kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

『万葉集』の時代

2022年11月30日 | 古典聞きかじり
『万葉集』は630年頃から759年までの歌を納めている。
630年は舒明天皇の時代で、都は飛鳥。
759年は奈良時代中期で、都は平城京。
その間約130年。

この130年は大変な時代だった。
唐と新羅の連合軍を相手に戦争をした「白村江の戦い」があり(663年)、
大海の皇子が天皇に取って代わった「壬申の乱」もあった(672年)
クーデター(暴力的手段での政権交代)は何回も起こっていた。
そして、「日本」という国号ができたのもこの時代。

以上は、古典講読「歌と歴史で読む『万葉集』」の、初めの頃の解説。
そのなかで気になった「古代の遷都」を調べた。



私ではまとまらなかったけど、手元にあった『埋もれていた奈良の都』の解説は分かりやすかった。

そこからの抜き書きに、手元のメモを加え、長くはなるが、書きとめます。
<以下のページ>

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古代日本の宮殿と都

2022年11月29日 | 古典聞きかじり
たびたびあった遷都

古代では、天皇の居所は一代ごとに、あるいは一代に数度も移り変わるのが常だった。

斉明天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)は、655年建設。その年末に焼失。
663年からの白村江の戦いで、指揮のため筑紫の朝倉宮に滞在していた斉明天皇は、その地で崩御。
白村江の戦いは大敗。実質的に支配していた中大兄皇子は、
667年、飛鳥から近江大津京に遷都。即位して天智天皇に。
5年半のち、天智天皇は崩御。

天智亡きあと、壬申の乱で権力を掌握した天武天皇は、大和へ戻り、
飛鳥浄御原(あすかきよみはらのみや)を建設。(672年から。20年間)

その天武の妻・持統天皇は694年、藤原京を建設。16年間。

奈良の都:平城京

藤原不比等を中心にした権力は、古い飛鳥の権力から離脱するため、和銅元年(708年)、平城京の建設を宣言。
710年、遷都を敢行。

その後、聖武天皇は平城京を離れ、遷都を繰り返したが、5年後に平城京へ戻ったので、
平城京は、7代70年にわたって、都であり続けた。

新しい政治を目指して平安京へ

奈良時代の終りに即位した桓武天皇は、新しい政治を開始しようと、784年に長岡京へ、そして
794年には平安京へと移動した。

京(みやこ)がなくなった奈良は、東大寺や興福寺の門前町となっていく。

平城京の跡は、親王たちに与えられた。

政治的な要請から建設された都市は、その基盤が失われると消滅する。
京内の道路も、水田になっていった。

「埋もれていた奈良の都」
千年の時を経て保存運動が起こる


埋もれていた「平城京」に目を向けた人が現れたのは、幕末。
某奉行所の役人は、自製の測量車を使って旧都跡を測量し、地図を作製した。

その半世紀後、
奈良県の技師が調査研究し、成果を広めた。

それを知って、平城京の顕彰保存に一生をかけた植木職人がいた。

その後、民間有志により、保存運動が進められ、
戦後の1952年、文化財保護法による特別史跡指定された。
(続きは、いつか…)

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竹は藤にやられる

2022年11月27日 | 古典聞きかじり
またまたご無沙汰でした。
NHKラジオの古典講読、「歌と歴史でたどる『万葉集』」での講師の話が頭から離れず、悩み多き昨今だったので、つい…。

そんな折、
「親戚の竹林で、藤が勢いを増し、藤のツルに絡まれた竹が、まとまって林の外へ倒されそう。
そのツル退治に20日通っているが、まだまだやっつけられない」と困っている話を聞いた。

