kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

登場人物の年齢

2024年06月05日 | 古典聞きかじり
古典講読「名場面でつづる『源氏物語』」、楽しく聞いている。
大勢の登場人物、中地半端ながらかなり知っているけど、年齢は気にしなかった。
ところが前々回の放送で「明日の命も知れぬ老女の尼・40歳が、10歳の孫をたしなめる情景」に驚いたので、年齢にも気を配ってみたい(年齢表記はすべて数え年)。

5月末の放送は、「若紫」だった。
わらわ病にかかった光源氏が、治療のため北山にいる老賢人を訪ねていく途中、ある僧房(住まい)を垣間見て、可憐な少女(10歳)に惹かれてしまう。

少女は伏籠(ふせご)で飼っていた雀を、仲間の童女が逃がしたと泣いて、お経を読んでいた尼(祖母)に訴えに行く、
尼(40歳)は、自分は明日をも知れぬ命なのに、もっと大人らしくなってくれと諭す。
母を亡くしていた少女は、祖母に育てられていたのだが、その祖母も亡くなった。
意地悪な継母に育てられそうになるのを知った光源氏は、少女を盗み出し、自分で理想の女性に育てていく。のちの紫の上。

少女を盗み出した当時の光源氏は18歳(研究者の調べによる)
参考までに、元服する12歳までの経緯を。

光源氏は母親がなくなり、祖母も亡くなったので、3歳の頃から桐壺帝が引き取って
宮中の女御・更衣などたくさんいる中で、大きくなった。
周りの人から、桐壺帝の妃である藤壺(14歳で入内した)は「あなたの母君に生き写し」と言われ、藤壺を恋い慕うようになる。

光源氏は12歳で元服し、葵上を正妻にする。
葵上は4歳年上、父帝の妃・藤壺は5歳年上だった。


光源氏17歳の時。
仲間うちの自慢話、「雨夜の品定め」で、頭中将が、人間を上中下の三つの品(ランク)に分けた場合に、交際して面白い女性は中の品に多いというのを聞いた折、
乳母の見舞いに行く途中、光源氏はそのような女を見つけた。
夕顔(干瓢の花で、上等な花ではない)の咲く家に住んでいる女性。
彼女を静かな廃寺に連れ出し関係を持っていたら、そのころ交際していた六条御息所の怨霊が出て、夕顔は死んでしまう…。

この後の登場人物も、年齢にこだわった(私流です💦)メモを追加する予定です。

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旅の日

2024年05月16日 | 古典聞きかじり
広告は、60日間投稿が無い場合に表示されます
の表示が出たので、とりあえず、投稿します(-_-;)

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5月16日は「旅の日」とラジオで聞いた。

10年近く前、ラジオの『古典講読』で『奥の細道~名句でたどるみちのくの旅』を聞いていたのでメモを少し。


松尾芭蕉が「おくのほそ道」への旅に出た日、元禄2年3月27日(太陽暦で1689年5月16日)にちなみ
「日本旅のペンクラブ」が5月16日を「旅の日」と決めたそうだ。
(同会の会長は西行、副会長は松尾芭蕉とあった!)

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」の有名な一文で始まる『おくのほそ道』

旅は、元禄2年3月27日に江戸を出発。
芭蕉は46歳、曽良は5歳下。
隅田川から日光街道を北へ進み、奥州(日光、松島、平泉)を通って出羽・北陸を旅した。
全行程は約600里(約2400km)。

芭蕉は体が弱かったため困難も多かった。
敦賀を経て、8月下旬大垣で旅を終えた。

そして、伊勢に向けて出発する。
生地の伊賀上野を経て大坂で過ごし『猿蓑』を完成させた。

その後、江戸に戻り、奥州・出羽・北陸の旅から3年後になってから
『おくのほそ道』の執筆を開始。
元禄7年4月に完成。

その後、伊賀上野に帰郷。奈良を経て大坂の旅先で病臥し死去、51歳。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」は辞世の句とされている。

<ちょっと休憩>

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『うたたね』のまとめ

2023年08月07日 | 古典聞きかじり
ラジオ講座の『うたたね』は、前回(8月5日)が最終回だった。
講師の話の概略

テーマ(題材)は、阿仏尼の青春。
10代後半の出来事を、10年ほど後になってから、日記風にまとめた。

阿仏尼は30歳の頃、藤原為家がやっていた『源氏物語』を書き写す仕事を、手伝うようになる。
為家は『源氏物語』の青表紙本をまとめた藤原定家の子である。
その環境で『源氏物語』に一層詳しくなった時期に、『うたたね』を書いたと思われる。

