kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

冬支度

2024年11月26日 | 日記

今回、3泊4日の夫のショートステイ期間中は、
どこへも出かけず、買い物にも行かず、ずっと家にいた。
3日目まではiPadとパソコンにかじりついていたが、
最後の日は部屋の片づけをやった。

冬支度は、衣類の入れ替え、ストーブのセット、植木鉢の取り込みなど。
来客があっても上がってもらう隙間がなかったけど、
これで上がってもらえるかな?
モノでふさがって狭いのはダメだけど
窓辺を占領した植木鉢で狭くなってるのなら、大目に見てもらえるだろう…。
ストーブもセット出来たし😄

私がお邪魔するお宅は、びっくりする(私が)ほど、整理整頓されている。
家の広さやモノの多少は関係ない。
いつ行ってもキレイなのだ。

対してわが家はご想像に任せるとして、上には上があるもので
息子家族が来ても泊まる場所がない、と言った友人がいるよ。
(私自身に対する慰めです💦)

この間、主が留守のベッドに寝てみた。
介護用品で借りているものだが、マットレスがとても快適だった。
私は「客用の嫁入り布団」を使っている。
捨てるのはもったいない、使ってから捨てよう、が理由。
しかし何年使っても、干せばふんわりするし、寝心地もいい。
でも、今どきのマットレスがこんなに快適なんだったら、と思った…。
(今から何年使うのか考えてから買いましょうね😠)

話は飛ぶが、私の姉は、亡くなった時、衣類などきれいに処分していたそうだ。
まさか? あの姉に出来たわけない、と思うのだが、見た人はそう言ってた。

(私も負けずに頑張らなくちゃ😆)

私は、「買うんじゃなくて、あるものを使いつぶしていく!」
と決めているけど、あのマットレスはいいなあ。
固い信念もゆらいでいく。

散らかって使えなかった部屋が、使えるようになったのは
増築したのと同じ値打ちだ(しかも、タダで)!

木綿わたの嫁入り布団、掛け敷き合わせて4枚捨てれば
マットレス買えそう…命があるうちに…
考えるだけで、楽しくてシアワセ。何でだろう🤔


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当事者農民の記録

2024年11月25日 | 100年前の煙害事件

『四阪島煙害ニ関スル綴』
   当事者だった農民のメモ

明治中頃生まれの伯父は、煙害問題に関する書類をまとめていたので
コピーさせてもらいました(50年以上前のこと)

賠償金などの数字・交渉契約者の氏名など(これがメインかも?)は省き、
文章の部分だけをここに載せます

『書類の綴』で、「はじめに」にあたる「煙害問題の沿革」の部分、
ざっくりいうと、以下。

・精錬所からの煙害が初めて問題になったのは、明治25~6年の頃。
 当時、精錬所は新居浜町にあった

・政府は、被害防止のため精錬所を離島である四阪島に移すことを命じた

・鉱山主はその命令に基き、明治37年、移転を実行
 しかしその結果、硫煙がまん延し、問題は一層重大化した

・明治41年、知事と鉱業主から農商務大臣に申請して、調査を行った

・明治42~3年頃、被害甚大
 数千の農民が連署して、貴・衆両院に請願書を提出

・明治43年10月、大浦農商務大臣の煙害地視察に来る

・農商務局長、知事の斡旋により、ようやく協調が進められた。

 大臣帰京の直後、官邸にて当局と知事列席のもと、農・鉱代表者の協議会を開催。

・同11月9日、初めて円満な賠償契約が成立。 
 契約期間は3ヶ年とし、3年ごとの更改は、知事の斡旋により行う慣例。

・昭和12年3月23日で第10回の更改である。

・一方、鉱業主は硫害の除去の工夫を重ねてきた。
 ペテルゼン式硫酸製造工場を併設し、排煙中の硫黄の70%を処理できるようになったので、硫煙の被害は著しく減少できた。

