kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

光源氏52歳、『源氏物語』から姿を消す

2025年02月08日 | 古典聞きかじり

「幻の巻」 2024年12月22日放送分

(録音している講義を聞きながら、私がとったメモ)

 

生前の光源氏の最後の姿が描かれ、52歳とされる。


光源氏は、紫の上が亡くなった深い悲しみの中、女房(召人・愛人)を話し相手に、後悔と懺悔の日々を送っている。

「私は、この上なく幸運と素晴らしさを持って生まれてきたが、自分ほど苦しんだ人間はいない」と、人生を述べている。

(本人が誰よりも苦しんでいるからこそ、苦しい人生を生きている人に希望を与えることができる。
だから『源氏物語』も長年にわたって、広く愛読されている…、だって🤔)

そして、四季折々の風物に触れながら紫の上を追悼している。

ここでは、神無月の場面で光源氏の悲しみに触れよう。


神無月はいつも時雨がちであるが、私の袖が濡れているのは雨のためではない(涙のせいだ)。
ふと空を見上げると、雁が群れになって列を乱さず空を飛んでいく。その姿を見て歌を口ずさんだ。

大空をかよふまぼろし 夢にだに見えこぬ魂(たま)の 行く方たづねよ

訳:大空を自由に行き交う幻術士よ 夢にさえ姿の見えないあの人の魂の行方を捜しておくれ

追加説明:「まぼろし」は、魔法・妖術のこと。魔法使いも意味する。

長恨歌では、楊貴妃を失って悲しみに沈んでいた玄宗皇帝のために、楊貴妃の魂のありかを幻術士が突き止めた。

幻術士のように自由に空を飛んでいる雁よ、紫の上の魂の行方を尋ねておくれ。


さて光源氏は、紫の上から受け取っていた手紙を処分する。
たくさんあったが、なかでも27年前、須磨に流され生き別れとなった時のものには悲しい思い出がこもっている大切な宝物で、束にしてあった。

それらの手紙を結い合わせたのは光源氏自身であるが、そのことは忘れていた。
墨痕鮮やかな筆跡は素晴らしく、千歳(ちとせ)の形見にでもしたいほど見事な筆跡だった。

その手紙の束に、次の歌を書き付けた。

かきつめて 見るもかなしき藻塩草 おなじ雲居の煙とをなれ

訳:紫の上が書いた手紙の束、見ると悲しみは増すばかり。
手紙も、紫の上と同じ空の、煙となれ

・藻塩草は、掻き集めて潮水を注ぐことから、「書く」の掛詞

・雲居は、雲があるところで、高い所、空の意味。

光源氏は手紙の束を破り、親しい女房達に、目の前で焼かせた。


自分が大切にしていた手紙という宝物を放棄することで、来世での宝物、極楽往生の獲得を目指すという発想。

光源氏は、この世での名誉や地位、紫の上への執着をも捨てて出家する。

大晦日には、6歳の匂宮(光源氏の孫)の元気な姿が描かれ、主役の交代となる。光源氏は『源氏物語』から姿を消す。

 

なぜ姿を消したかというと
・光源氏はこれから宗教の世界で生きていくことになる
・出家した人の心の旅路は王朝物語では書かない
 なぜならば物語は、男と女の恋愛を通して、人間の生きる喜びや悲しみを探求する文学だったから
・出家した人の内面が文学作品になるのは、中世の草庵文学の出現からである

    ******************


この回を聞いて、私にとっての宝物(亡き友人からの手紙の束)を廃棄しようと決めた。
和歌を書き添えるセンスはないので、小さな花束(今ならシクラメンで作れる)を載せ、きれいな包装紙に包んで、黄色のごみ袋に入れよう😥


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心おきなく過ごせる日

2025年02月06日 | 古典聞きかじり

2泊3日のショートステイで、夫は不在。
好き勝手に過ごしてます…。

・・・・・

ラジオで取り貯めしている『源氏物語』を聞き「分かった!」と思えた回は削除した。

「なるほど…」と思えた事柄を書き留めておきます。

・登場人物にはモデルがいた。特定の一人とかではなく、何人かの特性を集めて「登場人物」を作った。

だから、実際に存在した人物である(腑に落ちないけど)

理想の人として登場させたのが「光源氏」や「紫の上」であるが
逆に、とてつもなく酷い人(見目形:みめかたち)もいた。

・貴族社会を土台に、四季折々の自然や文化などを通して人物の行動・沙汰などでの「男と女の愛」を書いた。

その虚構(フィクション)や非現実の中に、人間性の真実がある(私には?)