『うたたね』は正確な自分史ではなく、うたた寝(居眠り)で見た「夢の中の私」物語。
だから、誇張・脚色・創作などで、物語を膨らませることも必要だった。

『うたたね』は、為家に読んでもらうために書いたのではないか?
成人した子もいる60歳くらいの為家は、30歳も年下の阿仏尼と熱烈な恋をして
少なくとも男の子が3人生まれている。

当時は、鎌倉時代中期。
為家没後に、為家が長男(正妻の子)に譲った所領を、わが子に相続させるため
鎌倉に下った旅日記が、有名な『十六夜日記』。
次回からは、その『十六夜日記』の講読になる。

ーーーーーーーーー
ここからは、私の感想。
『うたたね』を聞いていると、「どうして?」と納得しかねることが
たくさん出てきた。
例えば、当時の貴族の旅は、馬か籠。
芭蕉が、曾良と「奥の細道」を歩いた時代とは違う。
その他にも腑に落ちないこと続出だったが、
「居眠りで見た夢物語」と分かったので、納得😉

ただ、富士山が、頂から噴煙を上げていたことは、実際😃

ふと思ったのだが、阿仏尼は与謝野晶子みたいな人だったかな?
『源氏物語』にも詳しい。
行動力あふれる人生で、出産は11回とか。
子孫には有名人も多い。
ただ…63歳で生涯を終えていた😔

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『うたたね』のメモ

2023年07月28日 | 古典聞きかじり
古典講読日記文学をよむ阿仏尼『うたたね』第16回 を聞いて

富士の煙を見ながら過ごした日々

『うたたね』の作者・阿仏尼は、養父の勧めで
彼の地所である遠江(とうとうみ)の浜松まで旅をし
そこで暮らすことになる。
(結果的には、1か月ほどで都に戻ってしまう)

当時の旅は、輿(こし)か馬で、旅の主が歩くことはない。
養父は、養女である阿仏尼をお姫様のように扱っている。
どうしてなのかは分からないまま
ラジオで聞いた講師の話を、聞いたままメモ書き。
( kanko の文章ではない)

先ずは、前半。

住まいからは、真っ白な雪が積もっている富士山が見えた。
その白さが、作者の孤独感と寂寥感を高めた。

頂からは、古今和歌集で有名な「富士の煙」が立ち昇っていた。
噴煙が風に吹かれてなびき、やがて行方も知れず消えてゆく

その光景を眺めていた作者(阿仏尼)の脳裏には、いつもよぎる歌があった。

風になびく富士の煙の空に消えて 行方もしらぬわが思かな
                          西行法師
 口語訳:富士の煙のように、行方もわからない私の思い(心)であることよ

もう一首

富士の嶺の煙もなほぞ立ちのぼる うへなきものはおもひなりけり
                            藤原家隆
 口語訳:嶺よりも高く立ち昇る富士の煙。それよりも高いのはわたしの恋の火だ。

西行は実際に自分の目で見て、はかなさを歌っている
家隆は、想像で富士の煙を思いを想像で歌ったのだろう

私(阿仏尼)は浜松に来て、毎日富士の煙を見ながら暮らした
そして思ったことがある
今、私の心のなかでチョロチョロとくすぶっているだけの恋の火は、
かつて激しく燃え上がっていたことがある。
もしかしたらもう一度、私の心の火は燃え上がるかもしれない。
その高さは、富士の煙より高いであろう

殆どの歌人が見て圧倒される富士の煙を、自分よりも大したことはないと思うのは
我ながら恐ろしいことである。

富士山の標高は高いけれど、私の心のたけ(自己評価)も、それ以上に高いのである。

以下、私(kanko) の感想
自意識過剰の姫君が、自己主張を貫き
さらに年老いても権利を獲得していく生き方、
おおいに興味をそそられるので、
放送での話を追加していきます。

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老いらくの恋

2023年06月01日 | 古典聞きかじり
ずっと前から聞いているNHKラジオ『古典講読』
今年のテーマは「日記文学をよむ」阿仏尼『うたたね』

鎌倉時代中期の女流歌人・阿仏尼(あぶつに)は
晩年に書いた『十六夜日記』が有名だが
30歳頃に書き上げた、10代後半での失恋体験『うたたね』も
魅力的な作品だとのこと。

