本シリーズの第13弾に、私が生まれ育った京都と幾度か登山している立山が一緒になっている。京都と黒部ダムについてはテレビ番組の放映を見ていたので、本書を読むことが復習になるとともに、番組のシーンを思いだし連想しながら読んだ。番組を見てから読むのも楽しいものだ。細部について見落としあるいは聞き過ごしが結構あることにも気づくことになった。京都は2017年4月、黒部ダムと立山は同年10月に放送された内容のエッセンスがまとめられている。NHK「ブラタモリ」制作班の監修による出版(2018.9)である。
本書の基本構成コンセプトは繰り返しになるがまずご紹介しておこう。
*ブラタモリの番組放映のテーマについて、番組の流れに沿って論点を説明。
*番組では語り尽くせなかった部分の補足説明(番組出演した研究者等のVOICE)
*番組で採り上げた地域の観光スポットのガイド
*同行アナウンサーの番組裏話 本書は近江友里恵さんのトーク
である。
本書から私が学んだ要点を覚書としてまとめてみたい。それが本書を開いてみようという誘いになれば幸いである。
<京都>
テーマ1 人はなぜ清水を目指す?
「清水」は「しみず」ではなく「きよみず」と読む。コロナ禍以前には、「年間約600万人が訪れる世界遺産」(p4)なので、「清水寺」を「きよみずでら」と読むことは浸透していると思うが・・・・最初に記しておこう。
*平らな地層に100万年前、東(清水寺周辺)西(嵐山周辺)から力が加わり、中央部が落ち込み京都盆地ができた。だから嵐山も清水も同じチャートの地層。
清水寺は断層崖の上にあり、本堂裏の断層は「東山西縁断層と呼ばれる。
東側は硬い堆積岩、西側は粘土や砂礫の大阪層群。音羽川の流れが柔らかな地層を浸食し、崖や谷を形成した。
*崖の地形が観音様の住む補陀落を連想させ、人々がここを整地とみなすように。
創建当初は、崖上ぎりぎりに本堂が建てられていた。平安時代末期の本堂建て替えの時に、崖からせり出した「懸造(カケヅクリ)」の工法により舞台が作られた。
目的は多くの参拝者を収容できる場所が必要となったため。「清水の舞台」の出現。
人々は本尊(秘仏)千手観音菩薩への祈願をめざした。御前立千手観音像を拝観可能。
*清水寺の語源は清い水が出ることから。その証拠が「音羽の滝」で3本の樋から水が落下
この3本の滝は行場になっている。観音様の功徳水、金色水と称されている。
*清水寺の参道である清水坂は谷の尾根の上に造られた尾根道だった。
*三年坂(産寧坂)の下を轟川が流れていたが、今はほとんど暗渠化している。
*鴨川に架かる松原橋はかつての五条橋。秀吉が都市改造で南に五条橋を移した。
義経と弁慶が出会ったという話にある五条の橋はこの松原橋の場所である。
松原橋から清水寺への道がかつての清水坂。この道があの世とこの世の境だった。
通り(現松原通)の北側に六道珍皇寺。南側には幽霊子育飴の店、さらに南は鳥辺野
*中世の人々は、坂道に”境”を感じていた。六道珍皇寺南前の辻が「六道の辻」
テーマ2 日本一の花街・祇園はどうできた?
*八坂神社の西楼門は京都盆地と東山の境の断層崖に建つ。石段のところが京都盆地の縁
*八坂神社は元は「祇園社」。明治の神仏分離で神社名を改称。「祇園」が地名に残る。
*八坂神社の南楼門側に「二軒茶屋・中村楼」という老舗の現料亭がある。
江戸時代初期には2軒の腰掛茶屋が向かい合って建っていた。参拝者への茶屋のもてなし。
祇園社と共存した出店のある娯楽の場が花街発展の原点。聖と俗の並存。
*かつての鴨川は西は現河原町通、東は縄手通までがすべて河原だった。
江戸幕府による寬文10年(1670)の「寬文新堤」築造により両側が市街地化し発展する
江戸時代祇園の花街は四条通り北側だった。お茶屋は700軒、舞妓・芸妓は3000人以上
花街では分業化・効率化のシステムが形成されていく。(お茶屋・置屋・仕出し屋等)
*明治政府により建仁寺の敷地の北半分近くが没収される。
花街が四条通の南側に移転。公式の花街となる。
南側に移った人たちは、新たに設立した芸舞妓の教育機関(八坂女紅場学園)に土地の所有権を一括して移した。その結果乱開発が回避され、古色を残す風情が維持できている。
*富永町通を北に歩けばかつての急激な開発の痕跡が道路西側のギザギザ道として残る
*四条通は市電を運行するために北側に拡幅された。明治45年(192)に開通。
西楼門はそれに合わせ大正2年11月、東に6m、北に3mほど奥に移転。石碑が残る
*円山公園は、明治19年(1886)に作られた京都初の公園。
明治45年に庭師・小川治兵衛と建築家・武田五一が再整備した。
<黒部ダム> 黒部ダムはなぜ秘境につくられた?