・・・・・

『源氏物語』の「いづれの御時にか」という書き出しは、『古今和歌集』に出てくる伊勢の歌集、『伊勢集』の書き出しの文章を、ほぼそのまま利用している。

・・・・・

「いづれの御時にか」とあるが、この帝「桐壺帝」は、実在した醍醐天皇をモデルにしている。

醍醐天皇には妃が 3 人、女御が 5 人、更衣が 19 人、計27 人もの后妃がいた。
(女御は中宮に次ぐ立場で、更衣は女御に次ぐ立場)

「女御、更衣あまたさぶらひたまひける」とある桐壺帝は、最愛の后(桐壺更衣=光源氏の母)を亡くした後、桐壺更衣に生き写しの女性を見つけて、后に迎えた。帝の女御子(皇女)と同じくらい若い方。
この帝と藤壺の「第十皇子」として生まれるのが、後の冷泉帝(実の父は光源氏)

皇女も合わせると、何人の子がいたかは、本筋から離れる計算。

・・・・・

ところで、『源氏物語』では、「天皇の子ではない人が天皇になった」のがメインストーリーなので、戦前には『不敬の書』と扱われた時期もあったとか。
トランプさんなら、真っ先に大統領令で焚書させると思う…。

(明日もヒマなので、続きをまた😅)


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「椎本」の巻

2025年01月20日 | 古典聞きかじり

八の宮が二人の娘の行く末を心配しながら死去する場面だった。

(八の宮は桐壺帝の第八皇子。源氏が第二皇子。そして冷泉帝は、第十皇子)


八の宮は、政権の中枢から外され、北の方は2番目の姫を出産後亡くなり

都の家は焼失したので、2人の娘を連れて、宇治の山荘で暮らしていた。

仏道修行に励み、宇治山の阿闍梨と親しくなった。

 

八の宮は自分の命の終わりを予感し、阿闍梨の山寺に籠ることにした。
静かな環境で心ゆくまで念仏を唱えようと思った。
その前に、2人の娘たちに向かって遺言を語る。

唯一の保護者である私も、この世を去ることになる。信用のおける後見人もいない。
しかし、軽薄な心で想い寄ってくる男に頼って、さ迷い出るようなことはするな。

自分たちは、前世からの宿命である「不幸な定め」のもとに生まれてきた人間なのだ、と分かって欲しい。この宇治の山小屋で一生を終えて欲しい。

(八の宮の遺言は、薫のように信用のおける男であれば、その誘いを受けても良い。けれども好色な男たちの甘い言葉に騙されてはならないというものだったが、「薫ならば結婚しても良い」とは明言しなかった)

父親としてまことに無責任な言葉にも聞こえるが、不幸な一生を生きてきた八の宮は、このように言い残すしかなかった。

そして、阿闍梨の山寺にこもって念仏を唱えていたが、体調がすぐれず、逝去することになる。
ひと目、娘たちに会いたいという八の宮に、阿闍梨は説得した。

姫君たちのことは、あなたがいくら心配しても、どうすることもできない。
どうして思い嘆くことがありましょう。
頭の中から、娘さんたちの存在を消してしまいなさい。
人間には皆、その人その人が持って生まれた宿世というものがあります。
親がどんなに心配しても、娘の人生がよくなるものではなく
親が全く顧みなくても、娘が幸せになることもあるでしょう。
親の側の思いと、子どもたちの幸不幸は、全く別次元のものなのです。
余計な心配などなさらない方がよろしいです。

娘たちだけでなく、あらゆるものへの執着を捨て去りなさい。
この山寺で、人生の最後の瞬間を心静かに迎えなさい。

宗教者である阿闍梨は、このように、正しい臨終へと導いていった。

そして葬儀の前に、亡き父親の亡骸と対面したいという姫君たちの願いも

厳しく拒絶した。宗教の世界の厳しさを感じます。

その厳しさに耐えられなかった父娘の人間的な弱さとが浮かび上がりますが、その弱さこそが人間にとって最も大切な優しさ、思いやりでもあるのです。

 