前回の放送は、30歳の頃の、30歳年上の藤原為家(藤原定家の子)との
熱烈な恋について、残された和歌からの解説だった。

そもそも阿仏尼は、皇族の安嘉門院(あんかもんいん)で宮仕えしていたが
10代終わりに恋に破れ、出奔して尼になり
尼寺で落ち着いた日々を送っていたのだ。

それなのになぜ、60歳の藤原為家と交流があったのかは解説なし。
(『古典講読』は、事実関係の解明ではなく、心の動きを味わうことが目的)

勅撰の『風雅和歌集』に載った2人の和歌から、心のうちを覗いて(想像して)いた。

為家の老いらくの恋は
『源氏物語』を読み込んで自分のものにしている阿仏尼の「才能に魅了された」ことが
見て取れる。
対して阿仏尼の方は冷静で、30歳年下なのに
母親のようにやさしく、受け止めている。

為家には正室、前妻との間に何人もの子供がいた。
それでも為家と結ばれた阿仏尼は、
道ならぬ関係でありながら結ばれた藤壺と光源氏の2人に
自分と為家を重ねていたのかもしれない(と想像が膨らむ)

のちに阿仏尼は、冷泉為相(れいぜい ためすけ)らを産んだ。
冷泉為相は「冷泉家」の祖である🤔


折も折、こんなニュースを見た。
「83歳のアル・パチーノ(俳優)に第4子が誕生予定! 53歳年下の恋人が妊娠」

その俳優を私は知らないが、二人は一緒にいるのが楽しかったんだろうね…😒

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防人(さきもり)の歌

2023年03月19日 | 古典聞きかじり
NHKラジオの、古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」も3月いっぱいで終わり。
3月18日放送で、前回の「防人の歌」のおさらいがあった。

断片的なメモを。
(前回あった「防人」については、後日)

「防人」というのは、諸国に設置された軍団に所属して、日ごろから訓練されていた兵士。
いつかは防人に派遣されることもあると予想していたはず。
太平洋戦争時に、赤紙で突然徴集された労働者や農民のように考えると、誤解につながる。

また、父母を思う歌が多いので少年兵のように思われるかもしれないが
実は正丁とよばれる20~60歳の成年男子。

諸国から派遣された防人は、難波(なにわ)に集合し、船で筑紫(ちくし)に向かう。
出発にあたって、「防人の歌」を提出させたものと思われる。

歌の内容は、あらかじめ、こういう風に歌うものだと方向付けがされており
「いかなる犠牲を払っても天皇に忠誠を尽くす」という「誓い」で
朝廷あるいは天皇に奉られたものだった。

大伴家持は、防人を派遣する役職についていたので
それらの文書の中から、拙劣で水準に達しないと思われるものは除いて
『万葉集』に張り付けた。

(筑紫までの長い道中での防人の心を、三十一文字に残したものではないってこと)

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孤独と悲しみと

2023年03月07日 | 古典聞きかじり
古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」第47回 を聞いてのメモ。

大伴家持(おおとものやかもち)の歌

うらうらに照れる春日にひばり上がり 心悲しも独し思へば

うららかな日差しの春の日、ひばりは空高く飛んでいる
ひとりで物思いにふけっている私の心は、悲しい


古文の教科書に出ている家持の歌。

この歌が「素晴らしい!」と言われるようになったのは、100年ほど前らしい。
『万葉集』は1200年余り前にできたので、この歌が「秀歌」と見なされてなかった期間は、非常に長い。

評価が高まったのは、明治以降で、日本の近代国家形態が成立した「近代」以降のこと。

「孤独の表現」を受け止められるのは、西洋文化が溶け込んだ後で「近代的な自我」を認識できるようになったから、だそうだ。


宮廷歌人は、天皇への「過大な期待」を並べ、それを称えた。
皇族や官僚の「長寿」を寿いだ。

しかしこの歌は、喜びの季節と躍動する生命の傍に置いた我が身の「淋しさ」を歌っている。

その淋しさに、共感する私たち。

「期待は失望の母」であり、「長寿を祝われる」のは「老いている」ことのあかし。
ほめたたえる言葉と裏腹の「現実」は、ただただ悲しい。

だから、1000年以上後の世に生きている私たちにも、理解できるのだと思う。

(家持の淋しさの原因は、政治的に抹殺される勢力側だったからですが…。
 またの折に…)

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懐かしいお名前

2023年01月31日 | 古典聞きかじり
「古典講読」の講師・鉄野昌弘さんが編者の一人だったので、
KADOKAWA『万葉集の基礎知識』を買った。
1年近く前のこと。
気になる項目を読んでいただけだったが、先日、ぼ~っと読んでいたら
懐かしいお名前があって、びっくり!

