長年本棚に積んでおいた本を取り出してきて、昨年12月のいわゆる赤穂浪士敵討ち実行の日と言われる時までに読み終えていた。それまでに印象記をまとめようと思いつつ、続きに他の本を読み始め、機を逸してついつい遅くなった。
本書のタイトルは、あきらかに「仮名手本忠臣蔵」を下敷きにして、それをもじったタイトルだろう。そうすると、「仮名手本忠臣蔵」とは何か? から始めるべきだろう。
手許にある『大辞林』(三省堂)を引くと、「仮名手本忠臣蔵」の項は次のように記す。「人形浄瑠璃の一。時代物。竹田出雲・三好松洛・並木千柳作。1748年竹本座初演。通称『忠臣蔵』。赤穂義士の仇討ち事件を題材としたもの。時代を『太平記』の世界にとり、塩谷判官(浅野内匠頭)の臣大星由良之助(大石内蔵助)ら四十七士が高師直(吉良上野介)を討つことを主筋に、お軽・勘平(菅野三平)の恋と忠義などを副題に脚色。初演後すぐに歌舞伎にも移された。人形浄瑠璃・歌舞伎の代表的演目で、興行して不入りのことがないところから、芝居の独参湯(どくじんとう:起死回生の妙薬)と称される」
また、「仮名手本」について、その第一羲は「いろは歌を平仮名で書いた習字の手本」とある。そして、第二義に「仮名手本忠臣蔵の略」と説明する。この第二義は、浄瑠璃で演じられすぐさま歌舞伎の演目となり、大評判となった結果、仮名手本と言えば「仮名手本忠臣蔵」をすぐに連想するほどに世に浸透したことによるという。
手許にある『日本語大辞典』(講談社)もほぼ同じ説明で、「赤穂義士の敵討ち」と記す。『広辞苑』(初版)は、両辞典より簡略な説明で「赤穂四十七士復讐の顛末」という表記が見られる。最新の版が初版より詳細な説明になっているのかどうかは確認していない。
これだけの情報でも、いくつか興味深い論点が含まれている。
1. 現時点で捉えると、史実を追究する研究者も「赤穂事件」という表記の他に上梓した本のタイトルに「忠臣蔵」という用語を使用している。勿論さまざまな作家が小説というフィクションの立場から「忠臣蔵」と表記する。本書の著者もその点は同じである。それだけ、「仮名手本忠臣蔵」というタイトルが創造され「忠臣蔵」が世に定着してしまったということだろう。
2. 「敵討ち」「仇討ち」「復讐」と表記に違いがあるが、元禄の泰平の世に勃発したこの「赤穂事件」を世間の庶民はじめ武士も含めて、武士の忠義という理念の有り様について考える「手本」とみることに賛同したのだろう思われる。そうでなければ「独参湯」になるわけがないからだ。観劇することで一種のカタルシスを感じるとすれば、そういう有り様が最早形骸化していたということの裏返しではないか。
「仮名手本」という語彙の原義からすれば、まさに武士の手本というニュアンスが浄瑠璃として書き上げた著者に織り込まれていたのだろう。それに人々が賛同したということになる。そこには当時の社会諷刺の側面も含まれているようにも思う。
3.「赤穂浪士」なのか「赤穂義士」なのか? これもおもしろいところ。
本書の著者は「赤穂浪士」と本書で表記する。手許に入手した忠臣蔵関連小説の中の最長編作・船橋聖一の『忠臣蔵』は赤穂浪士と書く。海音寺潮五郎は『赤穂浪士伝』として人物短編を書いている。火坂雅志は『忠臣蔵心中』で「赤穂の浪士」と書き、森村誠一は『吉良忠臣蔵』で「赤穂一党」という語句を使う。
討ち入りまでのプロセスでは基本的に浪士と解され、結果が出た後に義士として評価するという転換があるように受けとめた。浄瑠璃、歌舞伎はその結果を前提としているので、「義士」というコトバで、「仮名手本忠臣蔵」の辞書的説明がなされているということなのだろう。
討ち入り前に発覚して捕縛されていれば、狼藉な浪人の徒党と烙印を押され、抹殺されていたことだろうから。
