『源氏物語』は五十四帖からなる物語のはず。このタイトルは何?
これは、第五十五帖を探し求めて旅立たざる得なくなる更科と賢子を描くというフィクションである。一種のミステリー小説仕立ての作品。2021年2月に書き下ろしとして単行本が刊行された。源氏物語愛読者には楽しめると思う。瀬戸内寂聴訳『源氏物語』のご紹介の際に触れたuさんのブログ記事で本書を知り、興味を抱いて早速読んだ。
主人公となる更科とは菅原孝標の娘、賢子とは藤式部(紫式部)の娘をさす。最初に主な登場人物とその人物の生年・没年を列記してみる。インターネット情報他で確認した。ここにこの小説が構想された源があると私は思う。そこに時代設定の巧みさとその妙味が潜んでいる。
更科(菅原孝標女)は1008年~1060年頃(一説に1059年)。藤原賢子は999年もしくは1000年~1082年。藤原道長は966年~1027年。藤原彰子は988年~1074年。藤原行成は972年~1028年。藤原能信は995年~1065年。清少納言は966年~1026年頃。一条天皇の妻の一人・中宮定子の娘・一品宮(修子内親王)は997年~1049年。菅原孝標は972年~没年不詳。
紫式部は謎多き人だが、源氏物語千年紀記念に刊行された角田文衛著『紫式部伝 その生涯と『源氏物語』』(法蔵館)によれば、973年(この年、誕生か)~1031年(正月中旬、卒去か)と末尾の「紫式部略年譜」に記されている。
「序」は菅原孝標が従者とともに石山寺の僧都を訪ねて行く。だが、石山寺に間近い瀬田の唐橋近くで岸辺に打ち上がる物を見つけた。近づくとそれは訪ねていく僧都で撲殺されて浮かんでいたのだ。検非違使の少尉に殺害の嫌疑をかけられその場で捕縛される憂き目にあう。その僧都は、紫式部が源氏物語を石山寺で執筆したのを間近で見た、ただ一人の人であり、孝標はその僧都に話を聞きに訪れようとしていたのだ。
孝標の娘・更科は、大胆にも入道摂政(道長)の土御門第に出向き、直訴を試みる。たまたま門前で出くわした藤原能信が仲介し、更科は道長に面談が叶う。更科は父の無実を訴え、その解放を嘆願する。
道長が孝標に源氏物語を探すように命じていたのだ。更科は道長から、「源氏の物語、第五十五帖を探して参れ」と命じていたと聞く。更科は源氏物語の愛読者であり、全部で五十四帖ということは熟知していた。
道長は言う。「紫式部は、第五十五の巻を書き残したらしいのだ。これは、紫式部が仕えた我が家だからこそ伝わる話だ」(p22)
道長は、太皇大后の宮(彰子)がこのたび帝から女院号の宣下を受けることになるという。その賀の行事の一に、物語合わせを帝が所望されているので、その場に第五十五帖を出し、物語合わせの勝負に勝ちたいということなのだ。
調べてみると、藤原彰子が女院号を宣下されたのは1026年である。つまり、その直前に時代設定されたストーリーが動き出す。
道真は、孝標を救いたければ、更科自身が第五十五帖の所在を突き止め、道長の面前に持ち来たれという課題を提起した。
道長は告げる。「物語合わせは一月後、年明け睦月半ばの酉の日だ。その日までに持って参れ。不服とあらば、此方はそなたの父の処遇などしらぬ」(p24)と。
このストーリー、実に巧妙なタイミングが設定されていることになる。
更科が道長に直訴できた場には、女房の一人として紫式部の娘賢子が仕えていた。紆余曲折を経た結果、更科が第五十五帖を探すのに、賢子が協力して同行しなければならなくなる。更科は父を救いたいが為に、賢子は母の紫式部のことを回顧しつつも、やはり母の書き残した帖が実在するならばその内容を知りたいが為に。
第五十五帖が存在するならそれはどこに? 第五十五帖探索のミステリーが始まる。
更科が道長に直訴できたのは、能信が介在したからである。更科はこの能信が誰かは全く知らなかった。