「五音と七音のリズム」(第1章の、第3節の、第2項)
(茶色の字が引用文)

五音と七音の句は、万葉集に載る歌の基本となっている。ではなぜこの二種類が基本となっているのか。『日本古典文学大辞典』の「和歌」の項目(担当は久保田淳)内の「声調」には、「和歌はいずれの歌体にせよ、五音と七音を基調とするが、なぜこの二種が選ばれたのかはいまだ十分説明されていない」と述べられている(1985年)
また、赤羽淑も、「和歌の韻律」において、「和歌における五七五七七という定型の成立は、わが国固有のものであるのか、中国詩型の影響によるものであるのか、それはいまだに解決を見ない難問である」と述べている(1993)。久保田淳・赤羽淑の掲出に導きを得て、諸説を掲げよう。


藤原定家を筆頭に、平安時代の和歌などの研究者であった赤羽淑さんは、家が近くだし、何かとご縁もあったので、親しく付き合っていた方なのだ!

で、本文の続き、どんな「説」が掲げられているかというと
日本固有とする説・本居宣長(18世紀末の国学者)

中国詩型の影響によるとする説
先進国である中国の「五言詩・七言詩」の句調に範をとった影響を排除することはできない(青木正児・1970年)

国語教育においては
文部省学習指導要領(2017年)
「古文や漢文を声に出して読むことで、心地よい響きやリズムを味わう」

結論として、筆者(廣川昌輝)は、愛略、以下のように締めくくっている。

「五音・七音のリズムの由来」という分からない点に拘泥するのではなく、「日本の古文・和歌」と「中国の漢文・漢詩」に共にある「五音・七音」の「ここちよい響きやリズム」を見出して感じ取ろう。日本が多くの文化を隣国中国から学んだことを理解し、子どもたちの教育においては、未来志向の文化交流を育もう。

以上、『万葉集の基礎知識』の下記ページより

 1、万葉集の内側 
  三、歌のかたちとくふう
 (2)五音と七音のリズム

ちょっとばかり専門的な文章を、端折って書き留めたので、分かりずらいかも…。
実際の本文を読んでくださると、正確ですが。

*****

話を戻して、赤羽淑さんのお宅にお邪魔した折には
たくさん写真を撮りました(庭の花です)
あの花の数々を紹介すれば
ブログが途切れることはないとも、考えているところ…💦

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焼き滅ぼさむ天の火

2023年01月30日 | 古典聞きかじり
君が行く道の長手(ながて)を繰り畳(たた)ね 焼き滅ぼさむ 天(あめ)の火もがも

<現代語訳>あなたが行く長い道のりを手繰り寄せて、
      焼き尽くしてしまう天の火がどうしても欲しいものだ

高校の教科書に出てくるので、よく知られている和歌だが、その背景は実に深い。

古くからの貴族の家柄にあった中臣宅守(なかとみの やかもり)は
宮中の下級女官・狭野茅上娘子(さのの ちがみの おとめ)を娶ったため
越前へ流罪となった。
刑の内容は「法華経を写し、七重の塔を造る」だった。

狭野娘子(さのの おとめ)が、
宅守(やかもり)の出発にあたって詠んだ和歌

奈良の平安京から越前までの遠い道のりを、たぐり寄せてたたんで
燃やしてしまうことができる天の火が欲しい!
(道が無くなれば、越前には行けないだろう)