脇道から入ってしまったが、本書は「仮名手本忠臣蔵」、先人作家の「忠臣蔵」関連小説そ存在をまず前提として、新たな視点だということを意図的に一見で感じられるように、「謎手本」とう語句をタイトルにつけたように感じた。
それは、「仮名手本忠臣蔵」が忠義、義理人情にターゲットを置いて、赤穂事件を下敷きにしつつも、別時代のお話に衣替えしたこととの創作舞台の対比がまずある。多くの現代作家と同様、赤穂事件そのものを主題にする。
そして、赤穂事件が成功するに至った原因がどこにあるかという「謎」の解明に主眼を置くというメッセージが、「謎手本」というネーミングにあるのではないか。大石内蔵助を筆頭にした赤穂浪士の行動プロセスに秘められた「謎」の部分に迫るという意図があるように思う。大石内蔵助の行動の謎がその筆頭にある。更に、著者は徳川幕藩体制の中で、赤穂事件が成功した「謎」が当時の徳川幕府と朝廷、徳川治政下の一般庶民の世評感という政治的なダイナミクスの側にあると、解き明かしているように思う。その側面での黒子的存在が柳沢保明だとしているように受け止めた。忠臣蔵の史実を踏まえ、未解明の部分の謎に解釈の手本を示すという大胆な意図を秘めたネーミングなのかもしれない。
この小説を読んだ第一印象は、大石内蔵助を主人公として描きながら、コインの両面の如く、五代将軍の御側用人筆頭・柳沢出羽守保明を陰の主人公としてパラレルに描いていくストーリーだということ。大石内蔵助が目的を達した裏には、柳沢保明の陰での密かな画策があった。結果的に赤穂事件がうまく収束するように、誰にも悟られぬように、あたかも透明人間的に立ち回った知られざる存在があった。そんなおもしろい謎解き視点に興味を抱いた。
第一章が元禄十四年の「柳沢保明周辺」から始まることからも柳沢保明が裏主人公と窺える。このストーリーの展開を見ると、松の廊下での浅野内匠頭の刃傷沙汰発生において、将軍直近の官僚として、浅野内匠頭に切腹を命じる即断を推進したのが柳沢安明である。それは幕藩体制維持の大原則を為政者の側近としての立場だ。一方、赤穂浪士の目的成就を間接的に見守って、将軍の願望達成を第一に置き、幕府の体面を維持し、世間大衆の思惑に対してもうまく対処するために、大石をはじめとする赤穂浪士を密かに間接的にサポートしたのも彼であるという観点で描き出しているように受け止めた。
大石内蔵助と柳沢保明が直接に絡み合う場面は出て来ない。しかし、柳沢保明が徳川幕府官僚として高みから、大石内蔵助とその周辺の動きを監視しつづけ、世相を勘案しながら見守り続けているという立場でいる。幕府の安泰という視点から優先順位付して、政策的に赤穂浪士の動きを捉えて、手配りをして行ったというストーリーの書き込み方がおもしろかった。多分その陰の行為を想像させる時宜の一致した断片的史実が点在するのだろう。本書には、吉良上野介をどう扱うと幕府にとって得策かという柳沢保明の頭脳を介した著者の視点があるように思う。
この小説では、将軍綱吉が母・桂昌院に朝廷から従一位の位を授けてもらいたいと切望する。幕府から朝廷への働きかけの推進を柳沢保明が担っている。柳沢保明の立場から著者はこれを「桂一計画」と称している。
この「桂一計画」において、吉良上野介が朝廷への交渉役として当初から関わっていたことに、まず発端がある。そして、江戸城での朝使の饗応役を指示されたのが浅野内匠頭。浅野内匠頭に饗応役というお鉢が回ってきた背景を書き込んでいるところがまずおもしろい。朝廷との交渉役であり、儀式典礼に詳しい高家としての上野介に、田舎大名の浅野内匠頭がまず指導を仰ぎ、そつなく饗応役の役目を終えようと努力する。しかし、結果は松の廊下の刃傷沙汰を引き起こす。そこに何があったのか。事象的には、当日江戸城への朝使の登営刻限変更があったという。登営刻限が早められたのだ。それはなぜか?