「まあ、それはお疲れ様です」と言えばいいのに…。
うっかり、「そこは、藤が乗っ取るんですよ…」と言ってしまった。

そう、729年の「長屋王の変」のこと。

長屋王の父は、たけちのみこ(高市皇子)。
長屋王を排斥しようと、館を包囲し、妻子まで自害させ、一族を滅亡させたのは原氏。

天皇の外戚として、権力を固めていくスタートが、これ。

ところで、長屋王の側近だった大伴旅人は、その前年728年の春、大宰帥(だざいのそち)として赴任させられており、都(平城京)から遠く離れた大宰府で、長屋王の滅亡を知った。

その頃の宴での歌。
328)あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
 作者は、大宰府の様子を報告する役目を終え、奈良の京から戻ってきた小野老(おののおゆ)

330)藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
作者は、大宰府の防人を司る大伴四綱(おほとものよつな)
「奈良の都を思ほすや君」と呼びかけられた「君」は大伴旅人であろう。

331)我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ
作者は大伴旅人。それでも都に帰りたい。帰るところは都しかない。

この宴は、すっかり暗い雰囲気。
暗いままでは終わりに出来ないと思われ、置かれた歌。

337)憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ



<付記>
近年になって「長屋王」の名が広く知られたのは、遺跡の発掘による。

1988年1月、平城宮跡の南東隅が長屋王の邸宅跡だと分かった。
出土した多数の木簡を調べた結果を、奈良国立文化財研究所が発表した。
「そごう」のデパート建設にあたり、1986年から発掘調査が行われていた。

・1989年「奈良最大の都市型本格百貨店」として開業した「奈良そごう」は、10年余りで閉店、

・跡を継いだ「イトーヨーカ堂」も業績不振により、閉店

・現在は、観光型ショッピング施設「ミ・ナーラ」になっている。

<最後までお読みいただきありがとうございました>

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洗濯日和

2022年11月18日 | 日記
布団を干した。
以前、どっかの奥さまから、
「人目に触れるところに洗濯物を干すなんて…」と言われたことがあるが
天気がいい日は、ひなたに干したい。

デパートで布団カバーを見ていたら、店員さんから
「布団って、けっこう人目に付くモンですから、きれいなのを…」と
アドバイスされた。
「寝室に入ってくる人なんか、いない」と思ったけど
そうじゃなくて、お布団さまが、お外へお出ましになるのだった(-_-;)

その昔、梅雨明けと言えば「洗濯物で満艦飾のアパート」が映像になったが
今どきの家は、洗濯ものが外からは見えない設計になっている。



昨日の新聞で「PHOTOいまむかし」の写真には驚いた。
訪米を前に、当時の皇太子ご夫妻が、
アメリカ的なライフスタイルを表しているとされた
ひばりが丘団地を訪問した=1960年

の説明がある…。

ご夫妻の下の階では、白い下着(パンツも)が
高々と干されている。
62年前は、これが、フツーどころが、皇太子ご夫妻に見ていただくほどの、
庶民あこがれの住居だったのた😢

あの団地の人々が享受していた「陽の恵み」、
私も、受けずにはいられない\(^_^)/

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昔も、長生きした人はいた

2022年11月13日 | 古典聞きかじり
古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」を聞いて、そう思った。

近くの荒れ地や河原、それから農家の庭先にもセンダンの大木があったりする。
木が薄紫の花で覆われると思うのが、山上憶良が大伴旅人に贈ったこの歌。

妹が見し 楝(あふち)の花は散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに

大宰帥(だざいのそち)に任命され、筑紫に下った旅人は、着任早々に妻を亡くした。
そのつらい気持ちを慰めようと、憶良は、漢文、漢詩、長歌、反歌にまとめ、旅人に捧げた。
その反歌の一つにあるのが、あふち(センダン)の花。

ラジオで聞いた解説を書くと長くなるので、その内容から外れた部分を、少し。

この時、大伴旅人(『万葉集』を編纂したとされる大伴家持の父)は、64歳。
当時としては、高齢での赴任。

対し、筑前守(ちくぜんのかみ)あった山上憶良は、69歳。
41歳で遣唐使の書記官に任命され、唐に渡ったのが出世の糸口となり、
帰国後、中級官人の一番下の位を受け、筑前守に就いていた。

