下田悠真さんより標記論文の抜刷を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。
表題にある真木和泉(本名:保臣〔やすおみ〕、文化10〔1813〕~元治元年〔1864〕8月)は、筑後国久留米藩士としてキャリアをスタートさせ、薩摩藩や長州藩とも接近しながら討幕と尊王攘夷で活動した幕末の志士の一人です。論文では、こうした立場を一貫させたわけでなく、晩年は尊王攘夷の理想を追求しつつ、討幕については「幕末政局の変動に伴って主張を柔軟に変え」(掲載誌33頁上段)たことを指摘しています。
以下は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。
1.「はじめに」で真木和泉のプロフィールに触れていないので、一見、幕末維新史研究者のあいだではわざわざそれを説明するまでもないほどの人物なのかと思いきや……第1章で触れています。あとの第1章で触れるぐらいならば「はじめに」で、何者なのか簡潔に触れておくほうが、予備知識のない者にとってはわかりやすくなるでしょう。
2.26~27頁、史料を1.5頁分もの文字数を用いながら書き下していますけど、長文ゆえに直後の解説がただちにわかりにくいと感じました。あとの解説で個別に該当箇所を再引するよりは、該当箇所に傍線とこのナンバーとを施しながら順に説明していくほうが、読者はわかりやすいと思います。
3.端的にいえば、肝腎な結論で、私を含む門外漢や一般的な幕末史ファンが率直に思う疑問点に触れていないため、専門外の歴史ファンほどモヤモヤした感じになるのではないでしょうか。もしかしたら「幕末政局の変動に伴って」は、幕末維新史研究者のあいだで現在ホットな論点であり、下田さんはその学界動向に順応しただけなのかもしれませんが……。一般的な幕末史ファンは、真木和泉の主張が変化する時期と薩英戦争・下関戦争すなわち西洋との実戦が重なっているのに、学界でこれは関係ないという見解なのかと、考えてしまいます。
以下、関係することがらを順に整理します。
(1)文久2年(1862)3月 真木、薩摩藩の要人に対し討幕の「義挙三策」を提示して、その実践第一段階をおこなうべく上方へ(30~31頁)
(2)同上年4月の寺田屋騒動によって●真木、幽閉となる(31頁上段)
(3)同上年8月 薩英戦争の原因となる生麦事件が発生
(4)以降 薩摩藩とイギリスのあいだで、幕府も巻き込みつつ和解交渉
(5)文久3年(1863)3月 真木、久留米藩によって罪を許される(31頁上段)
(6)同じ時期 ●真木に討幕の手段を見直しつつある姿勢(31頁下段)
(7)同上年5月 下関戦争
(8)同上年7月 薩英戦争
(9)同上月 薩英戦争終結し、再び双方で交渉
(10)同上年10月 幕府が賠償金を準備して薩英和解
(11)元治元年(1863)3月 ●真木「方今四夷を攘斥するには、海防専要にて」と、討幕から海防(海岸防備)へと主張に変化(32~33頁)
(12)同上年7月 再び下関戦争
このように流れを整理すれば、当時を生きた人間の肌感覚として、討幕どころの状況ではなかったことをうかがえましょう。海に囲まれた国すなわちすさまじい長さの海岸線を有する国で、上記(2)→(11)にかけ、いつどこに西洋の海軍が攻めて来るのかわからぬ状況へと変化したのです。ならば、そんな長い海外線すべての防備を指揮できるのはどこなのか。知識人ならば当然、天秤(幕府or朝廷)にかけながら考えるでしょう。
以上を要するに「政局」という熟語自体の指す範囲がそもそも曖昧なだけに、安易に「政局の変動に伴って」と語るのでなく、国内の動向と外圧との双方に注目しながら整理するのが望ましいと思いました。まっ、あとは薩英戦争の賠償金を準備した主体を、当時どれほど知られていたかでしょう。