ストーリーが進展する中で浅野家と朝廷側との浅からぬ関係が背景に潜んでいたとする解釈が新鮮だった。
一見では意味不明な遺言を浅野内匠頭は残したという。
「兼ねて知らせ申すべく候へども、今日やむ事を得ず候ゆえ、知らせ申さず候」
この曖昧な表現に隠された意味の解明、謎解きが重要な問題になっていく。ここに、松の廊下の刃傷沙汰が内匠頭の乱心なのか、実はそうではなかったのか・・・・が謎解きされていく。大石内蔵助がその意味の謎解きにこそ、敵討ちの大義名分の根拠があるとする。この謎解き、なかなか興味深い展開になる。大石に内匠頭の無念の秘密を知るのは、江戸住まいのお部屋様(瑶泉院)のみと推断させている。大石が江戸に出て、密かにお部屋様に会える機会づくりとその成功がまず、関門となっていく。
大石内蔵助は国家老だったが、主君内匠頭の寵臣ではなく、ある種の距離を置いた合理的思考の人物と描く。主君は算勘定の細かい数字に強い大野九郎兵衛を寵愛したという。主君に寵愛されなかった大石が討ち入りをし、寵愛を受けた大野が四十七士には加わらなかったという結果もまた興味深い。
著者は大石のプロフィールの一端としてこんな局面を書き込んでいる。春風駘蕩の姿が地だった。武術は専守防衛でよいとし、型の武術練習を否定した。不意の攻撃への防御・居合い抜きの術を重視し、奥村無我の東軍流を修得した。上に立つ者は大局観こそ大事、本音と建前は使い分けねばならないとする。尚、大石は合理的な理詰めの思考をする人物として描いてく。計画の立案とともに、そのリスク対策を考え、時には臨機応変に計画を変更していける能力を備えていたとする。大石の合理的思考は冷徹さや見切りと繋がっている。そして、大石の思考の背景に、浅野家と朝廷との浅からぬ関係があったとする。
そんな大石が赤穂城の開城引き渡しに執った策と行動に端を発し、四十七士となった人数による討ち入り決行までの人選プロセスが実に合理的であり、おもしろい。そして、江戸詰めの赤穂浪士と国許勤務だった赤穂浪士の敵討ちへの情動の温度差の描写とそれら人々への大石の対処策も、討ち入り計画プロセス物語として、読み応えがある。人が己の思考と感情をどこに基盤を置きコントロールしているかの違いを感じとらせる。
例えば、刃傷事件が発生した時点で、赤穂浅野家には300人近い藩士が居たという。公称53,000石の禄高では、当時の大名が直接抱える人数は平均禄高の0.3%以下だったので、適正数は150人、多くても170~180人と著者は記す。つまり、大石内蔵助の算段は、藩取りつぶしの憂き目に遭う段階で、如何に不平不満を抑えながら、まずこの最初に騒動が起きないようにうまく軟着陸させることから始まるのである。このあたり、討ち入り計画の以前の問題を如何にうまく乗り切るかである。このあたりをかなり詳細にストーリーに盛り込んでいくところは、経営コンサルタントも経験した著者ならではの謎解きのスタートといえる。「こんなに多くては話にならぬ」「どうしたら、この数を減らすことができるか」と大石に思案させるところから始まっている。
大石が京の山科に居を構え、日夜放蕩三昧の姿を表面は示す。幕府方の隠密の躍動を如何にくぐり抜けるかからきた行動のようであるが、その遊びの一面は大石の本音部分でもあったようだ。著者は本音と建前の絡み合った放蕩三昧と描いているように思う。
このストーリーでは大石が主に伏見の橦木町の遊郭を拠点にしていたと描く。芝居や映画のフィクションではたしか祇園での放蕩場面がメインになるようだが、このあたりは史実に近い背景描写が行われている。著者がこの放蕩三昧に大石が費やした費用のことまで触れていて、かつそれが討ち入り計画のための公金の利用ではなく、大石の蓄財私費で賄い、峻別していたという点まで書き込んでいて、この点も大石内蔵助のプロフィールを形成する上で実に興味深い。世の政治家、高級官僚への「手本」にすべきところか。