以上、ラジオから聞こえてきたことをそのまま書き留めたが、腑に落ちない部分もある。

紫式部は、どうして、このように主張したのかなあ🤔


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大体わかった『源氏物語』

2025年01月11日 | 古典聞きかじり


『源氏物語』は、日本文学さらには日本文化の中心の中心を占めているとのこと。
「読んでみたい」と思いながら、ずっと読めない(前に進まない)ままだった。

今年度のNHKラジオ「古典講読」は『源氏物語』だったので、ゆるゆる聞くうちに、その輪郭像と、私には読めなかった理由も分かった気がした。

最初につまづいたのは、和歌が分からなかったから。
枕詞は無視するとして、掛詞・縁語での意味の広がりが理解できない。

当時の「物語」では、具体的に表現しない事柄がある
・心のうち(心理描写)は、直接的には書かない。和歌や自然描写で推し量る
・実事(男女の交わり)は書かない
・人の死をあらわに書かない

・「こころのうち」を表現したものでは、のちの『方丈記』『徒然草』などの随筆もあるが、
直接的で詳細な心理描写を書くようになったのは、西洋文学の影響を受けた近代以降のこと。『こころ』『人間失格』など。

・「実事は書かない」については、和歌の交換・行動で理解できるらしい。
光源氏と玉鬘に実事があったかどうかが、後の研究者で議論されたらしいが、架空の人物同士、どうでもいいことじゃないかと、私は思った。

・本文がない巻として有名な『雲隠の巻』
紫式部は、紫の上が死の世界へと旅立った「御法の巻」で、これ以上はないほどの深い悲しみを光源氏に感じさせた。だから光源氏の死の意味を悲しむ人などいない。
そこで光源氏の死の事実は書かれずに雲隠という巻の名前だけが残った、という本居宣長の説に講師は心が惹かれる、とのことだった。

以上「古典講読」を聞いての中間メモでした


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登場人物の年齢

2024年06月05日 | 古典聞きかじり
古典講読「名場面でつづる『源氏物語』」、楽しく聞いている。
大勢の登場人物、中地半端ながらかなり知っているけど、年齢は気にしなかった。
ところが前々回の放送で「明日の命も知れぬ老女の尼・40歳が、10歳の孫をたしなめる情景」に驚いたので、年齢にも気を配ってみたい(年齢表記はすべて数え年)。

5月末の放送は、「若紫」だった。
わらわ病にかかった光源氏が、治療のため北山にいる老賢人を訪ねていく途中、ある僧房(住まい)を垣間見て、可憐な少女(10歳)に惹かれてしまう。

少女は伏籠(ふせご)で飼っていた雀を、仲間の童女が逃がしたと泣いて、お経を読んでいた尼(祖母)に訴えに行く、
尼(40歳)は、自分は明日をも知れぬ命なのに、もっと大人らしくなってくれと諭す。
母を亡くしていた少女は、祖母に育てられていたのだが、その祖母も亡くなった。
意地悪な継母に育てられそうになるのを知った光源氏は、少女を盗み出し、自分で理想の女性に育てていく。のちの紫の上。

少女を盗み出した当時の光源氏は18歳(研究者の調べによる)
参考までに、元服する12歳までの経緯を。

光源氏は母親がなくなり、祖母も亡くなったので、3歳の頃から桐壺帝が引き取って
宮中の女御・更衣などたくさんいる中で、大きくなった。
周りの人から、桐壺帝の妃である藤壺(14歳で入内した)は「あなたの母君に生き写し」と言われ、藤壺を恋い慕うようになる。

光源氏は12歳で元服し、葵上を正妻にする。
葵上は4歳年上、父帝の妃・藤壺は5歳年上だった。


光源氏17歳の時。
仲間うちの自慢話、「雨夜の品定め」で、頭中将が、人間を上中下の三つの品(ランク)に分けた場合に、交際して面白い女性は中の品に多いというのを聞いた折、
乳母の見舞いに行く途中、光源氏はそのような女を見つけた。
夕顔(干瓢の花で、上等な花ではない)の咲く家に住んでいる女性。
彼女を静かな廃寺に連れ出し関係を持っていたら、そのころ交際していた六条御息所の怨霊が出て、夕顔は死んでしまう…。

この後の登場人物も、年齢にこだわった(私流です💦)メモを追加する予定です。

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旅の日

2024年05月16日 | 古典聞きかじり
広告は、60日間投稿が無い場合に表示されます
の表示が出たので、とりあえず、投稿します(-_-;)

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5月16日は「旅の日」とラジオで聞いた。

10年近く前、ラジオの『古典講読』で『奥の細道~名句でたどるみちのくの旅』を聞いていたのでメモを少し。


松尾芭蕉が「おくのほそ道」への旅に出た日、元禄2年3月27日(太陽暦で1689年5月16日)にちなみ
「日本旅のペンクラブ」が5月16日を「旅の日」と決めたそうだ。
(同会の会長は西行、副会長は松尾芭蕉とあった!)

