太に出会う。清兵衛の消息を知るとともに、彼が今は三樹如月と名乗っていることを知る。ともは鎌倉に住む清兵衛宅を訪れる。父暁斎についての話を聞く為である。この時はじめて、ぽん太がゑつという名前であることを清兵衛から聞かされる。
ともは村松梢風から河鍋暁斎の評伝を取り上げたいので話を聞きたいと懇願されていたのだった。
それまで、話をするのを拒否していたとよは、村松の求めに応じて父暁斎の話をすることになる。その場面がこのストーリーのエンディングとなる。
清兵衛がとよに語ったことがとよを動かしたのだろう。
「わたしが、どんな目に遭ってもゑつと別れられなかったように、とよさんもまたその年まで絵を続けているのは、そこに少しなりとも喜びがあったためではないですか。暁斎先生や周三郎さんへの引け目のせいで、ご自身の中にある喜びに顔を背けちゃいませんか」(p315)
このあと地の文として「人は喜び、楽しんでいいのだ。生きる苦しみ哀しみと、それは決して矛盾はしない。いや、むしろ人の世が苦悩に満ちていればこそ、たった一瞬の輝きは生涯を照らす灯火となる」(p316)とつづく。
本書のタイトル「星落ちて、なお」は、その語句そのものは出て来なかったと思う。だが、この象徴的な語句の後には、本書末尾の少し前に記述されている「彼らの生きた事実はいまだ空の高みに輝き続けている。そしてそれらを指し示す者がいなければ、どれだけ眩しかった輝きもいずれは忘れ去られてしまうのだ」(p320)がつながるのではないかと、私は読後印象として受けとめた。
その一方で、「星落ちて、なお」という語句は、河鍋暁斎という巨星が落ち(=死亡して)、なお、その先でとよと兄周三郎が如何に苦闘しつづけたかというその桎梏・呪縛の存在という意味を重層化していると思う。
己の経験を経て辿りついた境地からの清兵衛の発言を契機に、とよの意識が転換していく。とよがその言葉を受容できるに至るまでの前段階の経緯が本書のストーリーである。つまり、とよにとって絵を描くという苦闘・苦悶のプロセスと様々な人生経験のプロセスそのものがあってこそ、とよが暁斎を語るという選択肢を受け入れた。拒否から受諾への心理の転換、それを読者の立場で味わうのが、このストーリーの醍醐味なのだろうと思う。
とよ、つまり河鍋暁翠の伝記風小説であるとともに、本書は併せて河鍋暁雲(周三郎)の小伝的側面を持っている。さらに、とよの父暁斎に対する思いの記述及び、とよと周三郎との確執の記述を媒体として、河鍋暁斎という絵師の存在を間接的に浮かび上がらせ語ることになっている。
いずれにしても、河鍋ファミリーについて、思いを馳せるには、読みやすくわかりやすい一書である。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連してネット検索してみた、一覧にしておきたい。
河鍋暁翠 :ウィキペディア
河鍋暁斎 :ウィキペディア
河鍋暁斎記念美術館 ホームページ
河鍋暁斎記念美術館 :「Art Agenda」
河鍋暁斎とは ゴールドマン・コレクション これぞ暁斎!:「Bunkamura」
河鍋暁雲 :ウィキペディア
綾部暁月 :ウィキペディア
石川光明 :ウィキペディア
橋本雅邦 :ウィキペディア
西郷孤月 :ウィキペディア
北村四海 :ウィキペディア
河鍋暁斎記念美術館 企画展「暁翠生誕150年記念 暁翠のお手本・画稿」展 同時開催 特別展「立原位貫 復刻版画」 YouTube
河鍋暁斎記念美術館 企画展「暁翠作品展―花鳥風月、そして美人―」展 同時開催 特別展「暁翠の弟子 小熊忠一氏寄贈作品展」 YouTube
父・暁斎から娘・暁翠に引き継がれた伝承とは? 暁斎の多彩な画業の本質に触れる「暁斎・暁翠伝」が開催中 :「美術手帖」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『輝山』 徳間書店
『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』 光文社
『駆け入りの寺』 文藝春秋
『日輪の賦』 幻冬舎
『月人壮士 つきひとおとこ』 中央公論新社
『秋萩の散る』 徳間書店
『関越えの夜 東海道浮世がたり』 徳間文庫
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』 徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』 徳間書店
『夢も定かに』 中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』 淡交社
『名残の花』 新潮社
『落花』 中央公論新社
『龍華記』 KADOKAWA
『火定』 PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』 集英社文庫
『腐れ梅』 集英社
『若冲』 文藝春秋
『弧鷹の天』 徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』 徳間書店