著者は、柳沢保明が大石の立ち回りそうな遊郭にも、女隠密を潜ませる指示を出し、それが実行された上で、大石が隠密がなりすました遊女と深い仲になる設定にしていくところもおもしろい。
この小説で、著者はかなり討ち入り計画の準備・実行の客観性とリアル感に注力していると感じる。それは計画の原動力となる資金について、かなり具体的に金額を書き込んでいることと、討ち入り当日の彼我の戦闘能力の視点を分析的、具体的に数字を付して書き込んでいることにある。著者は書く。「初めから戦闘にならなかった」(p212)と。これも、討ち入りという課題プロジェクト達成という視点出見れば、成功要因の謎解きである。
本書を読み興味深く印象に残った点をいくつか補足として触れておきたい。
1.大石内蔵助が、浅野内匠頭の弟である浅野大学の決断去就を見極めようとしたということ。この辺り、著者の創作がどの程度入っているのか、興味がある。
2.大石たち赤穂浪士の討ち入りの武具衣裳などの調達を引き受けたのは、京の綿屋善右衛門と明記し、その諸道具の江戸への搬入プロセスをかなり具体的に描写していること。
大石内蔵助ら赤穂浪士を支援した大坂の商人として天野屋利兵衛の名が一般には知られている。国語辞典にもその名称が載っている。(広辞苑初版、大辞林、日本語大辞典で確認)尚その真偽を保留している辞書もあるが。ここにも著者の謎解きがあるのか。
3.ある機会に、国学の大家となった荷田春満(かだのあずままろ)が若き頃、江戸に出て羽倉斎(いつき)と称していて、吉良家との接点があったこと。赤穂浪士の討ち入りに於いては、情報を提供する支援をしていたということを知った。この小説を読み、羽倉斎が登場するので、やはり・・・と思った。
そして、もう一人、支援者として細井広沢という儒者を登場させている。柳沢保明に重用されていた人物であり、柳沢家を致仕した人。この小説で私は初めて知った人物である。この人物の支援はどこまでが史実を踏まえ、どこから著者のフィクションが入っているのか、興味深いところでもある。
4.吉良上野介の首を獲った後、赤穂浪士一党は泉岳寺に向かう訳であるが、どの道をどのように通過したのかについて、リアルに描いていることが印象深い。ある種の凱旋行進的なイメージを何となく抱いていたのだが、真逆の慎重なできうる限り秘やかな行動だったという描写は納得度がある。大石の為政者視点、合理的現実感覚に合致すると思った。
5.赤穂事件とからめていくように、赤穂塩をこのストーリーに取り込んでいることが、著者の実務感覚からなのかどうか・・・・。その着想を面白いと思う。
著者は、大石内蔵助があ「吉良邸討入り策覚え」という文書を記したと描写している。これは著者のフィクションなのか、事実そういう文書が残されているのだろうか。読者視点での「謎」が残る。事実レベルで忠臣蔵を論じた本も数冊出ている。いずれ、史実ベースの忠臣蔵も読み進めていきたい。入手して積ん読になっている。
史実レベルでの忠臣蔵分析書を読んで、再びこの小説に立ち戻って、再読したうえでフィクションとしての「謎手本」をレビューすると面白いかもしれない。
ご一読ありがとうございます。
補遺
元禄赤穂事件の一部始終 ホームページ
赤穂義士祭
大石良雄 :ウィキペディア
大石内蔵助の「内蔵助」をなぜ「くらのすけ」と読むのか。
:「レファレンス共同データベース」
吉良義央 :ウィキペディア
吉良上野介を巡る旅 :「西尾市観光協会」
柳沢吉保 :ウィキペディア
柳沢吉保 :「コトバンク」
細川広択 :ウィキペディア
細川広沢 :「コトバンク」
荷田春満 :ウィキペディア
天野屋利兵衛 :ウィキペディア
男でござる天野屋利兵衛 :「西粟倉村」
上杉家9代目当主 吉良上野介の子孫でもある上杉家から見た「忠臣蔵」 :「dot」
忠臣蔵・元禄事件とは? 八切止夫氏