能信は道長と明子の間に生まれた子であり、庶子という位置づけになる。その能信は、嫡男を重視し、庶子の能信を疎んじる父道長に反撥していた。彼は父の後に己が政権を執ることを夢見ていた。そして、亡き中宮定子の娘である一品宮に近づくことで己の生き方を模索している時期だった。一品宮は皇位継承は己の側にあるべきという執念を抱いていた。こんな経緯から、能信は第五十五帖探しに、独自の行動を採り始める。
勿論、皇位を巡り、道長と一品宮の間では、確執が続いていた。
更科と賢子は、紫式部が日記に記した古くからの友人、松浦の方を手がかりに探索を始める。松浦の方は既に亡くなっていた。父孝標の書棚にある蔵書としては不似合いな和漢朗詠集の豪華本が次の手がかりとなり、権大納言藤原行成から松浦の方の息子が信濃国の国司として下向していると聞く。
更科と賢子は、信濃国へと第五十五帖を求めて、難路と言われる東山道を辿る探索の旅に出る。
一方、一品宮に通じている能信もまた、独自に己の思惑で更科と賢子の後を追う。
ここからの読ませどころを列挙しておこう。
*東山道で起こる艱難のプロセス。更科と賢子に、能信は合流することに・・・。
*更科と賢子は信濃国の国司に会うことができるが、そこで悲劇が起こる。
国司は、更科にメッセージを伝えていた。
*メッセージの解読が全てのキーとなっていく。この解読作業が最初の山場になる。
*探索ミステリーは、どういう縁か、清少納言への導いていく。
第五十五帖は存在した。だが、そこから別の問題事象が発生する。その克服のプロセス。それがもう一つのストーリーの山場へと連なっていく。
その結果が第四章となる。第五十五帖は更科の手によって、入道摂政(道長)に届けられる。道長はその真贋をその場で吟味する。その場に臨む主だった人々は、それぞれの存念に従って丁重に振る舞い己の役目を果たす。壮大な茶番劇が茶眼劇と気づかれることなく厳粛に進行するのだから、読者にとっては実におもしろい。
結果的に第五十五帖はなかったものと同様の運命となる。つまり、世に現れることはない。なぜか? 第五章をお読みいただきたい。
『源氏物語』は五十四帖という史実に収まる。この構成の巧みさ。この落とし所が実にいい!
これから先は、本書を紐解いて、その謎解きと艱難辛苦譚、並びにオチを楽しんでいただきたい。
このストーリー、賢子が母・式部との関わりを語る回顧談という側面も併せ持っている。賢子が母を改めて捕らえ直すという心の変化が描き込まれている。
「終章」は、更科が父孝標に同行し、淡海の湖(琵琶湖)の打出浜から任国に旅立つ場面で終わる。賢子がそれを見送り、更科が新しい物語りを書いた折には、厳しい読み手となることを約束する。この別れの場面は、二人の友情の相互認知で終わる。この余韻が心地よい。
最後に、本書の記述として興味深い箇所を引用しご紹介しよう。
*入道摂政と紫式部は二代も遡れば同族として対等な立場だった。それがいつの間にか主従の関係へと変わってしまった。
彼我の差は何だったのか。どこで間違えたのか。何ゆえ今ここで膝を屈せねばならないのか。聡明な人間であればあるほど苦しんだのは想像がついた。
紫式部によって密かに書かれた五十五帖は、誰もが知らぬ間に心許せる親友に託された。 p170
*五十五帖は、光源氏の後悔に満ちていた。 p174
*紫式部が遺した五十五帖は、雅を越えて用意された真の結末だった。そこには、優美さはなかったかもしれないが、人間の心の確かな手触りがあった。 p185
*入道摂政は、二の宮の立坊を強行した。それゆえ二の宮が即位した今の御代において、批判に神経を尖らせた。先例主義の平安朝では、表面上は問題がない風にしておきたかった。 p193
*母がここにいたら、清少納言さまと同じことを言うと思います。物語は、紙に書いて初めて命がふきこまれると、よく申しておりましたゆえ。 p198
*秘密というのは諸刃の剣だ。何かあったときの切り札にしようと思うておったのかもしれぬ。 p246
