遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』  堀川惠子  文藝春秋 

2022-04-15 18:21:11 | レビュー
 若い頃に広島を訪れ、かつての平和記念資料館を一度見学したことがある。原爆ドーム、平和記念公園、原爆死没者慰霊碑は知っている。しかし、70年以上の時を経た今になって、初めて「原爆供養塔」の存在を知った。恥ずかしながら、この名称とそれが平和記念公園の北の一隅にあることを知らなかった。
 最近上梓された著者の本の広告を新聞で見て、著者がフリーのジャーナリストで、ノンフィクション作家であること。そして、その著作の一冊にこの「原爆供養塔」という名称を冠した書を出版されていることを知った。「供養塔」という語句と、「忘れられた遺骨の70年」という副題。今、初めて知ってまず愕然とした。
 原爆ドーム、平和公園と原爆死没者慰霊碑は毎年の式典とともに報道の対象になる、だが、式典に関連して原爆供養塔が報道の一環として映し出されていたという記憶が私にはない。
 「原爆供養塔」の存在自体をどれだけの人が知っているのだろうか。

 本書はノンフィクション作品である。2015年5月に文藝春秋より単行本が出版された。改めて検索してみると、2018年7月に文庫化されている。文庫化も知らなかった。

 <終章>に著者が記している一節をまず引用しよう。
「世界の国々は今、1万発を超える核兵器を保有している。今後、その1発も使われない保証など、どこにもない。2015年3月には、ロシアのプーチン大統領がウクライナ危機に際して核兵器を準備したことを明らかにした。日本だけが世界の紛争と無縁でいられる時代では、もはやない。戦争はいつも些細な出来事から始まり、”正義”の衣をまとって拡大していく。そんな世界へと向かって歩を進めることは、先の戦争で命を奪われた幾百万もの死者たちへの裏切りにほかならないだろう。」(p352)
 今、正にプーチン大統領の命令で再びウクライナが侵攻されている。さらに化学兵器さらには核兵器の使用が取り沙汰される段階に立ち至っている。「死者たちへの裏切り」が起こらないことを祈念する。

 現在の広島の地図を見ると、太田川が元安川と本川の二本の支流に別れてできた中州の北端に相生橋が架かっている。その少し下流に東には元安橋が、西には本川橋がそれぞれ中州に架かっている。ここが原爆の爆心地と呼ばれることになる中州である。かつては三角に尖った中州の北端のエリアに「浄土宗・慈仙寺」があり、このエリアは「慈仙寺鼻」と呼ばれていたという。
 この慈仙寺鼻に原爆被災者の遺骨が集められ、「戦災死没者供養会」が立ち上げられて、供養塔の建立という動きがまず生まれた。昭和21年(1946)5月26日、慈仙寺鼻に「供養塔」が完成する。
 相生橋のある北端から、南の中州に架かる平和大橋、平和大通り辺りまでの中州が現在「平和記念公園」として整備されている。地図を確認すると、原爆供養塔の名称は載っている。

 本書には、この「供養塔」に関わる建立並びにその後の経緯と事実が克明に記録されている。なぜ、「忘れられた遺骨」という副題がつかねばならないのかが読者に明らかになっていく。
 本書は涙なしには読み終えることができない書である。原爆供養塔の位置づけの変遷、残された遺骨に関わる事実の掘り起こしと、断片的記録のある遺骨に関わる身元探し(本人探し)、それらのプロセスが生み出す意味、意義が問いかけられ、そのプロセスが記述されていく。それが生み出す迫真力に私は引きこまれていった。

 本書はいくつかの観点が柱となり構成されている。列挙してみる。
1.「原爆供養塔に行けば、佐伯敏子さんに会える」とまで口伝が広がったという。その佐伯敏子さんの人生及び後半生は自ら原爆供養塔の墓守となり、また遺骨の身元探求(本人探し)を自主的行動として行われたという経緯に焦点があてられて行く。
 <序章>は、2013年春、その佐伯敏子さんとの15年ぶりの再会から始まっていく。<第二章 佐伯敏子の足跡> <第三章 運命の日> <第四章 原爆供養塔とともに>は、佐伯敏子さんの人生ならびに原爆供養塔との関わりの深まりを描き出していく。79歳を目前にした1998年師走の頃まで、半世紀近く原爆供養塔のそばに立ち続ける敏子さんの姿が見られたという。
 「原爆供養塔の墓守としての敏子の存在が広く知られるようになってから、そのあまりの献身ぶりには多くの人がいろんなことを言った。・・・・・しかし、人生の楽しみや生き甲斐という言葉は、他人の物差しではなく、本人の主観でこそ語られるべきものだろう。」(p166)と著者は記す。