*黒部川は北アルプスの鷲羽山を源とし標高差3000m、約85kmを流れ日本海に注ぐ。
*黒部渓谷は日本一深いV字峡谷。峡谷の両岸が花崗岩で均等に削られていく地層個所
谷の幅が狭くなる境い目に黒部ダムが立地。ダム付近は地質の境い目でもある。
ダム付近の一方が珪長岩の地質で、対岸はまた別の地質。下流は各種の岩が交じる。
*富山市側から見た立山連峰と後立山連峰の間に黒部峡谷がある。
2つの山脈は東西2つのプレートの力が加わり急激な隆起と浸食によりできた地形
大陸プレートの下に海洋プレートがもぐり込みつくった大量のマグマが隆起に関係する
*黒部ダム 別称「黒四」(黒部川第四発電所のダム)
アーチ式ドーム越流型、高さは国内1位の186m、堤頂長492m、総貯水量約2億立方m
工期(1956.7着工、1963.6竣工)、総工費513億円、労働人口はのべ約1000万人
主要資材はセメント641,000t(ダム用372,000t)、鋼材23,000t
ダムはアーチ式と重力式のダム形式を合体した「く」字型。谷への負担軽減のため
ダム両端部は両岸にくっついていず重力式ダム形式。その重みで水圧を受けとめる
*黒部ダム完成後、黒部川水系の発電所はそれまでの5ヵ所から10ヵ所に増えた。
*黒部湖の貯水は水力発電用。発電所は黒部ダムから約10km下流、地下200mにある。
有効落差約545m。落差を大きくする目的が秘境をダム建設地にした一つの理由。
黒部峡谷流域の平均年間降水量は約4000mm。ダム貯水量が1年間に4,5回交替する程の水量
*長野県大町市側からのダム建設工事用トンネルを今はトロリーバスが扇沢駅から走行
トンネルを難工事にしたのは1691m堀進んで遭遇した破砕帯(約80m)の存在が原因
*地下の黒部湖駅から黒部平駅までは急傾斜のケーブルカー。ロープウエイで大観峰駅へ
立山ロープウエイは日本一長いワンスパンロープウエイ(中間に支柱なし)。約1.7km
大観峰駅は標高2136m。展望台は54+5段の階段の先に。黒部平駅は標高1828m。
*黒部ダムでは6/26~10/15の期間限定で観光放水を実施。ダムの地盤を守る霧状の放水
*「くろよん建設」では171名が殉職。ダムの東側に殉職者慰霊塔が設置されている。
<立山> 「北アルプス・立山はなぜ神秘的?」
*立山は富士山、白山とともに三霊山の一つ。立山信仰は飛鳥時代まで遡れるとか。
雄山山頂には雄山神社峰本社が祀られている。室堂とは信仰登山の修験者らの山小屋
*室堂平は4万年前の噴火で大量の溶岩が埋め尽くした痕跡。
*室堂平のミクリガ池は1万年より前の水蒸気爆発で誕生。貧栄養湖で魚類の生息はなし
「みくりが池温泉」は日本で標高一(2410m)の温泉。単純酸性泉。日帰り入浴可。
*立山の景観の根本要因は「飛騨山脈の隆起」。立山は約400万年前から隆起を開始した
「立山火山」別名「弥陀ヶ原火山」。火口を南から北へ移動させ活動してきた複合火山
*立山周辺は日本で唯一氷河が現存する場所である。大量の雪が積もることがその理由
氷河は万年雪の圧縮でできる。カールは氷河が山肌を削ったU字の深い谷(半円状・馬蹄形)
室堂平は火山性の安山岩地層だが、そこにかつてあった氷河が花崗岩を運び込んだ。
*弥陀ヶ原の形態は雪田草原に分類される湿田。ラムサール条約に登録される。
標高2000m付近。東西約9km、南北約3km。室堂平の3倍以上の広さ。日本最高所の湿地
約10万年前の巨大噴火の火砕流で埋め尽くされた溶結凝灰岩の地層に泥炭が堆積した
*弥陀ヶ原の溶結凝灰岩層を雪解け水と滝が削り急峻なV字谷ができた。滝は後退する。
称名滝は7万年前は約7kmほど下流、現在の立山駅付近にあった。
現在の称名滝の周りの崖は450mの高さ。滝は350mの落差で日本一の大瀑布。4段の滝
滝は上から70m、58m、96mと最後は絶壁126m。滝壺は直径約60m、深さ6m。
*豊水期には称名滝の右隣に落差500mのハンノキ滝が出現するという
*大川寺駅近くの立山橋は雪解け水の流れる常願寺川がつくった扇状地の扇頂に位置する
私が本書から学んだ知識の要点はこんなところだが、本書はこれらの内容がブラリと探索しながら説き明かされていくプロセス自体にある。ビジュアルなイラストや地図、模型。そして景観写真や実験風景写真などとのコンビネーションで進展する会話と謎解きの進展。わかりやすい語り口とその流れを楽しめるところがよい。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