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にまとめておきたい。
菅原孝標女 :ウィキペディア
菅原孝標 :ウィキペディア
大弐三位藤原賢子(だいにのさんみ/ふじわらのかたこ・かたいこ・けんし)
:「花橘亭~源氏物語を楽しむ~」
藤原能信 :ウィキペディア
藤原能信 :「コトバンク」
藤原能信 摂関政治から院政への橋渡し役を演じた陰の実力者 :「歴史クラブ」
藤原彰子 :ウィキペディア
脩子内親王 :ウィキペディア
清少納言 :ウィキペディア
延喜式内名神大社 生島足島神社 ホームページ
信濃国分寺 :「信州上田観光情報」
信濃国分寺 :ウィキペディア
善光寺 ホームページ
天台宗別格本山 北向観音・常楽寺 ホームページ
盤渉調 能楽用語辞典 :「the 能.com」
盤渉調 越殿楽 YouTube
雅楽「盤渉調調子(ばんしきちょうのちょうし)」 笙奏者 伊藤えり(3/3)【HD】 YouTube
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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
[源氏物語ワールドへの誘い]
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
これからも源氏物語とその関連書を種々読み継ごうと思っています。
『源氏物語』全十巻 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫
『源氏物語の京都案内』 文藝春秋編 文春文庫
『源氏物語解剖図鑑』 文 佐藤晃子 イラスト 伊藤ハムスター X-Knowledge
『初めての源氏物語 宇治へようこそ』 家塚智子 宇治市文化財愛護協会
これは、第五十五帖を探し求めて旅立たざる得なくなる更科と賢子を描くというフィクションである。一種のミステリー小説仕立ての作品。2021年2月に書き下ろしとして単行本が刊行された。源氏物語愛読者には楽しめると思う。瀬戸内寂聴訳『源氏物語』のご紹介の際に触れたuさんのブログ記事で本書を知り、興味を抱いて早速読んだ。
主人公となる更科とは菅原孝標の娘、賢子とは藤式部(紫式部)の娘をさす。最初に主な登場人物とその人物の生年・没年を列記してみる。インターネット情報他で確認した。ここにこの小説が構想された源があると私は思う。そこに時代設定の巧みさとその妙味が潜んでいる。
更科(菅原孝標女)は1008年~1060年頃(一説に1059年)。藤原賢子は999年もしくは1000年~1082年。藤原道長は966年~1027年。藤原彰子は988年~1074年。藤原行成は972年~1028年。藤原能信は995年~1065年。清少納言は966年~1026年頃。一条天皇の妻の一人・中宮定子の娘・一品宮(修子内親王)は997年~1049年。菅原孝標は972年~没年不詳。
紫式部は謎多き人だが、源氏物語千年紀記念に刊行された角田文衛著『紫式部伝 その生涯と『源氏物語』』(法蔵館)によれば、973年(この年、誕生か)~1031年(正月中旬、卒去か)と末尾の「紫式部略年譜」に記されている。
「序」は菅原孝標が従者とともに石山寺の僧都を訪ねて行く。だが、石山寺に間近い瀬田の唐橋近くで岸辺に打ち上がる物を見つけた。近づくとそれは訪ねていく僧都で撲殺されて浮かんでいたのだ。検非違使の少尉に殺害の嫌疑をかけられその場で捕縛される憂き目にあう。その僧都は、紫式部が源氏物語を石山寺で執筆したのを間近で見た、ただ一人の人であり、孝標はその僧都に話を聞きに訪れようとしていたのだ。
孝標の娘・更科は、大胆にも入道摂政(道長)の土御門第に出向き、直訴を試みる。たまたま門前で出くわした藤原能信が仲介し、更科は道長に面談が叶う。更科は父の無実を訴え、その解放を嘆願する。