2. 原爆供養塔が建立されるまでの経緯とその後の変遷、70年を経た現状までのプロセスが客観的に記述、記録されている。そこに、「忘れられた遺骨」という語句に込められた意味の一端がにじみ出ていく。
 この観点に関連する本書の記述のいくつかを引用する。他にもいろいろあるが・・・・。
「直径16メートル、高さ3.5メートルの小山のような塚は、表面を芝生に覆われていて、まるで緑のお碗を地面に伏せたような恰好をしている。古くから塚のことを知る人は、ここを『土饅頭』と呼ぶ。」(p11)
「供養会の目的は、被災後に遺体が特に多く集められた・・・・現場で、仮に埋葬されたり放置されたままになっている遺骨を、慈仙寺鼻に一堂に収容することだった。そして、野ざらしの無縁仏をきちんと供養するために、遺骨を安置する供養塔(納骨堂)を建てることを目指した。」(p27-28)
 平和祈念公園建築の計画が生まれたとき、供養塔と遺骨は迷惑施設視されたという。霞が関の官僚は、都市公園法には公園の敷地内に「墓」は含まれていないという論法だったそうだ。
 「佐々木局長は、供養塔を『墓』ではなく『遺跡の既得権』として公園内に再建した正統性を、建設省に事後承認させたのである。」(p39)そこには、「寺院、名所、遺跡の既得権」に関する先例が関東大震災後の復興において存在した背景があることによる。 「7万人もの遺骨が納められた原爆供養塔は、いわば広島の墓標だ。1986年以降、原爆供養塔の地下室に続く扉は固く閉じられている。」(p15)この続きに、現状が記述されていく。引用すれば長くなる。本文をお読みいただきたい。そこに著者の鮮明な問題意識がある。

3.3つめの柱は、著者自身による遺骨の身元探求(本人探し)の事例を具体的に取り上げ記録していく。佐伯敏子さんが自主的行動として、広島近辺の地域から始めた遺骨の本人探しのプロセスを、著者が実体験したプロセスである。そこから何が見えて来たかが克明に記述されていく。
 なぜ、あの日広島で被災しなければならない事態が生じたのか。当時の戦時下の社会体制や社会情勢が色濃く関係していた事実が見えて来る。

 <第五章 残された遺骨>
 2004年初夏、広島のテレビ局報道部デスクの仕事、最後の現場として、似島での遺骨発掘作業現場の見聞を語る。
 「似島だけじゃない、まだまだ遺骨は広島の町のあちこちに埋まっとるんよ。供養塔だって外からみたら何もわからんじゃろう、あれと同じよ。」(p175)
 そして、「原爆供養塔納骨名簿」に載る816人の名前から、著者による本人探しの旅が始まって行く。「私は、佐伯さんの足が届かなかった遠いエリアから重点的に捜すことにした。」(p179)
 この章では、納骨名簿に記されている松田昭文、風呂谷松平、川島義春、馬場辯護士夫妻、宮本建治という人々のその住所地を探求したプロセスが語られる。
 「納骨名簿に掲載された名前や住所は、本当に正しいのか」(p213)この疑問が章末の一行となる。

 <第六章 納骨名簿の謎>
 著者は、2013年7月に老人保健施設で過ごす佐伯敏子さんに疑問をぶつけることから記述する。そして、誰が名簿に載る情報を入手し記録したのか。記録者探求に踏み込んで行く。そこから、当時の広島・江田島における軍部の体制構造の一部が垣間見えてくる。
 「和田さんには、自分たちが広島の大惨事に命がけで立ち向かい、死者を弔い、軍人として任務を全うしたという自負がある。しかし、捨て駒のように命尽き、人知れず全国の村々で亡くなっていった仲間の戦後を思う時、やりきれない思いがどこかに残る。貧しく、弱い立場のものから矢面に立たされ殺されていく、そしてエリートは生き残る、これが戦争の現実なんですよと、和田さんは口元を固く結んだ」(p237)
 この章では、無縁仏7万柱の根拠にも考察が広げられている。ここには重要な論点、指摘が含まれている。ぜひ、本文を読んでいただきたいと思う。