音羽山清水寺 ホームページ
「清水の舞台から…」 無茶な飛び降り、実は願掛け :「日本経済新聞」
八坂神社 ホームページ
建仁寺 ホームページ
祇園甲部歌舞会 ホームページ
祇園町とは
祇園東部歌舞会 ホームページ
黒部ダム :ウィキペディア
世紀の大工事 ~くろよん建設ヒストリー~ :「関西電力」
黒部の太陽 :「熊谷組」
黒部ダム[富山県] :「日本100ダム」(日本ダム協会)
黒部ダム建設の記録 ⇒ この一覧に掲載の中で一番詳細!
黒部ダム・殉職者慰霊碑 :「ニッポン旅カガジン」
立山黒部アルペンルート ホームページ
立山室堂平ライブカメラ
立山 :ウィキペディア
立山の魅力 立山信仰と登山史 :「歩こう。立山」
立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 ―加賀藩支配によって特色が生まれた江戸時代の立山信仰― 福江充(富山県[立山博物館]) :「富山県博物館協会」
立山信仰 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
立山曼荼羅 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
立山曼荼羅 絵解き講座 絵解き(その1) YouTube
立山曼荼羅 絵解き講座 絵解き(その2) YouTube
立山の山岳信仰。絵図にみる信仰の世界とその変遷をたどる :「遊歩紀行」
称名滝-LIVEカメラ(CCTV) :「国土交通省北陸地方整備局 立山砂防事務所」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ブラタモリ 3 函館 川越 奈良 仙台』 角川書店
『ブラタモリ 7 京都(嵐山・伏見)志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』 角川書店
『ブラタモリ 10 富士の樹海 富士山麓 大阪 大坂城 知床』 角川書店
本書の基本構成コンセプトは繰り返しになるがまずご紹介しておこう。
*ブラタモリの番組放映のテーマについて、番組の流れに沿って論点を説明。
*番組では語り尽くせなかった部分の補足説明(番組出演した研究者等のVOICE)
*番組で採り上げた地域の観光スポットのガイド
*同行アナウンサーの番組裏話 本書は近江友里恵さんのトーク
である。
本書から私が学んだ要点を覚書としてまとめてみたい。それが本書を開いてみようという誘いになれば幸いである。
<京都>
テーマ1 人はなぜ清水を目指す?
「清水」は「しみず」ではなく「きよみず」と読む。コロナ禍以前には、「年間約600万人が訪れる世界遺産」(p4)なので、「清水寺」を「きよみずでら」と読むことは浸透していると思うが・・・・最初に記しておこう。
*平らな地層に100万年前、東(清水寺周辺)西(嵐山周辺)から力が加わり、中央部が落ち込み京都盆地ができた。だから嵐山も清水も同じチャートの地層。
清水寺は断層崖の上にあり、本堂裏の断層は「東山西縁断層と呼ばれる。
東側は硬い堆積岩、西側は粘土や砂礫の大阪層群。音羽川の流れが柔らかな地層を浸食し、崖や谷を形成した。
*崖の地形が観音様の住む補陀落を連想させ、人々がここを整地とみなすように。
創建当初は、崖上ぎりぎりに本堂が建てられていた。平安時代末期の本堂建て替えの時に、崖からせり出した「懸造(カケヅクリ)」の工法により舞台が作られた。
目的は多くの参拝者を収容できる場所が必要となったため。「清水の舞台」の出現。
人々は本尊(秘仏)千手観音菩薩への祈願をめざした。御前立千手観音像を拝観可能。
*清水寺の語源は清い水が出ることから。その証拠が「音羽の滝」で3本の樋から水が落下
この3本の滝は行場になっている。観音様の功徳水、金色水と称されている。
*清水寺の参道である清水坂は谷の尾根の上に造られた尾根道だった。
*三年坂(産寧坂)の下を轟川が流れていたが、今はほとんど暗渠化している。
*鴨川に架かる松原橋はかつての五条橋。秀吉が都市改造で南に五条橋を移した。
義経と弁慶が出会ったという話にある五条の橋はこの松原橋の場所である。
松原橋から清水寺への道がかつての清水坂。この道があの世とこの世の境だった。
通り(現松原通)の北側に六道珍皇寺。南側には幽霊子育飴の店、さらに南は鳥辺野
*中世の人々は、坂道に”境”を感じていた。六道珍皇寺南前の辻が「六道の辻」
テーマ2 日本一の花街・祇園はどうできた?