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」の有名な一文で始まる『おくのほそ道』

旅は、元禄2年3月27日に江戸を出発。
芭蕉は46歳、曽良は5歳下。
隅田川から日光街道を北へ進み、奥州(日光、松島、平泉)を通って出羽・北陸を旅した。
全行程は約600里(約2400km)。

芭蕉は体が弱かったため困難も多かった。
敦賀を経て、8月下旬大垣で旅を終えた。

そして、伊勢に向けて出発する。
生地の伊賀上野を経て大坂で過ごし『猿蓑』を完成させた。

その後、江戸に戻り、奥州・出羽・北陸の旅から3年後になってから
『おくのほそ道』の執筆を開始。
元禄7年4月に完成。

その後、伊賀上野に帰郷。奈良を経て大坂の旅先で病臥し死去、51歳。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」は辞世の句とされている。

<ちょっと休憩>

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『うたたね』のまとめ

2023年08月07日 | 古典聞きかじり
ラジオ講座の『うたたね』は、前回(8月5日)が最終回だった。
講師の話の概略

テーマ(題材)は、阿仏尼の青春。
10代後半の出来事を、10年ほど後になってから、日記風にまとめた。

阿仏尼は30歳の頃、藤原為家がやっていた『源氏物語』を書き写す仕事を、手伝うようになる。
為家は『源氏物語』の青表紙本をまとめた藤原定家の子である。
その環境で『源氏物語』に一層詳しくなった時期に、『うたたね』を書いたと思われる。

『うたたね』は正確な自分史ではなく、うたた寝(居眠り)で見た「夢の中の私」物語。
だから、誇張・脚色・創作などで、物語を膨らませることも必要だった。

『うたたね』は、為家に読んでもらうために書いたのではないか?
成人した子もいる60歳くらいの為家は、30歳も年下の阿仏尼と熱烈な恋をして
少なくとも男の子が3人生まれている。

当時は、鎌倉時代中期。
為家没後に、為家が長男(正妻の子)に譲った所領を、わが子に相続させるため
鎌倉に下った旅日記が、有名な『十六夜日記』。
次回からは、その『十六夜日記』の講読になる。

ーーーーーーーーー
ここからは、私の感想。
『うたたね』を聞いていると、「どうして?」と納得しかねることが
たくさん出てきた。
例えば、当時の貴族の旅は、馬か籠。
芭蕉が、曾良と「奥の細道」を歩いた時代とは違う。
その他にも腑に落ちないこと続出だったが、
「居眠りで見た夢物語」と分かったので、納得😉

ただ、富士山が、頂から噴煙を上げていたことは、実際😃

ふと思ったのだが、阿仏尼は与謝野晶子みたいな人だったかな?
『源氏物語』にも詳しい。
行動力あふれる人生で、出産は11回とか。
子孫には有名人も多い。
ただ…63歳で生涯を終えていた😔

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『うたたね』のメモ

2023年07月28日 | 古典聞きかじり
古典講読日記文学をよむ阿仏尼『うたたね』第16回 を聞いて

富士の煙を見ながら過ごした日々

『うたたね』の作者・阿仏尼は、養父の勧めで
彼の地所である遠江(とうとうみ)の浜松まで旅をし
そこで暮らすことになる。
(結果的には、1か月ほどで都に戻ってしまう)

当時の旅は、輿(こし)か馬で、旅の主が歩くことはない。
養父は、養女である阿仏尼をお姫様のように扱っている。
どうしてなのかは分からないまま
ラジオで聞いた講師の話を、聞いたままメモ書き。
( kanko の文章ではない)

先ずは、前半。

住まいからは、真っ白な雪が積もっている富士山が見えた。
その白さが、作者の孤独感と寂寥感を高めた。

頂からは、古今和歌集で有名な「富士の煙」が立ち昇っていた。
噴煙が風に吹かれてなびき、やがて行方も知れず消えてゆく

その光景を眺めていた作者(阿仏尼)の脳裏には、いつもよぎる歌があった。

風になびく富士の煙の空に消えて 行方もしらぬわが思かな
                          西行法師
 口語訳:富士の煙のように、行方もわからない私の思い(心)であることよ