筑紫で旅人との交流を契機に、遣唐使の経験で得た漢籍の知識に基づく膨大な作品を残した。
「子等を思ふ歌」や「貧窮問答歌」などはよく知られる。
亡くなったのは、74歳とされる。

長生きと言えば、藤原定家も。
定家は80歳で亡くなったが、天文学でも引用される日記『明月記』は、56年間の記録。
その定家の話は、また今度。

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読み書きしない人

2022年11月12日 | 日記
私の祖母は、明治の後半生まれだったと思うが、字が書けなかった。
私はそれをずっと不思議に思っていたけれど
書けなくても不自由なく暮らせる社会だったのだ。

(道端の桜の木に座っていたネコ)

現在、スマホもケータイもなしで、不自由なく暮らしている人は、大勢いる。
でもそのうち「ウチのばあちゃん、スマホ持たずに電車に乗ってたのよ、不思議…」と思われるかも。

ずっと前、友人とアメリカへ行った時、友人の知人がドライブに連れて行ってくれた。
彼女は、生まれも育ちもアメリカの日本人。その夫も同じとか。
彼女と私は、プレーリーのフリーウエイを走りながらしゃべりまくった。
「春が来たら、真っ先にこの道を走りたくなるの」とか。
言葉の言い回しのセンスも良かった。
別れるとき、メールアドレスを教えてもらったら
「日本語は読めません…」と言われ、びっくりした。
「英語のメールは書けません」とも言えず、1回は書いたけど、すぐ途切れた。

字は読めるが、黙読が出来ない人もいた。
その昔、隣のオジサンは、新聞を広げると、声に出しながら読んでいた。
早口だったが、斜め読みはできない思う。まあ、その必要はなかったんだろう。
一方で記憶力は抜群で、地元での会食でも、献立・味・値段まで、いくらでも覚えていたと伝説になっている。

子どもの頃の私は、記憶力がいい方だったと思う。
でも後で、「どこ(何)を調べれば分かるか知っていれば、内容まで覚える必要はない」ことが分かった。
自分の記憶より、その方が正確だったし(-_-;)。

さらに近年では、記録はパソコンに残し、調べ物はネットになった。
本もノートも手にしない。
字が多い本は敬遠し、書くのは下手なだけでなく、書けないことも多々。

口は達者なんかなあ? 若い人と話すことが無いから分からない。

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ジャコメッティに行き着くまで

2022年11月11日 | 日記
前に、神戸市立博物館へ行ったことを書いたが
それはジャコメッティの作品を見るためだった。
美術展での人気は、下の写真にあるゴッホ・クレー・ルソーで、
ジャコメッティは目玉ではなかった。
それでも私が彼に惹かれるようになった経緯は、
長年のゆかりがあったので、簡単に記しておきます。


小学生の頃。
実家には祖母がいた。祖母は9人きょうだいの末っ子とか。
実子はなく、長生きしたので、近い身内は姪が1人になっていた。
生まれた家にも甥はいなくて、甥の子が跡を継いでいた。
ある時、法事に呼ばれ、私が付き添いで行った。
みんなが、「おばあさん、おばあさん」丁重にもてなしてくれた。
仏さんには一番近い身内だったのだろう。
一晩泊まり、私は風呂やトイレの手伝いをした。

隣村の家まで2キロ余りの距離を、厚生車(人力車)で行った。
戦時中のガソリン不足で乗用車が使えず、厚生車が復活していたそうだ。
(『新今治市誌』の写真から)


その家は矢内原という名字。東大総長だったタダオさんの話をしていた。
当時の子どもは、大人が話している時は黙っているだけ。
「何それ?」とか「なんで?」とかの口は挟まない。
忠雄さんの戦争中の苦労話も聞き、立派な人だと理解した。
矢内原家のお墓はごく近くで、忠雄さんの家のお墓と同じ墓地だった。