*八坂神社の西楼門は京都盆地と東山の境の断層崖に建つ。石段のところが京都盆地の縁
*八坂神社は元は「祇園社」。明治の神仏分離で神社名を改称。「祇園」が地名に残る。
*八坂神社の南楼門側に「二軒茶屋・中村楼」という老舗の現料亭がある。
江戸時代初期には2軒の腰掛茶屋が向かい合って建っていた。参拝者への茶屋のもてなし。
祇園社と共存した出店のある娯楽の場が花街発展の原点。聖と俗の並存。
*かつての鴨川は西は現河原町通、東は縄手通までがすべて河原だった。
江戸幕府による寬文10年(1670)の「寬文新堤」築造により両側が市街地化し発展する
江戸時代祇園の花街は四条通り北側だった。お茶屋は700軒、舞妓・芸妓は3000人以上
花街では分業化・効率化のシステムが形成されていく。(お茶屋・置屋・仕出し屋等)
*明治政府により建仁寺の敷地の北半分近くが没収される。
花街が四条通の南側に移転。公式の花街となる。
南側に移った人たちは、新たに設立した芸舞妓の教育機関(八坂女紅場学園)に土地の所有権を一括して移した。その結果乱開発が回避され、古色を残す風情が維持できている。
*富永町通を北に歩けばかつての急激な開発の痕跡が道路西側のギザギザ道として残る
*四条通は市電を運行するために北側に拡幅された。明治45年(192)に開通。
西楼門はそれに合わせ大正2年11月、東に6m、北に3mほど奥に移転。石碑が残る
*円山公園は、明治19年(1886)に作られた京都初の公園。
明治45年に庭師・小川治兵衛と建築家・武田五一が再整備した。
<黒部ダム> 黒部ダムはなぜ秘境につくられた?
*黒部川は北アルプスの鷲羽山を源とし標高差3000m、約85kmを流れ日本海に注ぐ。
*黒部渓谷は日本一深いV字峡谷。峡谷の両岸が花崗岩で均等に削られていく地層個所
谷の幅が狭くなる境い目に黒部ダムが立地。ダム付近は地質の境い目でもある。
ダム付近の一方が珪長岩の地質で、対岸はまた別の地質。下流は各種の岩が交じる。
*富山市側から見た立山連峰と後立山連峰の間に黒部峡谷がある。
2つの山脈は東西2つのプレートの力が加わり急激な隆起と浸食によりできた地形
大陸プレートの下に海洋プレートがもぐり込みつくった大量のマグマが隆起に関係する
*黒部ダム 別称「黒四」(黒部川第四発電所のダム)
アーチ式ドーム越流型、高さは国内1位の186m、堤頂長492m、総貯水量約2億立方m
工期(1956.7着工、1963.6竣工)、総工費513億円、労働人口はのべ約1000万人
主要資材はセメント641,000t(ダム用372,000t)、鋼材23,000t
ダムはアーチ式と重力式のダム形式を合体した「く」字型。谷への負担軽減のため
ダム両端部は両岸にくっついていず重力式ダム形式。その重みで水圧を受けとめる
*黒部ダム完成後、黒部川水系の発電所はそれまでの5ヵ所から10ヵ所に増えた。
*黒部湖の貯水は水力発電用。発電所は黒部ダムから約10km下流、地下200mにある。
有効落差約545m。落差を大きくする目的が秘境をダム建設地にした一つの理由。
黒部峡谷流域の平均年間降水量は約4000mm。ダム貯水量が1年間に4,5回交替する程の水量
*長野県大町市側からのダム建設工事用トンネルを今はトロリーバスが扇沢駅から走行
トンネルを難工事にしたのは1691m堀進んで遭遇した破砕帯(約80m)の存在が原因
*地下の黒部湖駅から黒部平駅までは急傾斜のケーブルカー。ロープウエイで大観峰駅へ
立山ロープウエイは日本一長いワンスパンロープウエイ(中間に支柱なし)。約1.7km
大観峰駅は標高2136m。展望台は54+5段の階段の先に。黒部平駅は標高1828m。
*黒部ダムでは6/26~10/15の期間限定で観光放水を実施。ダムの地盤を守る霧状の放水
*「くろよん建設」では171名が殉職。ダムの東側に殉職者慰霊塔が設置されている。
<立山> 「北アルプス・立山はなぜ神秘的?」
*立山は富士山、白山とともに三霊山の一つ。立山信仰は飛鳥時代まで遡れるとか。
雄山山頂には雄山神社峰本社が祀られている。室堂とは信仰登山の修験者らの山小屋
*室堂平は4万年前の噴火で大量の溶岩が埋め尽くした痕跡。
