『四阪島煙害ニ関スル綴』
当事者だった農民のメモ
明治中頃生まれの伯父は、煙害問題に関する書類をまとめていたので
コピーさせてもらいました(50年以上前のこと)
賠償金などの数字・交渉契約者の氏名など(これがメインかも?)は省き、
文章の部分だけをここに載せます
『書類の綴』で、「はじめに」にあたる「煙害問題の沿革」の部分、
ざっくりいうと、以下。
・精錬所からの煙害が初めて問題になったのは、明治25~6年の頃。
当時、精錬所は新居浜町にあった
・政府は、被害防止のため精錬所を離島である四阪島に移すことを命じた
・鉱山主はその命令に基き、明治37年、移転を実行
しかしその結果、硫煙がまん延し、問題は一層重大化した
・明治41年、知事と鉱業主から農商務大臣に申請して、調査を行った
・明治42~3年頃、被害甚大
数千の農民が連署して、貴・衆両院に請願書を提出
・明治43年10月、大浦農商務大臣の煙害地視察に来る
・農商務局長、知事の斡旋により、ようやく協調が進められた。
大臣帰京の直後、官邸にて当局と知事列席のもと、農・鉱代表者の協議会を開催。
・同11月9日、初めて円満な賠償契約が成立。
契約期間は3ヶ年とし、3年ごとの更改は、知事の斡旋により行う慣例。
・昭和12年3月23日で第10回の更改である。
・一方、鉱業主は硫害の除去の工夫を重ねてきた。
ペテルゼン式硫酸製造工場を併設し、排煙中の硫黄の70%を処理できるようになったので、硫煙の被害は著しく減少できた。
・昭和14年12月4日に契約された第11回では、
煙害なきものと認め、賠償金は廃止された。
-----------------ここから『四阪島煙害ニ関スル綴』の文書
煙害問題の沿革
愛媛県における精錬所煙害問題が初めて世上の注意を惹
きたるは明治二十五・六年の頃にして当時排煙に依る被害甚だしき
により被害農民より鉱業主に対し除害方に関し交渉を重
ねたるも鉱業主は最初鉱業上の被害に非ずと主張し之に應
ずるの色なかりき。後に至り鉱業上の被害なることを承認したるも
賠償並に煙害防止に関し農民側との間に協定調うに至らざりし
ものなり。
当時精錬所は本県新居浜町に在りしが、その後大阪鉱山監督
署は被害防止のため精錬所を瀬戸内海の一離島なる四阪
島に移すべきことを命じ、鉱山主はその命令に基き、明治
三十七年移転を実行セリ。しかるに其の結果却って硫煙の瀰漫
区域を拡大し、問題は一層重大化するに至れり。依って県は
被害調査を行い、又其の調査に基きて、農・鉱両者の協調に尽力
せしも其の功なく益々事態の紛糾を見るに至れり。
茲に於て遂に明治四十一年に至り知事及鉱業主より農商務大
臣に申請して農商務省の調査を煩はすことゝなれり。
然るに煙害は依然激甚なるを以て農民は激昂して止まず
屡々不穏の事態をすら惹起せり。明治四十二・三年頃には数千
の農民連署して両度に亘り貴・衆両院に救済に関し請願
書を提出せることあり。第二十五議会に於ては鉱煙毒被
害に関する質問提出せられ、之に対する政府の答弁書の
同附を見たり。次いで明治四十三年十月大浦農商務大臣
の煙害地視察を見るに至れり。
かかる間に豫てより調停に腐心せる下岡農商務局長、伊沢
知事等の斡旋功を奏し、漸く農・鉱両者の間に協調の
機熟し、大臣帰京の後直ちに官邸に於て農商務当局及
知事列席のもとに両代表者の協議会を開きたる結果、十一月九日
に至り、多年紛糾を重ねたる両者の間に始めて円満なる賠
償契約の成立を見たり。 仝契約は賠償金に関する規定と
焼鉱の量的並に季節的制限に関する規定とを主たる内
容とするものにして、契約期間は三ヶ年なり。爾来契約は両
三年ごとに更改せられ、その都度知事の斡旋によりて行はるゝ
慣例にして今回は第十回の契約更改期に相当せり。
而して右の契約によりて年々鉱業主より被害民に対し賠償金
を交付する外、大正二年以来農林業奨励のため一定の寄付
をなし更に大正八年以来思想善導其の他公益の目的のため
に一定の寄附をなすを例とし、かくて賠償契約に基づき鉱業主
より被害民に交付する総金額は年々多きは三十五万円
少なきも一六・七万円に達し、最近三ヶ年の平均額は十七万六千余
円なり。
一方鉱業主に於ては常に硫害の除去に対し工夫を重ね来り
たるが数年前よりペテルゼン式硫酸製造工場を併設したる
結果、現在排煙中の硫黄の七十パーセントを処理し
うる域に達し、従前に比し硫煙の被害著しく減少する
に至れり
右は煙害賠償協議会議事録の付録の昭和十二年三月二十三日
(第十回)迄の沿革の大要である。
第十一回は、昭和十四年十二月四日に契約されたが、賠償金に就ては既にペテルゼン式硫酸製造工場を併設し十四年七月には中和工場完成により煙害なきものと認め賠償金は廃止された。
(コピー終り)