一日じゅう本を読んでいました。
今度は登場人物が少なく、しかも、すべていい人。
子どもにも読める本です。
またその話…とうんざりされそうですが…。
私はゲームとコンピューターは分からないので、そこは書きません。
「中国残留孤児3世の足跡」について、です。
野村達雄の祖母
祖母は野村志津という日本人。
福井県小浜市生まれの祖母は、1935年、20歳の時、満蒙開拓移民として、兄を頼って満州にわたる。
現地で満州鉄道勤務の日本人と結婚、3人の子をもうけた。
1945年の終戦時、夫と兄は召集されていた。
祖母は、3人の子を連れて零下40度の野山を逃げ回るなか、子をすべて亡くした。
山小屋で倒れていたのを保護したのが、祖父となった中国人。
結婚して、2人の男の子ができる。(達雄の父と叔父)
1953年、祖母は日本にいる家族に手紙を出す。死んだと思っていた家族は大喜びした。
その後も手紙の交換が続いたが、1966年からの文化大革命で連絡は途絶える。
1972年9月、田中首相の日中国交回復により、手紙の交換ができるようになる。
その時祖母は、ひどい子宮がんを患っており、治療のために日本に帰りたいと伝えた。
希望がかなったのは、1973年6月。
しかし帰国して2か月後、母やきょうだいに見守られて死亡。58歳だった。
両親
祖母が日本へ帰国する数年前、父と母は結婚。
4人の女児のあと5番目に出来たのが男の子のぼくで、石磊(シー・レイ)と名付けられた。
石つもある硬い名前で、丈夫な子に育ってほしいという願いがこめられている(おかげで性格が頑固)
当時は一人っ子政策をとっていたので、女の子が生まれるたびに罰金を払い、家は家財道具もないほど。
その状況を打開しようと、父は祖母の親戚を頼って日本へ出稼ぎに行った。
相変わらず貧乏だったので、僕が9歳の時、両親は日本に移住することを決めた。
1995年10月来日。父の知り合いを頼って、東京に住む。
父は建設現場で、母はクリーニング屋で働き、中国にいた時よりいい生活ができた。
ぼく、野村達雄
小・中学生の頃
日本風の名前は自分でつけた。父が持っていた日本語の教材に登場する主人公の名前「林達雄」をそのままもらった。
学校では、中国語ができる先生が来て、日本語を教えてくれた。
半年くらいで僕も姉も、周りの子と同じように日本語が話せるようになった。
家の中では、僕が日本語を一番上手に話せたので、両親の通訳のために、いろんな場所へ駆り出された。
手続きのために、ひとりで区役所へ行くこともあった。
小学校の友だちの家で、テレビゲームをする。
4年生の時に、女の子の家でポケットモンスターのゲームを知って、とりこになった。
いつも遊びに行くので、その子はゲームボーイごとポケモンを貸してくれた。
何時も夜遅くまでゲームで遊んだ。
ポケモンに夢中になっていた1997年の秋、両親は長野市へ引っ越す。
東京は生活費が高く、給料も良くなかった。
もっといい働き口をさがしていて、やっと見つかったから。
長野では、小学6年から新聞配達のアルバイトを始めた。
新聞配達でもらったお金は、殆どゲームとパソコンに費やした。
高校生
高一の時、250㏄バイクで(もちろん無免許)で車と衝突し、目を骨折。
大手術して回復したが、左目が少し奥に沈んでしまい、今でも左目は右目より少し小さい。
大学受験。英語が苦手だったので(高校最後のテストは17点/100点),英語のない所を探す。
(センター試験の外国語は、中国語を選んだのでほぼ満点)
大学・大学院
2005年4月、信州大学工学部情報工学科に入学。
1年の授業は総合科目で面白くなかったので、アルバイトに励む。
2年で専門に移ってからは面白くなった。いちばん興奮した井澤先生の「理論回路」の研究は、一人で進めて「終わりました」と報告したら、「授業には出なくていいい、好きに使っていいい」と、空いていた部屋を貸してくれた。
この時期、中国で反日デモが広がったが、残念なことだったと思う。
実際にその国に行って、文化・習慣・価値観の違いなどを受け入れることができるようになってほしいと思う。
大学4年の時、もう中国に帰って暮らすことはないと思い、帰化して日本人になった。
大学院では、スーパーコンピューターの研究がしたいと思い、東京工大の大学院へ。
試験は専門科目だけだったので、楽に合格できた。
大学の先輩がGoogleに就職していて、インターンシップを勧められ、応募して採用される。
大学院1年生の夏休みの2~3か月間をここですごし、卒業後に就職することになった。
英語の勉強法
9歳の時に何の苦労もなく身に付いた日本語だったが、大学や大学院になってからの英語には苦労した。
大学院になってからは、遊び相手が殆ど留学生だったので、下手な英語を話すうちに、鍛えられてきた。
あとは専門的になるので、書きません。
読後感
「中国残留孤児」の一族が日本に来て働くというのは、あまりいい印象では捉えられてないように思っていました。
しかし、生まれたときたまたま決められた「国籍」とか「血縁」とかに拘るのは不幸で悲しいことだと思います。
この本では、周りの日本人も、中国人仲間も、優しくて協力的な印象で書かれているので、しあわせな気持ちになりました。