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このブログを書き始めた後に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『利休の闇』 文藝春秋
『安土城の幽霊 「信長の棺」異聞録』 文藝春秋
本書のタイトルは、あきらかに「仮名手本忠臣蔵」を下敷きにして、それをもじったタイトルだろう。そうすると、「仮名手本忠臣蔵」とは何か? から始めるべきだろう。
手許にある『大辞林』(三省堂)を引くと、「仮名手本忠臣蔵」の項は次のように記す。「人形浄瑠璃の一。時代物。竹田出雲・三好松洛・並木千柳作。1748年竹本座初演。通称『忠臣蔵』。赤穂義士の仇討ち事件を題材としたもの。時代を『太平記』の世界にとり、塩谷判官(浅野内匠頭)の臣大星由良之助(大石内蔵助)ら四十七士が高師直(吉良上野介)を討つことを主筋に、お軽・勘平(菅野三平)の恋と忠義などを副題に脚色。初演後すぐに歌舞伎にも移された。人形浄瑠璃・歌舞伎の代表的演目で、興行して不入りのことがないところから、芝居の独参湯(どくじんとう:起死回生の妙薬)と称される」
また、「仮名手本」について、その第一羲は「いろは歌を平仮名で書いた習字の手本」とある。そして、第二義に「仮名手本忠臣蔵の略」と説明する。この第二義は、浄瑠璃で演じられすぐさま歌舞伎の演目となり、大評判となった結果、仮名手本と言えば「仮名手本忠臣蔵」をすぐに連想するほどに世に浸透したことによるという。
手許にある『日本語大辞典』(講談社)もほぼ同じ説明で、「赤穂義士の敵討ち」と記す。『広辞苑』(初版)は、両辞典より簡略な説明で「赤穂四十七士復讐の顛末」という表記が見られる。最新の版が初版より詳細な説明になっているのかどうかは確認していない。
これだけの情報でも、いくつか興味深い論点が含まれている。
1. 現時点で捉えると、史実を追究する研究者も「赤穂事件」という表記の他に上梓した本のタイトルに「忠臣蔵」という用語を使用している。勿論さまざまな作家が小説というフィクションの立場から「忠臣蔵」と表記する。本書の著者もその点は同じである。それだけ、「仮名手本忠臣蔵」というタイトルが創造され「忠臣蔵」が世に定着してしまったということだろう。
2. 「敵討ち」「仇討ち」「復讐」と表記に違いがあるが、元禄の泰平の世に勃発したこの「赤穂事件」を世間の庶民はじめ武士も含めて、武士の忠義という理念の有り様について考える「手本」とみることに賛同したのだろう思われる。そうでなければ「独参湯」になるわけがないからだ。観劇することで一種のカタルシスを感じるとすれば、そういう有り様が最早形骸化していたということの裏返しではないか。
「仮名手本」という語彙の原義からすれば、まさに武士の手本というニュアンスが浄瑠璃として書き上げた著者に織り込まれていたのだろう。それに人々が賛同したということになる。そこには当時の社会諷刺の側面も含まれているようにも思う。
3.「赤穂浪士」なのか「赤穂義士」なのか? これもおもしろいところ。
本書の著者は「赤穂浪士」と本書で表記する。手許に入手した忠臣蔵関連小説の中の最長編作・船橋聖一の『忠臣蔵』は赤穂浪士と書く。海音寺潮五郎は『赤穂浪士伝』として人物短編を書いている。火坂雅志は『忠臣蔵心中』で「赤穂の浪士」と書き、森村誠一は『吉良忠臣蔵』で「赤穂一党」という語句を使う。
討ち入りまでのプロセスでは基本的に浪士と解され、結果が出た後に義士として評価するという転換があるように受けとめた。浄瑠璃、歌舞伎はその結果を前提としているので、「義士」というコトバで、「仮名手本忠臣蔵」の辞書的説明がなされているということなのだろう。
討ち入り前に発覚して捕縛されていれば、狼藉な浪人の徒党と烙印を押され、抹殺されていたことだろうから。