*室堂平のミクリガ池は1万年より前の水蒸気爆発で誕生。貧栄養湖で魚類の生息はなし
「みくりが池温泉」は日本で標高一(2410m)の温泉。単純酸性泉。日帰り入浴可。
*立山の景観の根本要因は「飛騨山脈の隆起」。立山は約400万年前から隆起を開始した
「立山火山」別名「弥陀ヶ原火山」。火口を南から北へ移動させ活動してきた複合火山
*立山周辺は日本で唯一氷河が現存する場所である。大量の雪が積もることがその理由
氷河は万年雪の圧縮でできる。カールは氷河が山肌を削ったU字の深い谷(半円状・馬蹄形)
室堂平は火山性の安山岩地層だが、そこにかつてあった氷河が花崗岩を運び込んだ。
*弥陀ヶ原の形態は雪田草原に分類される湿田。ラムサール条約に登録される。
標高2000m付近。東西約9km、南北約3km。室堂平の3倍以上の広さ。日本最高所の湿地
約10万年前の巨大噴火の火砕流で埋め尽くされた溶結凝灰岩の地層に泥炭が堆積した
*弥陀ヶ原の溶結凝灰岩層を雪解け水と滝が削り急峻なV字谷ができた。滝は後退する。
称名滝は7万年前は約7kmほど下流、現在の立山駅付近にあった。
現在の称名滝の周りの崖は450mの高さ。滝は350mの落差で日本一の大瀑布。4段の滝
滝は上から70m、58m、96mと最後は絶壁126m。滝壺は直径約60m、深さ6m。
*豊水期には称名滝の右隣に落差500mのハンノキ滝が出現するという
*大川寺駅近くの立山橋は雪解け水の流れる常願寺川がつくった扇状地の扇頂に位置する
私が本書から学んだ知識の要点はこんなところだが、本書はこれらの内容がブラリと探索しながら説き明かされていくプロセス自体にある。ビジュアルなイラストや地図、模型。そして景観写真や実験風景写真などとのコンビネーションで進展する会話と謎解きの進展。わかりやすい語り口とその流れを楽しめるところがよい。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
音羽山清水寺 ホームページ
「清水の舞台から…」 無茶な飛び降り、実は願掛け :「日本経済新聞」
八坂神社 ホームページ
建仁寺 ホームページ
祇園甲部歌舞会 ホームページ
祇園町とは
祇園東部歌舞会 ホームページ
黒部ダム :ウィキペディア
世紀の大工事 ~くろよん建設ヒストリー~ :「関西電力」
黒部の太陽 :「熊谷組」
黒部ダム[富山県] :「日本100ダム」(日本ダム協会)
黒部ダム建設の記録 ⇒ この一覧に掲載の中で一番詳細!
黒部ダム・殉職者慰霊碑 :「ニッポン旅カガジン」
立山黒部アルペンルート ホームページ
立山室堂平ライブカメラ
立山 :ウィキペディア
立山の魅力 立山信仰と登山史 :「歩こう。立山」
立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 ―加賀藩支配によって特色が生まれた江戸時代の立山信仰― 福江充(富山県[立山博物館]) :「富山県博物館協会」
立山信仰 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
立山曼荼羅 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
立山曼荼羅 絵解き講座 絵解き(その1) YouTube
立山曼荼羅 絵解き講座 絵解き(その2) YouTube
立山の山岳信仰。絵図にみる信仰の世界とその変遷をたどる :「遊歩紀行」
称名滝-LIVEカメラ(CCTV) :「国土交通省北陸地方整備局 立山砂防事務所」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ブラタモリ 3 函館 川越 奈良 仙台』 角川書店
『ブラタモリ 7 京都(嵐山・伏見)志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』 角川書店
『ブラタモリ 10 富士の樹海 富士山麓 大阪 大坂城 知床』 角川書店
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