・昭和14年12月4日に契約された第11回では、
 煙害なきものと認め、賠償金は廃止された。

-----------------ここから『四阪島煙害ニ関スル綴』の文書

煙害問題の沿革

愛媛県における精錬所煙害問題が初めて世上の注意を惹
きたるは明治二十五・六年の頃にして当時排煙に依る被害甚だしき
により被害農民より鉱業主に対し除害方に関し交渉を重
ねたるも鉱業主は最初鉱業上の被害に非ずと主張し之に應
ずるの色なかりき。後に至り鉱業上の被害なることを承認したるも
賠償並に煙害防止に関し農民側との間に協定調うに至らざりし
ものなり。
当時精錬所は本県新居浜町に在りしが、その後大阪鉱山監督
署は被害防止のため精錬所を瀬戸内海の一離島なる四阪
島に移すべきことを命じ、鉱山主はその命令に基き、明治
三十七年移転を実行セリ。しかるに其の結果却って硫煙の瀰漫
区域を拡大し、問題は一層重大化するに至れり。依って県は
被害調査を行い、又其の調査に基きて、農・鉱両者の協調に尽力
せしも其の功なく益々事態の紛糾を見るに至れり。

茲に於て遂に明治四十一年に至り知事及鉱業主より農商務大
臣に申請して農商務省の調査を煩はすことゝなれり。
然るに煙害は依然激甚なるを以て農民は激昂して止まず
屡々不穏の事態をすら惹起せり。明治四十二・三年頃には数千
の農民連署して両度に亘り貴・衆両院に救済に関し請願
書を提出せることあり。第二十五議会に於ては鉱煙毒被
害に関する質問提出せられ、之に対する政府の答弁書の
同附を見たり。次いで明治四十三年十月大浦農商務大臣
の煙害地視察を見るに至れり。

かかる間に豫てより調停に腐心せる下岡農商務局長、伊沢
知事等の斡旋功を奏し、漸く農・鉱両者の間に協調の
機熟し、大臣帰京の後直ちに官邸に於て農商務当局及
知事列席のもとに両代表者の協議会を開きたる結果、十一月九日
に至り、多年紛糾を重ねたる両者の間に始めて円満なる賠
償契約の成立を見たり。  仝契約は賠償金に関する規定と
焼鉱の量的並に季節的制限に関する規定とを主たる内
容とするものにして、契約期間は三ヶ年なり。爾来契約は両
三年ごとに更改せられ、その都度知事の斡旋によりて行はるゝ
慣例にして今回は第十回の契約更改期に相当せり。

而して右の契約によりて年々鉱業主より被害民に対し賠償金
を交付する外、大正二年以来農林業奨励のため一定の寄付
をなし更に大正八年以来思想善導其の他公益の目的のため
に一定の寄附をなすを例とし、かくて賠償契約に基づき鉱業主
より被害民に交付する総金額は年々多きは三十五万円
少なきも一六・七万円に達し、最近三ヶ年の平均額は十七万六千余
円なり。

一方鉱業主に於ては常に硫害の除去に対し工夫を重ね来り
たるが数年前よりペテルゼン式硫酸製造工場を併設したる
結果、現在排煙中の硫黄の七十パーセントを処理し
うる域に達し、従前に比し硫煙の被害著しく減少する
に至れり
右は煙害賠償協議会議事録の付録の昭和十二年三月二十三日
(第十回)迄の沿革の大要である。
第十一回は、昭和十四年十二月四日に契約されたが、賠償金に就ては既にペテルゼン式硫酸製造工場を併設し十四年七月には中和工場完成により煙害なきものと認め賠償金は廃止された。
              (コピー終り)


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忘れていた!