道長が孝標に源氏物語を探すように命じていたのだ。更科は道長から、「源氏の物語、第五十五帖を探して参れ」と命じていたと聞く。更科は源氏物語の愛読者であり、全部で五十四帖ということは熟知していた。
道長は言う。「紫式部は、第五十五の巻を書き残したらしいのだ。これは、紫式部が仕えた我が家だからこそ伝わる話だ」(p22)
道長は、太皇大后の宮(彰子)がこのたび帝から女院号の宣下を受けることになるという。その賀の行事の一に、物語合わせを帝が所望されているので、その場に第五十五帖を出し、物語合わせの勝負に勝ちたいということなのだ。
調べてみると、藤原彰子が女院号を宣下されたのは1026年である。つまり、その直前に時代設定されたストーリーが動き出す。
道真は、孝標を救いたければ、更科自身が第五十五帖の所在を突き止め、道長の面前に持ち来たれという課題を提起した。
道長は告げる。「物語合わせは一月後、年明け睦月半ばの酉の日だ。その日までに持って参れ。不服とあらば、此方はそなたの父の処遇などしらぬ」(p24)と。
このストーリー、実に巧妙なタイミングが設定されていることになる。
更科が道長に直訴できた場には、女房の一人として紫式部の娘賢子が仕えていた。紆余曲折を経た結果、更科が第五十五帖を探すのに、賢子が協力して同行しなければならなくなる。更科は父を救いたいが為に、賢子は母の紫式部のことを回顧しつつも、やはり母の書き残した帖が実在するならばその内容を知りたいが為に。
第五十五帖が存在するならそれはどこに? 第五十五帖探索のミステリーが始まる。
更科が道長に直訴できたのは、能信が介在したからである。更科はこの能信が誰かは全く知らなかった。
能信は道長と明子の間に生まれた子であり、庶子という位置づけになる。その能信は、嫡男を重視し、庶子の能信を疎んじる父道長に反撥していた。彼は父の後に己が政権を執ることを夢見ていた。そして、亡き中宮定子の娘である一品宮に近づくことで己の生き方を模索している時期だった。一品宮は皇位継承は己の側にあるべきという執念を抱いていた。こんな経緯から、能信は第五十五帖探しに、独自の行動を採り始める。
勿論、皇位を巡り、道長と一品宮の間では、確執が続いていた。
更科と賢子は、紫式部が日記に記した古くからの友人、松浦の方を手がかりに探索を始める。松浦の方は既に亡くなっていた。父孝標の書棚にある蔵書としては不似合いな和漢朗詠集の豪華本が次の手がかりとなり、権大納言藤原行成から松浦の方の息子が信濃国の国司として下向していると聞く。
更科と賢子は、信濃国へと第五十五帖を求めて、難路と言われる東山道を辿る探索の旅に出る。
一方、一品宮に通じている能信もまた、独自に己の思惑で更科と賢子の後を追う。
ここからの読ませどころを列挙しておこう。
*東山道で起こる艱難のプロセス。更科と賢子に、能信は合流することに・・・。
*更科と賢子は信濃国の国司に会うことができるが、そこで悲劇が起こる。
国司は、更科にメッセージを伝えていた。
*メッセージの解読が全てのキーとなっていく。この解読作業が最初の山場になる。
*探索ミステリーは、どういう縁か、清少納言への導いていく。
第五十五帖は存在した。だが、そこから別の問題事象が発生する。その克服のプロセス。それがもう一つのストーリーの山場へと連なっていく。
その結果が第四章となる。第五十五帖は更科の手によって、入道摂政(道長)に届けられる。道長はその真贋をその場で吟味する。その場に臨む主だった人々は、それぞれの存念に従って丁重に振る舞い己の役目を果たす。壮大な茶番劇が茶眼劇と気づかれることなく厳粛に進行するのだから、読者にとっては実におもしろい。
結果的に第五十五帖はなかったものと同様の運命となる。つまり、世に現れることはない。なぜか? 第五章をお読みいただきたい。
『源氏物語』は五十四帖という史実に収まる。この構成の巧みさ。この落とし所が実にいい!