脇道から入ってしまったが、本書は「仮名手本忠臣蔵」、先人作家の「忠臣蔵」関連小説そ存在をまず前提として、新たな視点だということを意図的に一見で感じられるように、「謎手本」とう語句をタイトルにつけたように感じた。
それは、「仮名手本忠臣蔵」が忠義、義理人情にターゲットを置いて、赤穂事件を下敷きにしつつも、別時代のお話に衣替えしたこととの創作舞台の対比がまずある。多くの現代作家と同様、赤穂事件そのものを主題にする。
そして、赤穂事件が成功するに至った原因がどこにあるかという「謎」の解明に主眼を置くというメッセージが、「謎手本」というネーミングにあるのではないか。大石内蔵助を筆頭にした赤穂浪士の行動プロセスに秘められた「謎」の部分に迫るという意図があるように思う。大石内蔵助の行動の謎がその筆頭にある。更に、著者は徳川幕藩体制の中で、赤穂事件が成功した「謎」が当時の徳川幕府と朝廷、徳川治政下の一般庶民の世評感という政治的なダイナミクスの側にあると、解き明かしているように思う。その側面での黒子的存在が柳沢保明だとしているように受け止めた。忠臣蔵の史実を踏まえ、未解明の部分の謎に解釈の手本を示すという大胆な意図を秘めたネーミングなのかもしれない。
この小説を読んだ第一印象は、大石内蔵助を主人公として描きながら、コインの両面の如く、五代将軍の御側用人筆頭・柳沢出羽守保明を陰の主人公としてパラレルに描いていくストーリーだということ。大石内蔵助が目的を達した裏には、柳沢保明の陰での密かな画策があった。結果的に赤穂事件がうまく収束するように、誰にも悟られぬように、あたかも透明人間的に立ち回った知られざる存在があった。そんなおもしろい謎解き視点に興味を抱いた。
第一章が元禄十四年の「柳沢保明周辺」から始まることからも柳沢保明が裏主人公と窺える。このストーリーの展開を見ると、松の廊下での浅野内匠頭の刃傷沙汰発生において、将軍直近の官僚として、浅野内匠頭に切腹を命じる即断を推進したのが柳沢安明である。それは幕藩体制維持の大原則を為政者の側近としての立場だ。一方、赤穂浪士の目的成就を間接的に見守って、将軍の願望達成を第一に置き、幕府の体面を維持し、世間大衆の思惑に対してもうまく対処するために、大石をはじめとする赤穂浪士を密かに間接的にサポートしたのも彼であるという観点で描き出しているように受け止めた。
大石内蔵助と柳沢保明が直接に絡み合う場面は出て来ない。しかし、柳沢保明が徳川幕府官僚として高みから、大石内蔵助とその周辺の動きを監視しつづけ、世相を勘案しながら見守り続けているという立場でいる。幕府の安泰という視点から優先順位付して、政策的に赤穂浪士の動きを捉えて、手配りをして行ったというストーリーの書き込み方がおもしろかった。多分その陰の行為を想像させる時宜の一致した断片的史実が点在するのだろう。本書には、吉良上野介をどう扱うと幕府にとって得策かという柳沢保明の頭脳を介した著者の視点があるように思う。
この小説では、将軍綱吉が母・桂昌院に朝廷から従一位の位を授けてもらいたいと切望する。幕府から朝廷への働きかけの推進を柳沢保明が担っている。柳沢保明の立場から著者はこれを「桂一計画」と称している。
この「桂一計画」において、吉良上野介が朝廷への交渉役として当初から関わっていたことに、まず発端がある。そして、江戸城での朝使の饗応役を指示されたのが浅野内匠頭。浅野内匠頭に饗応役というお鉢が回ってきた背景を書き込んでいるところがまずおもしろい。朝廷との交渉役であり、儀式典礼に詳しい高家としての上野介に、田舎大名の浅野内匠頭がまず指導を仰ぎ、そつなく饗応役の役目を終えようと努力する。しかし、結果は松の廊下の刃傷沙汰を引き起こす。そこに何があったのか。事象的には、当日江戸城への朝使の登営刻限変更があったという。登営刻限が早められたのだ。それはなぜか?