2024年11月24日 | 100年前の煙害事件

100年前の煙害事件については、以前に、まとめたことがあった。
それは、ホームページにも掲載した。
のちに、何かの折、削除していた。
内容は古いPCに残してあるが、そのPCは触ることがないだけでなく
PCを置いた机の前に座ることさえなかった。
下に置いた古い本の『新今治市誌』は、時々開いていたけれど。

昨日、PCを開いてみたら、バッチリまとめていた。
けっこう時間をかけたはずなのに、すっかり忘れていた。
しかも、今回ブログに書いたのより、理論的でわかりやすい。

重ね重ね、ショックを受けた😣

日付を見たら12年前、ワタクシ60代。
若い人にはかなわないなあ…😥


年表を作るのが好きだったので、作っていた。
時代を知ってないと、理解がずれるのではないかと思ったりして…。

さて、古いPCの文書を、今のPCに移したいが、操作はどうだったか?
そんな簡単なことさえ億劫に感じたので、日を改めて、やる!🙂

 

<年表を見て可笑しかったこと>

1905(明治38)年 煙害激甚で農民の反対運動の声が沸き上がる
以降、1910(明治43)年まで、煙害激甚だった

<ところで>

電話の開通は
1910(明治43)年 今治町の中央部に開通した
         官公署は、郡役所・税務署・警察署・裁判所
         民間は、工場・旅館・料理屋・製造業など

鉄道の開設は

高松の方から敷設され、今治までは1924(大正13)年2月、
松山まで開業したのは、1927(昭和2)年4月のこと
人の移動は、海上は船だけど、陸上はどうでしょう? 農民は歩くか走るかでしょうね🤔

電話もない・汽車もない時代。

新聞と郵便・電報はありました😃

                <続きはまたあとで>


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100年前に思いをはせて

2024年11月23日 | 100年前の煙害事件

書類の作成はパソコン、iPadはLINEと写真とゲーム、と使い分けていたが、ある時、A5用紙のプリントを写真に撮ったら、見事なテキストになっていて、びっくりした。

文字の読み間違いも一切ナシだった!

 

どこをタッチしたらそうなったかは分からなかったが、こういうことができるのなら、かさばるスキャナーは要らないと、机から取り外した程だった。(昨今はスキャナーを使うことはないし、使い方も忘れたし)

 

さて、四阪島煙害事件を知らなかったという初老の友人に、経緯を教えてあげようと思い、古い本を取り出してスキャンしよう始めた。

いつもと同じで、うまくいかない。

Apple Supportのページなどを見ながらやってみたけど、混乱するだけ。

こういう時は、サッサとやめて、翌日にでもやればうまくいくかも知れないのに、意地になって堂々巡りを続けてしまう。

(暇つぶしをしたい人には最適デス)

 

それから、iPadがなんで2つもいるの?と聞かれるけど、調べたページの内容は直ぐに忘れてしまう私には、横に置いて見比べることが必要なんです。

 

というわけで、昨日出来なかったことが、なぜか、今日はできた!

         (以上、一昨日のこと)

 

 

50年余り前に、今治市で市制50周年記念で刊行した『新今治市誌』に掲載されているページをそのまま載せてみた。

 

実はこの項目、編纂を手伝っていた私が「原稿を書いてもいい」と許可を得て、資料集めをやっていたけれど、頑張ってもまとめることができず、放り出したら、編纂責任者様が、あっというまに成文化していたもの。

つくづく、明治生まれのご老人には脱帽するのみ…。

 

なお、私の伯父(明治中頃生まれ)は桜井で生まれ育ち、煙害被害をまともに経験したので、しっかり聞いています。

 

住友の経営陣も、大臣も、知事も、そして農民も、偉かったと感心する。

名前を覚える間もなく簡単に更迭される現在の大臣とは違うだろうし、

中央から派遣された官僚の知事も偉かった!