 <第七章 二つの名前>
 納骨名簿にある男性の名前と住所の探求から、著者は二つの名前の可能性に導かれて行く。その事例を語る。生来の朝鮮名と「創始改名」により日本名(通名)を使うことを義務づけられた人々の存在である。
 「広島における朝鮮半島出身者の犠牲者を推定するうえで、参考になる数字はわずかながらだが存在する」(p267)と探求結果を記述している。「間違いなく言えることはひとつ、朝鮮半島から渡ってきた『万』という単位の人たちの身の上に、とてつもなく大きな犠牲があったということだ」(p267-268)勿論、原爆投下により行方の分からなくなった外国人には他国の留学生たちもいた。

 <第八章 生きていた”死者”>
 納骨名簿に記載されている名前であるが、その本人は生きていたという事実が存在するという事例にも触れている。戦時中の慌ただしさの中で奇しくも発生した出来事が人の運命を左右したという事例を取り上げていく。事実は小説より奇なりというが、そんな側面を含む事実の一端である。
 被災者、死者は誰なのか? 

 <第九章 魂は故郷に>
 軍人として沖縄より広島に来ていて、納骨名簿に名前が掲載されている事例がある。軍人という点などでいくつかのハードルがあったが、著者が本人探しを実行した。ここでは諸般の事情から仮名での記述となっている。
 この章末の少し前で、再び佐伯敏子さんの発言、思いを著者は引用する。その続きに、著者は次のように記す。「人は、忘れることで救われる。失ってしまった大切な人の哀しみの記憶が、遺族の中で薄れていくのは自然なことだ。しかし私たちが、あの戦争の犠牲となって殺されていった人たちの存在を忘れてはならない、と佐伯さんはいう。今を生きる人たちに『死者をわすれないで』と語り続けた人生は、救うことのできなかった家族、そして見殺しにした大勢の死者たちへの懺悔でもあったのだろう。」(p345)と。

4.<終章>はわずか7ページであり、2015年1月6日、早朝の原爆供養塔の場面描写から始まる。この章で印象深い箇所をご紹介しておきたい。その記述自体が一つの柱になる重みをもっていると感じる。
*「原爆のことももう、歴史の一ページになろうとしているんでしょうね」(p348)
*インドに伝わる話でお釈迦様の発言。その背景は、夏の日照り続きで、水不足。農作物を育てる為に隣り合う村が水の争奪戦で戦争に入ろうとしていた。お釈迦様が二人の村長に問いかけたという。「村人を生かすために、お前たちは殺し合いをするのか」(p349)
*「歴史は生き残った者たちの言葉で語られる。しかし戦争の最大の犠牲者は、言葉を持たぬ死者たちだ。あらゆる戦場において、家族への最後の言葉も、一言の文句も哀しみも、何も言い残すことすら許されず殺されていった人たちの存在こそ、今、私たちが立ち戻るべき原点である。」(p350)
*「私たちは遺骨となった人々に、胸をはれる戦後を歩んできただろうか。少なくとも、この70年の間、戦争という同じ過ちだけは繰り返さなかった。これからも、平和と呼ばれる時間を歩いていくことができるだろうか。」(p351)

 今、私たちは、危うい時代のただなかに投げ込まれているのかもしれない。
 70年余の歳月が、忘れてはならないことを風化させようとしていないか。
 「温故知新」という言葉の意味を改めて考えてみるのに最適な一冊になることと思う。

 ご一読ありがとうございます。
 
本書からの波紋で、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
原爆供養塔  グーグル・マップ
原爆供養塔  :「広島平和記念資料館」
原爆供養塔納骨名簿の公開 :「広島市」
広島平和祈念資料館  ホームページ
原爆ドーム  :「Dive! Hiroshima」
平和記念公園について   :「広島市」
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原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑) :「広島平和記念資料館」
広島平和記念碑(原爆ドーム) - 日本の世界遺産 :「平和がいちばん」
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