これから先は、本書を紐解いて、その謎解きと艱難辛苦譚、並びにオチを楽しんでいただきたい。
このストーリー、賢子が母・式部との関わりを語る回顧談という側面も併せ持っている。賢子が母を改めて捕らえ直すという心の変化が描き込まれている。
「終章」は、更科が父孝標に同行し、淡海の湖(琵琶湖)の打出浜から任国に旅立つ場面で終わる。賢子がそれを見送り、更科が新しい物語りを書いた折には、厳しい読み手となることを約束する。この別れの場面は、二人の友情の相互認知で終わる。この余韻が心地よい。
最後に、本書の記述として興味深い箇所を引用しご紹介しよう。
*入道摂政と紫式部は二代も遡れば同族として対等な立場だった。それがいつの間にか主従の関係へと変わってしまった。
彼我の差は何だったのか。どこで間違えたのか。何ゆえ今ここで膝を屈せねばならないのか。聡明な人間であればあるほど苦しんだのは想像がついた。
紫式部によって密かに書かれた五十五帖は、誰もが知らぬ間に心許せる親友に託された。 p170
*五十五帖は、光源氏の後悔に満ちていた。 p174
*紫式部が遺した五十五帖は、雅を越えて用意された真の結末だった。そこには、優美さはなかったかもしれないが、人間の心の確かな手触りがあった。 p185
*入道摂政は、二の宮の立坊を強行した。それゆえ二の宮が即位した今の御代において、批判に神経を尖らせた。先例主義の平安朝では、表面上は問題がない風にしておきたかった。 p193
*母がここにいたら、清少納言さまと同じことを言うと思います。物語は、紙に書いて初めて命がふきこまれると、よく申しておりましたゆえ。 p198
*秘密というのは諸刃の剣だ。何かあったときの切り札にしようと思うておったのかもしれぬ。 p246
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にまとめておきたい。
菅原孝標女 :ウィキペディア
菅原孝標 :ウィキペディア
大弐三位藤原賢子(だいにのさんみ/ふじわらのかたこ・かたいこ・けんし)
:「花橘亭~源氏物語を楽しむ~」
藤原能信 :ウィキペディア
藤原能信 :「コトバンク」
藤原能信 摂関政治から院政への橋渡し役を演じた陰の実力者 :「歴史クラブ」
藤原彰子 :ウィキペディア
脩子内親王 :ウィキペディア
清少納言 :ウィキペディア
延喜式内名神大社 生島足島神社 ホームページ
信濃国分寺 :「信州上田観光情報」
信濃国分寺 :ウィキペディア
善光寺 ホームページ
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雅楽「盤渉調調子(ばんしきちょうのちょうし)」 笙奏者 伊藤えり(3/3)【HD】 YouTube
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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
[源氏物語ワールドへの誘い]
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
これからも源氏物語とその関連書を種々読み継ごうと思っています。
『源氏物語』全十巻 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫
『源氏物語の京都案内』 文藝春秋編 文春文庫
『源氏物語解剖図鑑』 文 佐藤晃子 イラスト 伊藤ハムスター X-Knowledge
『初めての源氏物語 宇治へようこそ』 家塚智子 宇治市文化財愛護協会
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