(伊沢多喜男知事の息子は、作家・飯沢匡です)

 

まとまりがイマイチなので、後で手直しします。では。


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100年前の煙害事件−6

2024年11月21日 | 100年前の煙害事件

この間、住友は煙害試験場を立花小学校下側、清水(きよすい)に設けて、風力・雨量煙害の度合を調べた。また、坪刈りといって、各田ごとに1坪ずつ稲を刈りむしろに包んで名前を書き、郡役所へ持っていき、こいでこなして出来工合を調べたり、1町に1本くらいずつリトマス試験紙をたてておいて、その変化を調べるなどして被害調査も行なった。(元立花村長越智武談)

煙害問題の解決  四阪島製錬所も亜硫酸ガスを排出しなくてすむよう研究を重ね、昭和5年5月にはペテルゼン式脱流装置が完成し、13年7月に中和工場が完成するに及んで、一切の硫黄分は硫酸アンモニアにかえられ、肥料として使われるようになった。

そこで、昭和14年12月4日、知事持永義文・住友側三村起ー・被害民代表曽我部右吉外9名による賠償協議会で、

  1. 賠償金については先に硫酸工場(ベテルゼン式)、本年の中和工場の完成により害除却の目的は達成され、農作物の害はないものと認められたので廃止する。

2.  農林業奨励助成金ならびに公益増進のため、むこう10ヵ年、137,000円ずつ寄付する。

  1. 特別寄付金は一時金として100万円寄付する。
  2. 農林業奨励寄付金は、一時金として65,000円を県に寄付する。

と決まった。

なお、前表の公益寄付金は積み立てていたが、大正14年ごろ頂点に達していた中学校入学難を緩和し、青年の進路を拡張するため、この資金を活用して加藤徹太郎ら5名の煙害代表者、越智郡長川又金太郎外有志らが中学校新設に尽力した。敷地買収及び建築には27万円を要し、組合立越智中学校として創立し、大正15年4月に第1回入学式を行なった。当時、この地方の中学校は県立今治中学校だけで入学者定員は 200名にすぎないのに希望者は700名を超えていたので、越智中学校の設立には大きな意義があった。越智中学校は昭和19年に県立に移管された。  (完)


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100年まえの煙害事件−5

2024年11月20日 | 100年前の煙害事件

住友の代表が来た時の記録は以上であるが、その後も煙害は止まず、農民代表は農商務省や議会に陳情や請願を続け、全国的にも重大な問題となった。

 明治42年4月20日から、尾道に住友と煙害農民の代表が集まり、煙害賠償協議を行なった。住友は、過去・現在・未来の損害を一括し、農業奨励金の名目で支払うことを主張したが、農民代表は、過去・現在と将来の損害は分けて支払うことを主張し、決裂した。

 このあと5月8日、日吉村別宮の地主らは、尾道会議決裂後の善後策を協談したが、そこでは「損害賠償もしくはそれ以下の方法で妥協して農作物の被害を継続せしむるが如きは農民の忍ぶ能はぎる処なり」として、あくまで煙害の除去を要求し、それができないなら、四阪島製錬所の中止もしくは遠距離への移転を要求することを決議した。また、中止もしくは移転によって鉱業主が不利を生ずるならば、別宮部落から1万円寄贈しようとも決議している。その5日のちに、日吉村の日吉・別宮・蔵敷の3部落代表の話し合いでも、四阪島製錬所の休止または移転、その場合には5万円の寄付を決議している。

 この年7月、知事安藤は休職になり、伊沢多喜男が代わると、自ら積極的に煙害問題の解決に当った。12月県会では、会員一致で、製錬所の移転、または完全な除害設備、損害補償、米麦開化期の精錬中止、または制限を決議した。翌年2月、貴族院請願委員会は別子銅山煙害駆除の請願を採択した。衆議院でも別子、小坂、足尾、日立鉱山など対象とする鉱毒除害と被害救済の建議案が提出されている。東予の煙害問題もようやく解決への歩を進めた。