これに答えて、宅守(やかもり)も和歌を返した。
2首から14首のまとまりで、計9回。
それらが『万葉集』に出ている。

宅守(やかもり)の罪は、宮中の女官を妻にしたこと。

宮中の女官は、たとえ下級であっても、天皇が妻にすることがあり得るので
「不敬罪」になった。

当時の刑法である「律(りょう)」は、唐のものを輸入し
そのまま使っていたので、実態に合わず、運用は恣意的だった。

天皇は、寛大な政(まつりごと)をするために
大赦を発したが、例外も多く
流罪になっていた宅守(やかもり)は、許されなかった。

宅守(やかもり)の流罪がいつ解けたかは不明だが
のちに都に戻った記録はある。
茅上娘子(ちがみのおとめ)については、記録がない。

*****
当時、天然痘が大流行していた。
政権の中枢にあった藤原不比等をはじめ
4人の息子も全員、天然痘で若死にしていた。

民衆も3人に1人は天然痘で亡くなったといわれる。

*****
天然痘の流行について
663年、日本が白村江で敗れた後も
新羅に対しては高圧的な態度を取り、朝貢を要求していた。
対等を主張する新羅と折り合わず、要求を受け入れさせるため
736年、「遣新羅使」を派遣するが、門前払いされた。

そのころ、新羅では天然痘が流行っていた。
使節団は病にかかり、暴風雨にも遭うなどで
多くの犠牲を払いながら1年半の歳月をかけて
737年、無駄足で都にたどり着いた。

使節団の帰国直後、都をはじめ、一般民衆にいたるまで天然痘が大流行した。
病を収めるには神仏に頼るしかない。
聖武天皇が、741年に「諸国国分寺建立事業」を始めた経緯。

*****
中臣宅守(なかとみの やかもり)
中臣一族は、古くからの貴族。
大化の改新で功のあった中臣鎌足は、死の前日、天皇から「藤原姓」を賜った。
中臣一族で藤原姓を名乗れたのは、不比等の一族だけ。
他の一族は、政治の要職には就けず、中臣姓のままで、神祇官として祭祀のみを担当していた。

ー----
以上、古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」(40)
を聞いての覚え書き。
2023年3月11日まで「聞き逃しサービス」があります。

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歌詞を見なくても歌えた

2023年01月14日 | 古典聞きかじり
幼くて、まだ字は読めなかった頃の孫が
TVアニメで、終わりに流れるアニメソングを
流暢に歌っているのを見て、びっくりした!

TV画面の下に、歌詞の字幕は出ているが
テンポが速くて、すぐ消えてしまう。
でも、孫に字は関係ない。
TVの音声に合わせて、楽し~く歌うのだ。


ラジオで『万葉集』の歌謡の話を聞いて
昔の孫の姿を思い出した。
『万葉集』に残っている歌(五七調で長々続くのを「長歌」
その終わりの、五七五七七の短いのを「反歌」という)は
天皇がイベントなどで多くの人を集めた時
人々の心を一にするために
大勢が声をそろえて歌ったものだそうだ。

当時、文字はなかったが、
遣唐使で唐の文化を学んが人々が持ち帰った漢字を、使える人がいた。
そういう人が、漢字を当てて書き残していた歌などを
大伴家持らが、編纂して(集めて、整理して、台詞をつけたりして)
『万葉集』ができたとのこと。

キラキラネームは「万葉仮名みたい」と言われる。
その根拠となっている『万葉集』の文字列。
意味を酌量して読むものも、意味は気にせず音だけ借りているものもあり
それらがまぜこぜになって
句読点・改行なしで、筆で書いた続け字で
ぎっちりと連ねてあったらしい。
難解だと思うが、ほかには方法がなかった。
当時の人は、読めたのだろう。

平安時代になって、かな文字ができると
難解な万葉仮名は見向きもされなくなり
50年ほど前の人が書いたものでも、読まれなくなっていた。

なお、「仮名(かな)」は、正式でない仮の文字という意味。
正式な文字は漢字で「真名(まな)」。
「名」は「文字」のこと。


『万葉集』が見直されたのは平安中期。
天皇の命で、宮中の和歌所「梨壺」において
5人の歌人が『万葉集』の写し書き・整理などを行った。

今私たちが、写真で見ることができる
改行や返り点などがついた筆書きの文字の『万葉集』は
そこがスタートとのこと。
(大伴家持が編纂した『万葉集』の元本は、現存しない)


「昔の人は、どうしてそんなことができたんだろう」と思うことがよくある。
器用で記憶力バッチリで、脚力もあって、力持ち。

現代の人々は、便利なものが身近にあって使えたので
そんな能力を保持しておく必要がなくなったからだと思う。

子どもを見ていると
「文明の長~い発達過程を、一気に駆け抜けているのかなあ?」
と思わされて、うれしくなったりもする。
身につけなきゃならないものはいっぱいあるので
必要ないものは振り落としていくのが『成長』なんですね。

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