遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『奴の小万と呼ばれた女』 松井今朝子  講談社

2012-09-02 18:43:10 | レビュー
 山本兼一著『銀の島』の後に読んだのが、本書である。偶然だが、本書の構成も入れ子構造になっていた。そのこと自体がちょっとおもしろい。全く異なった領域をテーマにしている作家が、同じ発想の構成で作品づくりをしているということが。

 本書は、「わたし」が大阪梅田の地下街を迷路気分で歩き、いつの間にか地下街の際涯にたどり着き、細い隙間を進んだ奥に古書店を見つけ、そこに足を踏みいれる。和綴本を積んだ専門古書店だ。店主らしき老女から、「あんたのお捜しもんは、奥にある」と言われる。そして「これはうちにしかない大切なもんや」と手渡された本が「三好正慶尼聞書」という写本だった。
 「まあ、とくとご覧じ。よう考えはったらええ」と言われて、「わたし」は帳場格子の横の演台に腰をかけ和綴本を読み始める。
 それは200年も前の正慶尼という人物の生い立ちを記した本だった。そこには「奴の小万」と呼ばれた型破りな女の半生が記されていた。

 こんなイントロで、物語が始まる。ほんとに型破りな大女の生き様が描かれている。世間の型にはまったものの見方に反旗を翻した一人の女の痛快なエピソード、大阪の町で評判になった話が一杯盛り込まれている。著者は面白い創作を手がけたな・・・・と思いながら、ときには笑いをこらえながら、読み始めたら、そうではなかった。
 後に「奴の小万」と呼ばれた主人公は、実在の人物だった。著者は史実の行間に想像の翼をはばたかせ、「三好正慶尼聞書」という多分フィクションの形を借りて、物語を紡ぎ出していったのだろう。「わたし」が「聞書」で読み取った内容がこれなのだと。

 名を雪という。炭屋と薬種屋の業を兼ねた木津屋の娘。両親を早くしてなくし、京で御所勤めをしたことがある祖母・万に育てられた孫娘である。なぜ、この娘が「奴の小万」と呼ばれたのか。それが本書前半で、一つの山場にもなっている。
 お雪は7つで背丈が5尺に届いた。器量は良いが大女として成長していく。7つの時に、丁稚から手代に昇格したばかりの喜助が柔取りのところまで行くと聞き、好奇心から強引に付いていく。そこは島田流柔指南所だった。そこで、老師から柔を習い始める。このあたりから、「おもしろい娘」の本領を発揮しだす。お雪は精進するから上達する。
 勿論、一方で、御所勤めをした祖母から、読み書きを習わされ、聞香を習い、物語を読むように指導される。箏の習い事もある。結果的に、文武両道を習うという風変わりな鬼娘がここに誕生する。根底は、人並みを外れた大女に育ったことがそうさせたのか・・・。

 柔を習うことがきっかけで、浜仲仕で撥鬢奴と呼ばれる髪型、男侠気取りの矢筈の庄七と知り合う。16才の時、口縄坂で掏摸を投げ飛ばす。数え17才の時に、丹波屋の与四郎とのつきあいを祖母に仕組まれるが、謀を企て、しかしそれを自ら壊す結果にしてしまう。それが原因で矢筈の庄七との関係が深まっていく。まさに、ここからお雪の人生が大きく転換していったといえる。
 道頓堀の相生橋で、芝居帰りの娘らにからむ柄の悪い若者数人を見て、その一人にお雪が平手打ちを見舞う。それがなんと操り浄瑠璃「容競出入湊(すがたくらべでいりのみなと)」の芝居のネタにされてしまうのだ。芝居で付いた名前が「奴の小万」。それが町の評判になる。この芝居、実際に大受けした事実がありその資料が残っている。
 こんな調子で、世間の常識に背を向ける大女の価値観と行動力が作られていく。
 お雪は庄七との絡みから、さらに「奴の小万」を地でいく行動に突き進む。そして、それが京での宮仕えに出される原因となる。宮仕えの京で、「志摩」とだけ書かれた手紙を下人から受け取ったことがきっかけで、公家侍の棚倉志摩介と関係を持つようになる。
 兄の急死で宮仕えを辞し、木津屋に戻り、女主の修業を祖母からさせられることになる。この後お雪に、志摩介が再び関わって来ることになる。
 世間の目から見れば、びっくり仰天する事柄を次々に引き起こしていくお雪。世間の価値観に縛られずに、自分の考えで行動していく美人だが大女の生き様は、ある意味痛快であり、爽快感すら感じる。