それから10年ほど経って、私は大学生になった。
図書館に入ると、正面に真新しい岩波の『矢内原忠雄全集』がずら~っと並んでいた。
開いてみたが、とても読めなかった。

そして矢内原忠雄の長男の伊作が、パリに留学中、ジャコメッティと親交を深め、
彫刻や絵のモデルになっていたと知ったのは、いつだったか?
シュールレアリスムとか哲学とか美術とか。
あこがれはするものの、理解はできないままだったけど
ジャコメッティ作品は、『伊作の肖像』も含めて見ることができた。

矢内原忠雄は、1961年に68歳で、
ジャコメッティは、1964年に64歳で
矢内原伊作は、1989年に71歳で亡くなっている。
喜びも悲しみも、栄光も苦悩も、いっぱいの生涯だったと思う。

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お医者さんにほめられて

2022年11月10日 | 脳梗塞と後遺症
10月末、かかりつけ医に行った時のこと。
お医者さんは、夫と握手をして
「いいですね、これだけ力があれば」

その次は、立って歩いてみて…と。
両脇には、お医者さんと看護師さん。
2~3歩、足を動かすと、
「いいですね!」

次は質問。
「自分のことは自分で出来ますか?」
「はい!」←いつでも「ハイ」と答えるんだわ( -”-)
すると、
「この調子で過ごせたらいいですね」とほめられた。

家に帰ったら
「ベットで寝てるのが一番いい!!」とのたもうた。
体の状態を「いいですね」とほめられて、嬉しかったのだ。

夫は、自分では「寝たきりだ」と言っている。
それを「何とかしたい」と思わないのは、認知症だからだと、私は思う。
でも黙認追従。だから平和。

ここから話は変わる。

昨今は、家族のことを「認知症だ」と言っても、
「まあ、大変ね」くらいで会話が続く。
ひと昔前なら、凍り付いてしまったのに。

ワタシ高齢者になったので、認知症老人と接することが多くなった。
その人たちは、家族の中で、とても大事にされている。
(弱い人を助けるのは、当たり前だ)

感心しながら帰るのだが、後で、私が思い出すこと。
・ 笑顔はなく、ずっと不機嫌な顔つきだった。
・とんとしゃべらないが、「うるさい」は言ってた。
・何をしてもらっても、「ありがとう」は言わない。
楽しさや嬉しさのセンサーが壊れたんだと思う。
修繕できるだろうか?

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元気でした

2022年11月08日 | 日記


ご無沙汰してましたが、元気です。
忙しくて、パソコンが使えず、ブログが書けなかった次第です。

忙しかった理由:
10月下旬。ハロウィーンでポケモンが続出したため、ポケとりに余念がなかった。
そして11月は、落葉の季節(上の写真)。
立体的に広がった枝に付いている葉っぱ。
それらが下の平面に落ちたらどんな量になるか、ご想像ください。
というわけで、天気のいい日は、せっせと落ち葉を集めて、袋詰め。
その袋は、回収してくれる人がいるので、助かるけど、
まだまだ続きます、12月初めまで、

誕生日があったので、孫がカードをくれた。
「元気で長生きしてね」のメッセージ(-_-;)
10年ほどだったら、みとちゃんから
「あそびにきてね」とかいた手紙をもらったのになぁ...( -_-)

そうそう、7年前に神戸市立博物館へ『チューリヒ美術館展』を見に行った。
カタログの表紙は真っ白で、モンドリアンの絵のカバーが付いていた。
ドイツでは77年間、上下逆さに飾られていると話題になったモンドリアンの絵。

絵は違うけれど、同じモンドリアンの作品、ここに載せます。
本なので傷んでるけど、ご容赦を。
どちらが上でしょうか。
ヒント1:「チューリヒ美術館展」と、英語&ドイツ語で書いてある。
   2:横書きの本なので、表紙は左側に開く。









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