 煙害補償協定 明治43年10月4日、知事は各地の委員と部長を県庁に集め、煙害問題解決のための協議を行ない、協議の場所は農商務省とする、各地域代表者は全員上京する、費用は各自負担、賠償金は各郡、各町に分配する、政府は被害調査を続ける、契約は3年以内にする、などを協定した。

 10月12~14日、農商務大臣大浦兼武が視察に来た。まず、四阪島製錬所を視察し、そのあと越智・周桑両郡の村々をまわった。農商務省の秘書官や技師・それに知事・農事試験場長・警察部長などをひきつれ、3人びきの立派な人力車で通る大臣を、浴道の農民は地にひれ伏して迎えたという。

 10月25日には、農商務大臣邸で、農商務大臣・知事列席のもとに、住友と被害農民の代表者による煙害補償協議会がひらかれた。そこで、

 

 1.住友は農作物と材木に対する賠償金として、明治41年から43年までの分として23万9,000円を支払い、44年以降は7万7,000円を支払うこと。

また、別に10万円を支払い、前項以外の既往の損害を賠償すること。

 2.  四阪島製錬所の1年の製錬量は、5,500貫以内とする。

 3.  米作麦作の重要時期の各40日間は、1日の製錬量を10万貫に減少する。

また、その期間の10日(開花期)は、溶鉱炉の作業を休止する。

 

などが契約された。

 この賠償金の使い方については、知事と農民の代表者間で検討した結果、一部を県の農事試験場に寄付して原種の設置・運営にあたり、他は各町村に分配し、別に定める農林業奨励改良基金条例準則により活用することを決定した。準則のおもな事項は、①分配された金額の全部を農林業改良基金として蓄積する。②基金は本町村(煙害地)の農業組合・水利組合・耕地整理組合・肥料共同購入組合および森林組合に農業改良奨励の資金として、利子付きで貸与することができる。貸付金利は年5分以下3分以上とする、などであった。しかし、実際には煙害補償金は煙害交渉に必要な経費を支出したあと、田の面積に応じて各戸に分配した(桜井・立花の例)

 

なお、最初に受け取った補償金の分配は以下の通りである。

 (略)

補償契約は3年ごとに、知事が座長となり、住友側と被害者代表との間で行われたが、その金額は次のとおりであった。

 (略)

 (注)農林業奨励寄付金で、原種田・煙害試験地苗圃が作られた

(次ページへ続く)


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100年前の煙害事件−4

2024年11月19日 | 100年前の煙害事件

四阪島精錬所と煙害  たまたま、新居浜から18km、今治から15kmの燧灘中に、水のわかない5つの小島があった。いずれも無人島で、越智郡宮窪村に属し、四阪島といって美ノ島 ・ 家ノ島 ・ 鼠島 ・ 明神島 ・ 梶島から成っていた。合わせても120ha余りに過ぎない荒地の島で、付近の住民の私有地であった。今治常盤町の竹内某が10年くらい前に25円で売ったこれらの土地こそ願ってもない適地と、常識外の高値の約 1 万円で買収し、28年11月、住友本店 支配人伊庭剛が個人名義で登記した。早速、ここへ溶鉱炉を移転することを農商務大臣に出願し、管下の大阪鉱山監督署が許可を与え、30年に新居浜の煙害が地方的問題になると、できるだけ早く移転するよう住友に命 じた。

 

 こうして溶鉱炉の四阪島移転がはじまり、37年8月には吹初式が行なわれた。会社も世間も、これで煙害は解消すると期待したが、同年12月には、早くも宮窪村友浦で被害が現われた。 さらに、全面操業を始めた38年 1 月ころからは、従来煙害とは無関係であった越智郡の地方(じかた)の村々や周桑郡で大被害が現われた。被害地の桜井村長曽我部右吉と、壬生川村長一色耕平は直ちに事態を県に報告して専門技師の派遣を要請した。越智郡では曽我部が中心となり、村長12名を委員とする煙害調査委員会を設立し、対策にのりだした。