ストーリーが進展する中で浅野家と朝廷側との浅からぬ関係が背景に潜んでいたとする解釈が新鮮だった。
一見では意味不明な遺言を浅野内匠頭は残したという。
「兼ねて知らせ申すべく候へども、今日やむ事を得ず候ゆえ、知らせ申さず候」
この曖昧な表現に隠された意味の解明、謎解きが重要な問題になっていく。ここに、松の廊下の刃傷沙汰が内匠頭の乱心なのか、実はそうではなかったのか・・・・が謎解きされていく。大石内蔵助がその意味の謎解きにこそ、敵討ちの大義名分の根拠があるとする。この謎解き、なかなか興味深い展開になる。大石に内匠頭の無念の秘密を知るのは、江戸住まいのお部屋様(瑶泉院)のみと推断させている。大石が江戸に出て、密かにお部屋様に会える機会づくりとその成功がまず、関門となっていく。
大石内蔵助は国家老だったが、主君内匠頭の寵臣ではなく、ある種の距離を置いた合理的思考の人物と描く。主君は算勘定の細かい数字に強い大野九郎兵衛を寵愛したという。主君に寵愛されなかった大石が討ち入りをし、寵愛を受けた大野が四十七士には加わらなかったという結果もまた興味深い。
著者は大石のプロフィールの一端としてこんな局面を書き込んでいる。春風駘蕩の姿が地だった。武術は専守防衛でよいとし、型の武術練習を否定した。不意の攻撃への防御・居合い抜きの術を重視し、奥村無我の東軍流を修得した。上に立つ者は大局観こそ大事、本音と建前は使い分けねばならないとする。尚、大石は合理的な理詰めの思考をする人物として描いてく。計画の立案とともに、そのリスク対策を考え、時には臨機応変に計画を変更していける能力を備えていたとする。大石の合理的思考は冷徹さや見切りと繋がっている。そして、大石の思考の背景に、浅野家と朝廷との浅からぬ関係があったとする。
そんな大石が赤穂城の開城引き渡しに執った策と行動に端を発し、四十七士となった人数による討ち入り決行までの人選プロセスが実に合理的であり、おもしろい。そして、江戸詰めの赤穂浪士と国許勤務だった赤穂浪士の敵討ちへの情動の温度差の描写とそれら人々への大石の対処策も、討ち入り計画プロセス物語として、読み応えがある。人が己の思考と感情をどこに基盤を置きコントロールしているかの違いを感じとらせる。
例えば、刃傷事件が発生した時点で、赤穂浅野家には300人近い藩士が居たという。公称53,000石の禄高では、当時の大名が直接抱える人数は平均禄高の0.3%以下だったので、適正数は150人、多くても170~180人と著者は記す。つまり、大石内蔵助の算段は、藩取りつぶしの憂き目に遭う段階で、如何に不平不満を抑えながら、まずこの最初に騒動が起きないようにうまく軟着陸させることから始まるのである。このあたり、討ち入り計画の以前の問題を如何にうまく乗り切るかである。このあたりをかなり詳細にストーリーに盛り込んでいくところは、経営コンサルタントも経験した著者ならではの謎解きのスタートといえる。「こんなに多くては話にならぬ」「どうしたら、この数を減らすことができるか」と大石に思案させるところから始まっている。
大石が京の山科に居を構え、日夜放蕩三昧の姿を表面は示す。幕府方の隠密の躍動を如何にくぐり抜けるかからきた行動のようであるが、その遊びの一面は大石の本音部分でもあったようだ。著者は本音と建前の絡み合った放蕩三昧と描いているように思う。
このストーリーでは大石が主に伏見の橦木町の遊郭を拠点にしていたと描く。芝居や映画のフィクションではたしか祇園での放蕩場面がメインになるようだが、このあたりは史実に近い背景描写が行われている。著者がこの放蕩三昧に大石が費やした費用のことまで触れていて、かつそれが討ち入り計画のための公金の利用ではなく、大石の蓄財私費で賄い、峻別していたという点まで書き込んでいて、この点も大石内蔵助のプロフィールを形成する上で実に興味深い。世の政治家、高級官僚への「手本」にすべきところか。
著者は、柳沢保明が大石の立ち回りそうな遊郭にも、女隠密を潜ませる指示を出し、それが実行された上で、大石が隠密がなりすました遊女と深い仲になる設定にしていくところもおもしろい。
