kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

松山へ行ってみた

2016年02月22日 | 愛媛・今治

松山へは予讃線で行きます。
(国鉄の頃は「予讃本線」だったので、つい「予讃本線」と言ってしまいますが)
海沿いを走る所もあります。
窓の外はすぐ海なので、船に乗ってる気分も♪
だから右列窓側の席に座ります。

いつもは今治で降りるのですが、今回は松山まで。
今治~松山間では、たびたび海が見えます。
トンネルも多いのですが、特急だと気づかないうちに通過しますね。
こちらは海の側でも、線路と海岸の間に国道が走っています。


今を去ること70年前。
7月26日深夜から未明にかけて松山市が空襲され、市街地の大部分が焼け野が原に。
知り合いの小父さんは、松山の親戚の安否を尋ねて行ったそうです。
ところが、8月6日未明は今治市も空襲され、市内は焼け野が原に。
茫然としている人に持っていたトマトを渡したりしながら、松山に向かった。
すると松山に入る手前で、広島の空に大きな雲が見えた。
すぐに新型爆弾だと伝え聞いたが、原子爆弾だった、と話してくれました。
小父さんが広島の空を見た場所は、たぶん、この辺りでしょうね…。

愛媛県庁です。幸いにも焼け残った建物。
正面に停まっているのは、ゆるキャラ「みきゃん」でラッピングしたハイブリットカー。

松山は、オレンジカラーで街中を染めるみたいです。
この朝、岡山駅を出るとき、歩いている人がほとんど黒色の服装をしていました。
いかにも寒々とした冬の朝の雰囲気でしたが、松山の人は、もっと明るい色の服装でした。
気候と好みの色彩って、関係あるんですかね?
なお、県庁の正門両側には、右近も左近も夏ミカンでしたよ。

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志島ケ原の松林

2016年01月08日 | 愛媛・今治






今治では、桜井の「天神さん」にお参りしました。
菅原道真公をお祀りしている神社は、全国に12,000社あると言われています。
桜井のは「綱敷天満神社」です。

時は10世紀初め、平安時代前期のことですが、道真公は朝廷での政争により、左遷されて大宰府へ流されることに。
都を出て桜井の沖に差しかかった時、急な嵐に遭い、やっと砂浜にたどり着く。

幸いにも道真公は無事。
里人たちは、船の舳綱(へさき-つな)を巻いて敷物にして、お迎えした。
との由来により、道真公をまつった神社は「綱敷天満神社」。
また嵐の時、島を目指して(志島)たどり着いた浜は「志島ケ原」。
以上、案内板に書いてありました。

神社の境内は、広さ11万平方メートル。
3000本の黒松が保存され、白砂青松の景勝地になっています。

砂浜を歩きました。(曇っていたので写真はありません)
天神さんの前の砂浜はゴミ一つなくきれいにされていましたが、ちょっと離れると、他の海岸同様、ゴミだらけでしたわ…。

道真公の濡れた服を干した「衣干岩」もありました。



この一帯は、海沿いで暖かいようで、南国の花が咲いていました。
皇帝ダリア・アロエの花が元気に。
白亜の館では、ブーゲンビリアが茂っていました。


とりあえず整理した写真だけですが、忘れないうちに…。
ではまた。

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しまなみ海道を渡って、同窓会

2015年10月17日 | 愛媛・今治

来島海峡の島側から。山の中の白い建物は、来島海峡海上交通センター。

入学した頃は村立だった小学校。途中で今治市に合併されましたが、中学も同じ生徒でした。学年は2クラス、合わせて59名。
中学卒業以来会ってない人もいましたが、村うちで親きょうだいを知っていたりするので、すぐ見当が付きました。

しかし、「あの人、だあれ?」って感じで分かりにくかった人もいましたね。
そのうちの一人は、なんと、ワタクシだったりして^^;

近所の人から、「あんたは昔と変わらないねえ…(言外に、娘さんになってもキレイにならないねえ、かも?)」と言われてたのは何時の頃だったかな?

でも同年齢の人からは、自分と同じように変わっている方が分かりやすく、同じようには変わってない私には、「え~っ!?」の反応だったみたい。

「どうしてあんたがkankoさんなんか分からんかったけど、話しているうちによう分かったよ。お兄さんによう似とる」と納得されたりして…。


風光明媚な旅館で、すごいご馳走

会場は、しまなみ海道で来島海峡大橋を渡ってすぐのインターチェンジを降りた山の反対側。
南にプライベートビーチのような海水浴場があり、静かできれいな場所でした。

そして、すごいご馳走が出ました。

来島海峡のタイとアコウが刺身に。

集まったのは29人だったので、上のでっかい魚を分けた1人分。左上の3切れと2切れ。


皆さんお元気で(だから来れた…)小中学生の頃は口を利いたこともなかった人とも長年の友人のようにしゃべりまくり、とっても楽しい時間でした。

岡山へ帰って、現実に引き戻された

駅に着いたのは夕方。ムクドリも寝ぐらに帰る時刻でした。
(街路樹の周辺はバッチイでしょうね)

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35年前の5月12日:大三島橋、開通

2014年05月12日 | 愛媛・今治
(後のアーチ橋が大三島橋です。
 1980年8月、三原・今治国道フェリーの船上から。
 橋の道路と船の柵が重なった下手な写真ですみません(-_-;)、私が撮ったものです)

NHKラジオ「今日は何の日」で放送されていました。

「1979年5月12日、愛媛県の伯方島と大三島を結ぶ大三島橋が開通しました。
本州四国連絡橋の橋の中で最初に開通した橋です」


かつて「NHKみんなのうた」で、『大きなうた』がありました。
  おおきな うただよ  
  あのやまの むこうから  
  きこえて くるだろ  
  おおきな うただよ

歌の背景映像のなかに、この橋がありました。
初回放送日は、1979年06月~07月。
橋ができたばっかりの頃だったんですね。

大三島橋は全長 328m。当時は、とても大きな橋でした。
今治に里帰りする際は、三原・今治間を1時間40分で結ぶフェリーをよく利用しました。
中間あたりに大三島橋があり、その下を通過するときは甲板に出て、仰ぎ見たものです。
すごいなあと感心しながらも、全部の橋が出来てた時には、この橋、錆びちゃってるんじゃないかなんて思ったりもしました。

愛称「しまなみ海道」の西瀬戸自動車道で、すべての橋が開通したのは1999年5月1日。
大三島橋の開通から20年のちでした。
(この時点では、生口島内には自動車専用道路がなかったので、それが完成した2006年が「しまなみ海道の開通」ともされます)


本州と四国を結ぶ「本州四国連絡道路」は3本です。
その全線開通年月日を記しておきます。
神戸・鳴門ルート         1998年(平成10年)4月5日
児島・坂出ルート(瀬戸大橋)   1988年(昭和63年)4月10日
尾道・今治ルート(しまなみ海道) 1999年(平成11年)5月1日(生口島内の高速道路を除く)

最初に着工したのは瀬戸大橋。
「四国の玄関は香川」との政治判断です。


閑話休題
「本州」を「本土」と書く(言う)人が結構いますね。
四国生まれのワタクシは、違和感を持ちます。
四国は、属国でも離島でもありませんから。

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