 県でも県農会技師岡田温に調査を命じた。岡田は精密に調査し、39年11月21日調査書を提出したが、 その結論は次のとおりであった。

 

 1.亜硫 酸ガスは作物 に有害なり

 1.島製錬所より噴出する煤煙中には多量の亜硫酸ガスを含有す

 1.本年度に於ける越智・周桑両郡に於ける稲作被害の直接原因は病害・虫害・土壌の悪変・暴風・霖雨・旱魃にあらず

 1.本年度に於ける越智 ・周桑両郡に突然現出したる稲作被害の直接原因は四阪島の煤煙なり

 1.煙毒に抵抗する活力の強からざる植物 のに接するときは、或る程度の被害は免れざるものなり

 1.四阪島媒煙の襲来する区域内に於て、昨三十八年以来、或る種類の樹木・作物・雑草等に発現したる変徴の内、被害の徴候異様にして、其原因の不明なるものは煙害の疑あり

 1.四阪島の煤煙は、越智・周桑両郡の農業に対し頗る危険なり

 

これによって事態は、新居浜惣開時よりは深刻化し、関係区域は拡大し

問題はいっそう重大化することとなった。

 

   農民の怒り 明治40年にも日吉町で100町歩にわたり稲作に著しい被害がでた。

 41 年には、煙害は一段と激しくなった。煙害は海軟風のとき、日光が強く気温が高く、また湿度の高いときは 著しくその度 を増 す 。 のちに 、こういう気象を 「煙害日和」というようになったが、 この年はこうした日和が頻々と続いた。雨の日には、戸外へでると煙が臭くてせきがでて、とてもたまらなかったという 。麦作はきわめて不作であったし、稲作にも一様に茶褐色の班点を生じ、だんだん枯れはじめ、もはや前年程度の結実は望めなくなったので、被害農民はしだいに不穏の形勢をまきおこすようになった。この年は、県下で煙害に抗議する農民の運動が最高潮に達したときである。 なかでも、愛媛県知事安藤謙介の勧告により、住友の支配人久保無二雄と大阪本店理事中田錦吉が現地視察のため越智郡内に来た時が頂点であった。 一角耕平はその著 書 『東予煙害史 』 に、あらまし次のように 、 農民の動きを記録している。

 

 8月23日、桜井の法華寺で集会をしていた農民の請求で、現地視察中の久保・中田の両人は法華寺へ向かった。桜井及びその周辺から集まって来たものは数千人を数えたという。農民を代表して桜井の加藤徹太郎が、明治38年の被害当初からの経過を詳細に説明し、「激甚の被害度」を詳しく述べ、農民の苦しみと農業の見とおしの暗さを訴え、鉱業というものは農民の忍耐を足げにすることも、絶好の利益を得るためには容赦をしないものかとつっこんだ。さらに、それまでの煙害の解決を促し、将来の方針はと鋭く迫ったが、両人は、調査中なので待ってほしいと述べるだけであった。

 この時、富田村の鴻の森に集まった農民からも、直ちに視察を求められたので両人は富田へ向かったが、ここでも農民の興奮は極度にたかまり、被害は明白であるのに、まだ調査などとは何事かと雨中にたつ数千の農民は鋭くつめ寄り、怒りの声はば声とかわった。形勢は不穏となったので、両人は雨中を今治の吉忠旅館へのがれた。農民はこれを追って吉忠旅館へおしよせ、即決を迫った。警官の制止と郡長の説論で大部分は辰ノ口の大神宮に引きあげ、徹夜で協議を続けた。代表は中田に別宮の南光坊で会見することを要請した。