もう一首

富士の嶺の煙もなほぞ立ちのぼる うへなきものはおもひなりけり
                            藤原家隆
 口語訳:嶺よりも高く立ち昇る富士の煙。それよりも高いのはわたしの恋の火だ。

西行は実際に自分の目で見て、はかなさを歌っている
家隆は、想像で富士の煙を思いを想像で歌ったのだろう

私(阿仏尼)は浜松に来て、毎日富士の煙を見ながら暮らした
そして思ったことがある
今、私の心のなかでチョロチョロとくすぶっているだけの恋の火は、
かつて激しく燃え上がっていたことがある。
もしかしたらもう一度、私の心の火は燃え上がるかもしれない。
その高さは、富士の煙より高いであろう

殆どの歌人が見て圧倒される富士の煙を、自分よりも大したことはないと思うのは
我ながら恐ろしいことである。

富士山の標高は高いけれど、私の心のたけ(自己評価)も、それ以上に高いのである。

以下、私(kanko) の感想
自意識過剰の姫君が、自己主張を貫き
さらに年老いても権利を獲得していく生き方、
おおいに興味をそそられるので、
放送での話を追加していきます。

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老いらくの恋

2023年06月01日 | 古典聞きかじり
ずっと前から聞いているNHKラジオ『古典講読』
今年のテーマは「日記文学をよむ」阿仏尼『うたたね』

鎌倉時代中期の女流歌人・阿仏尼(あぶつに)は
晩年に書いた『十六夜日記』が有名だが
30歳頃に書き上げた、10代後半での失恋体験『うたたね』も
魅力的な作品だとのこと。

前回の放送は、30歳の頃の、30歳年上の藤原為家(藤原定家の子)との
熱烈な恋について、残された和歌からの解説だった。

そもそも阿仏尼は、皇族の安嘉門院(あんかもんいん)で宮仕えしていたが
10代終わりに恋に破れ、出奔して尼になり
尼寺で落ち着いた日々を送っていたのだ。

それなのになぜ、60歳の藤原為家と交流があったのかは解説なし。
(『古典講読』は、事実関係の解明ではなく、心の動きを味わうことが目的)

勅撰の『風雅和歌集』に載った2人の和歌から、心のうちを覗いて(想像して)いた。

為家の老いらくの恋は
『源氏物語』を読み込んで自分のものにしている阿仏尼の「才能に魅了された」ことが
見て取れる。
対して阿仏尼の方は冷静で、30歳年下なのに
母親のようにやさしく、受け止めている。

為家には正室、前妻との間に何人もの子供がいた。
それでも為家と結ばれた阿仏尼は、
道ならぬ関係でありながら結ばれた藤壺と光源氏の2人に
自分と為家を重ねていたのかもしれない(と想像が膨らむ)

のちに阿仏尼は、冷泉為相(れいぜい ためすけ)らを産んだ。
冷泉為相は「冷泉家」の祖である🤔


折も折、こんなニュースを見た。
「83歳のアル・パチーノ(俳優)に第4子が誕生予定! 53歳年下の恋人が妊娠」

その俳優を私は知らないが、二人は一緒にいるのが楽しかったんだろうね…😒

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防人(さきもり)の歌

2023年03月19日 | 古典聞きかじり
NHKラジオの、古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」も3月いっぱいで終わり。
3月18日放送で、前回の「防人の歌」のおさらいがあった。

断片的なメモを。
(前回あった「防人」については、後日)

「防人」というのは、諸国に設置された軍団に所属して、日ごろから訓練されていた兵士。
いつかは防人に派遣されることもあると予想していたはず。
太平洋戦争時に、赤紙で突然徴集された労働者や農民のように考えると、誤解につながる。

また、父母を思う歌が多いので少年兵のように思われるかもしれないが
実は正丁とよばれる20~60歳の成年男子。

諸国から派遣された防人は、難波(なにわ)に集合し、船で筑紫(ちくし)に向かう。
出発にあたって、「防人の歌」を提出させたものと思われる。

歌の内容は、あらかじめ、こういう風に歌うものだと方向付けがされており
「いかなる犠牲を払っても天皇に忠誠を尽くす」という「誓い」で
朝廷あるいは天皇に奉られたものだった。

大伴家持は、防人を派遣する役職についていたので
それらの文書の中から、拙劣で水準に達しないと思われるものは除いて
『万葉集』に張り付けた。

(筑紫までの長い道中での防人の心を、三十一文字に残したものではないってこと)

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