 その一方で、お雪を温かい目で見る人達にも、巡り遭っていく。
 一人は、庄七に強引について行き、知り合うことになった黒船の親仁こと根津四郎右衛門。もう一人は、坪井屋吉右衛門から掛け軸仕立ての奇麗な花籠の絵を見せられたことがきっかけで、吉右衛門を介して会うことになる柳里恭である。
 この二人は、お雪にとって父親のような、庇護者の役割を担うことになる。
 また、この二人の人物も、それぞれ全くちがうが江戸時代の男の一つの生き様として、興味深い。やはり、世間一般の人生尺度からは外れた人々であるからだろうか。
 同業の寄合の席に出席したお雪が、そこで坪井屋吉右衛門と知り合いになる。彼は、柳里恭をお雪に引き合わせることになる人物だ。本書では、吉右衛門について、19歳の頃から、お雪、つまり奴の小万に憧れをいだいていた但馬屋のお示と祝言してしばらくの時期までにわたって点描している。

 木津屋の女主になったお雪は、祖母から婿取りを画策されるが、やはりここでも己の生き方を通すことになる。女主としての役割を果たす一方で、世間の尺度でみれば、とんでもないことを引き起こしていく結果になる。そこが、またお雪らしいというところか。
 これはお雪のその後の人生の転機にも直接つながるエピソードである。本書を開いてみてほしい。

 最終章は、「わたし」が「聞書」を半ばまで読んだところで、「もう店じまいや」と追い出されるところから始まる。そして、後日に記憶に残る内容から「聞書」の信憑性を確かめたとして、木津屋お雪に関わる史実、関係した実在の人々を簡略に紹介している。
 この事実・史実の記述が、今までの物語を一層際立たせることにもなっている。
 そこでは、柳里恭が柳沢淇園という名で知られていたこと。坪井屋吉右衛門が木村蒹葭堂として世に知られたこと。お雪が贔屓にした役者が後の初代嵐吉三郎であること。根津四郎右衛門のこと。晩年のお雪に会い印象を書き留めた瀧沢馬琴のその内容。お雪の晩年のエピソードを伝える書に記されていた内容などである。

 本書に出てくる印象深い文を引用しておこう。

*まずものをよく見ることだ。ただ眺めているのと、描こうとして見ていることのちがいは、絵を描くうちにだんだんわかってくる。  p201
*身のほどを超えようとしてあがく男の危うさは、いつも女心を昂らせるが、そうした男は女を世間でいう幸せにはしてくれない。   p255
*嬉しいときは誰でも笑える。哀しいときも笑うがよい。本当に嬉しいときは、肚の中でこっそり笑え。哀しいときこそ、声をあげて笑うてやれ。それがこの大阪の町に住む者の生きる極意じゃ。    p301

 鳥鐘の声を惜しまぬ年の丈  
と辞世の句を詠んだが、正慶尼(お雪)は危うく命をとりとめた。
そして、ふたたび詠んだ句が、
 未来かと思や難波の初日影  だという。
著者は「この句を詠んだあと、彼女はきっと腹を抱えて笑ったにちがいない」と記す。

 奴の小万と呼ばれた女は、「路上に頓死す」と伝えられているとか。


ご一読、ありがとうございます。

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 本書に関連する語句をネット検索した。一覧としてまとめておきたい。

草双紙 :ウィキペディア
三好正慶尼 :「木津屋 老舗商家の歴史」
奴の小万のこと  野田康弘氏

容競出入湊(すがたくらべでいりのみなと)
 「豊竹座、待望の大当たり」の項に記載されている。
 役者絵 として (上から2つ目の絵が、奴の小万。クリックで拡大絵が見られます)


四つ橋 → 四つ橋跡 :天佑神助氏
  四つ橋跡 : 「摂津名所図絵」
大阪住友銅吹所 :天佑神助氏
口縄坂 → 天王寺七坂 :ウィキペディア
源八渡しの跡 :大阪市

撥鬢奴 :コトバンク
撥鬢 → 髪型について:「河童ヶ淵」
豆板銀 :ウィキペディア
高津社  :「摂津名所図絵」
坐摩神社 :「摂津名所図絵」
豊竹座 → 文楽の歴史③ :「人形浄瑠璃 文楽」

根津四郎右衛門 → 宝暦12年5月2日 坪田敦緒氏
根津四郎右衛門 :近代デジタルライブラリー
竹内式部 ← 竹内敬持 :ウィキペディア
 宝暦事件 :ウィキペディア
坪井屋吉右衛門 → 木村蒹葭堂 :ウィキペディア
木村蒹葭堂邸跡 :「たんぶーらんの戯言」
柳里恭 → 柳沢淇園 :ウィキペディア
  柳里恭 寿老唐美人画幅
  花籠の絵 茶碗 
  江戸・家老50(20)大和郡山藩/柳沢里恭:「牆麿★コア~い話★とんだりはねたり」
竹田吉三郎 → 嵐吉三郎 :ウィキペディア
藤原家隆 :ウィキペディア

『南水漫遊』:コトバンク
『浪華人物誌』 :近代デジタルライブラリー

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 以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。

『家、家にあらず』
『そろそろ旅に』




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