この小説で、著者はかなり討ち入り計画の準備・実行の客観性とリアル感に注力していると感じる。それは計画の原動力となる資金について、かなり具体的に金額を書き込んでいることと、討ち入り当日の彼我の戦闘能力の視点を分析的、具体的に数字を付して書き込んでいることにある。著者は書く。「初めから戦闘にならなかった」(p212)と。これも、討ち入りという課題プロジェクト達成という視点出見れば、成功要因の謎解きである。
本書を読み興味深く印象に残った点をいくつか補足として触れておきたい。
1.大石内蔵助が、浅野内匠頭の弟である浅野大学の決断去就を見極めようとしたということ。この辺り、著者の創作がどの程度入っているのか、興味がある。
2.大石たち赤穂浪士の討ち入りの武具衣裳などの調達を引き受けたのは、京の綿屋善右衛門と明記し、その諸道具の江戸への搬入プロセスをかなり具体的に描写していること。
大石内蔵助ら赤穂浪士を支援した大坂の商人として天野屋利兵衛の名が一般には知られている。国語辞典にもその名称が載っている。(広辞苑初版、大辞林、日本語大辞典で確認)尚その真偽を保留している辞書もあるが。ここにも著者の謎解きがあるのか。
3.ある機会に、国学の大家となった荷田春満(かだのあずままろ)が若き頃、江戸に出て羽倉斎(いつき)と称していて、吉良家との接点があったこと。赤穂浪士の討ち入りに於いては、情報を提供する支援をしていたということを知った。この小説を読み、羽倉斎が登場するので、やはり・・・と思った。
そして、もう一人、支援者として細井広沢という儒者を登場させている。柳沢保明に重用されていた人物であり、柳沢家を致仕した人。この小説で私は初めて知った人物である。この人物の支援はどこまでが史実を踏まえ、どこから著者のフィクションが入っているのか、興味深いところでもある。
4.吉良上野介の首を獲った後、赤穂浪士一党は泉岳寺に向かう訳であるが、どの道をどのように通過したのかについて、リアルに描いていることが印象深い。ある種の凱旋行進的なイメージを何となく抱いていたのだが、真逆の慎重なできうる限り秘やかな行動だったという描写は納得度がある。大石の為政者視点、合理的現実感覚に合致すると思った。
5.赤穂事件とからめていくように、赤穂塩をこのストーリーに取り込んでいることが、著者の実務感覚からなのかどうか・・・・。その着想を面白いと思う。
著者は、大石内蔵助があ「吉良邸討入り策覚え」という文書を記したと描写している。これは著者のフィクションなのか、事実そういう文書が残されているのだろうか。読者視点での「謎」が残る。事実レベルで忠臣蔵を論じた本も数冊出ている。いずれ、史実ベースの忠臣蔵も読み進めていきたい。入手して積ん読になっている。
史実レベルでの忠臣蔵分析書を読んで、再びこの小説に立ち戻って、再読したうえでフィクションとしての「謎手本」をレビューすると面白いかもしれない。
ご一読ありがとうございます。
補遺
元禄赤穂事件の一部始終 ホームページ
赤穂義士祭
大石良雄 :ウィキペディア
大石内蔵助の「内蔵助」をなぜ「くらのすけ」と読むのか。
:「レファレンス共同データベース」
吉良義央 :ウィキペディア
吉良上野介を巡る旅 :「西尾市観光協会」
柳沢吉保 :ウィキペディア
柳沢吉保 :「コトバンク」
細川広択 :ウィキペディア
細川広沢 :「コトバンク」
荷田春満 :ウィキペディア
天野屋利兵衛 :ウィキペディア
男でござる天野屋利兵衛 :「西粟倉村」
上杉家9代目当主 吉良上野介の子孫でもある上杉家から見た「忠臣蔵」 :「dot」
忠臣蔵・元禄事件とは? 八切止夫氏
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このブログを書き始めた後に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『利休の闇』 文藝春秋
『安土城の幽霊 「信長の棺」異聞録』 文藝春秋
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