 8月24日、南光坊には今治はもとより、富田・桜井・周桑からも農民が集まり、前日の数倍となって門の内外をうずめ、そのあまり、押しあいへしあいとなって騒ぎはきらに大きくなった。今治察署長はこの有様を見て尋常では沈静しないことを感じ、巡査らに抜剣の用意を命じた。農民は実力行動にはでなかったので大事にはならず、久保・中田の両人は巡査に護られて吉忠旅館へ逃げた。群衆はこれを追って吉忠旅館を囲み、雨の中・みのかさ・腰弁当で頑張った。そこで両人は、27日未明、ひそかに変装して松山へ逃れた。


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100年前の煙害事件ー3

2024年11月18日 | 100年前の煙害事件

50年余り前に、今治市の市制50周年記念で刊行した『新今治市誌』

  発行日 昭和49年3月31日

  発行者 今治市役所

この本の830ページから836ページまでをスキャンし、テキスト化したものです

ーーーーーーーーーーーーー

第3 章 公害

第1節 四阪島製錬所煙害事件

 別子銅山 公害が今治地方で最初に問題になったのは、明治38年に住友別子鉱業所四阪島製錬所が稼動して、大きな高い煙突から、くさい黄色い煙を付近の島方や越智・周桑の地方に漂よわせ、農作物や山林に大被害を及ぼしたことからである。

 別子銅山は、わが国屈指の銅鉱脈をもち、元禄4 (1692)年、大阪の巨商住友吉左衛門の手により開鉱され、幕府から下請して経営された。従業者も一 時は 4,000人以上に達し、消費する飯米は 年間 13,000石 にも及んだ 。孫兵衛作村 ・長沢村 ・桜井村 ・旦村・登畑村・宮ヶ崎村は、朝倉中村 ・上朝倉村の 一部とともに天和年代(1680年代)から天領となり、この地方の年貢米は、いつの頃からか銅山米として別子山へ送られていたから、現在は今治市となっている前記の村々の人とは、多少の因縁もあったことになる。

 別子の製錬所の煙突からでる煙に含まれる亜硫酸 ガスは、付近の山々を裸にし、植物には恐ろしく有害であることはよく知られていたが、被害の山林・田畑は鉱山主が買収し、また、この地方の人々にとって鉱山は格好の職場で商業者に対しても十分な利益を与えた。こうした銅山側の態度は地元民の不平を和らげ、むしろ住友家を徳とする風さえ起こっていた。

 

 新居浜の煙害 明治21年洋式の溶鉱炉が新居浜村惣開に完成すると、別子の和式製錬所は廃止された。25年には別子山の抗口から惣開迄私設鉄道が建設され、原鉱の運搬が容易になったので、採鉱量も増し、精錬が拡張されると亜硫酸ガスの被害が拡大した。

惣開に溶鉱炉を設置することについては、鉱山側はすでに明治15年に県に出願していた。この時、関係の村方は、製錬が付近に与える損害に ついては見聞していたから 建 設に同意しなかったが、県 はこ れを無 視し て17年に許可を与えたものであった。はたして、溶鉱炉が活発に稼動しはじめた26年には新居浜付近の農作物に大被害がでた。村は原因の共同調査を住友の総開分店に文書で依頼した。被害4 部落の代表農民は県に陳情し、さらに地区の農民は大集団で惣開分店におしかけようとしたが、警官の説得で解散した。翌27年にも麦作に著しい被害がでて、農民は直接談判しょうと惣開分店に押しかけ、途中響官と衝突し、双方に負傷者がでて、21名が送局された。30年7 月にも稲作に著しい被害があらわれ、村長らは県に陳情し、被害民は農商務大臣に請願した。県議会も惨状を認め、 決議をもって内務 大臣に建議した。

これより先 、住友側でも煙 害は察知していたが、日清戦争後の国家の要請から事業を中断せず、被害を減少するため、溶鉱炉の移転を計画した。

(次ページへ続く)


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100年前の煙害事件−2

2024年11月17日 | 100年前の煙害事件

燧灘を眺めて思い出した「四阪島精錬所煙害事件」について

 

住友財閥繁栄の礎になった「別子銅山」

その銅採掘は、元禄4(1691)年、住友家によって始められた

資材調達での伐採と煙害のため、周りは禿げ山に

(対策のため、住友林業の原点が出来た)

 

1883(明治17)年 現在の新居浜市惣開に銅精錬所を移転

      すぐあとの明治20年春から、周りで煙害が発生したため

      移転が検討され、四阪島に決まる

1904(明治37)年 8月から四阪島で精錬開始

      直後から、付近の島や沿岸地域で煙害発生

明治末期(1906〜1910)が最悪

      被害農民の反対運動が起こる

解決策のため、脱硫装置が発達していった

      回収された硫黄成分は硫安(肥料)になった

      (住友化学の原点)

その後、四阪島精錬所での粗銅生産は、

1960(昭和30)年代、後半から急激に上昇

1969(昭和44)年は粗銅生産がピーク

1971(昭和46)年 新居浜・西条境の磯浦に東予精錬所が操業開始

1976(昭和51)年 この年で、四阪島の銅精錬は廃止となった

 

煙害が起きたのは明治の末期、110年くらい昔のこと。

そして私が高校生だったのは、55年昔の、昭和30年代の後半。

当時は高度経済成長期、四阪島精錬所が最盛期だったようで

島に小学校も中学校もあった。

 

今治には県立高校が3校あり、普通科は小学区制で

中学校区ごとに進学先が決まっていた。

私の高校は、四阪島中学と同じ校区だったので

クラスに同中学出身の人もいた。

島で自転車は使えないので、自転車には乗れないと言っていた。

 

その何年後かに、四阪島へ行った。

船賃は20円と、格別に安かった。

島と地方(じかた)との往来は、船しかない。

普通の道ならタダで通れるのと同じなんだ、と説明された。

 

春の連休頃で、島の至る所でアカシア(ニセアカシア)の花が満開。

島全体がハチミツの甘い香りに包まれている感じだった。

 

 

次のページでは、明治末期に焦点を置いた

「四阪島煙害反対運動の記録」を書き留めておきます。


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100年前の煙害事件−1

2024年11月16日 | 100年前の煙害事件

四阪島煙害事件

はじめに

中学校の同級会で今治に行った時、眺めた燧灘。

「煙突が無くなった四阪島」が見えた。

あの島にあった精錬所が、日本の近代化の原動力になったことなど

知らない人も多いだろうなと思いながら、眺めていた。

 

50年余り前、今治市の「市制50周年記念事業」で刊行した『新今治市誌』には

「公害」の項目があり、掲載されているページをそのまま載せます。

 

実はこの項目、当時、編纂を手伝っていた私が「原稿を書いてもいい」と許可を得て、資料集めをやっていました。

しかし、どんなに頑張ってもまとめることができず、放り出したら、編纂責任者様が、あっという間に成文化していたもの。

知識と経験が豊富な方ではあったけど、明治生まれはすごいです!

 

一方、私の伯父(明治中頃生まれ)は、桜井で生まれ育ち、煙害被害をまともに経験。

明治43年10月、農商務大臣が視察に来た際は、父親と蓑笠腰弁当で沿道に駆けつけたとか。

本章には、次の記述あり。

 

農商務大臣は、農商務省の秘書官や枝師・それに知事・農事試験場長・警察部長などをひきつれ、3人びきの立派な人力車で通る大臣を、浴道の農民は地にひれ伏して迎えたという。

 

当時の報道を見ると、エネルギーがすごいと思った。

でも、集合した農民の数ではかなりの誇張も感じた。

「あの場所に何千人も集まれないのでは?」と伯父に聞いたら

「新聞の記事はそんな風に書くもんだ」とのこと。

 

『市誌』に引用されている部分、脚色されたドキュメンタリーかも知れないなあ。

でも現在の大企業の発展にも繋がる田舎での先人の足跡

興味深いものなので、お暇な方はご覧下さい。


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