kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

イチョウの黄葉、水戸で

2016年11月23日 | 茨城・水戸

帰ってきて4日経過。何をしてたのかなぁ?
あちこちに電話。
公園の落葉掃除。
ポケモンGOの道具集め。近場ではあまり集まらず、そばから使うので、貯まらない。
それから、食事の支度。

さて、水戸のことも忘れた頃にデジカメを見たら、写真はあまり撮ってなかったです。
天気の良かった11月16日のを並べます。
日の出は、東に位置する太平洋の方角です。冬至が近いので、かなり南寄り。
春分の日頃の写真では、手前のマンションよりはるかに左の方で、これが「東」です。


話を戻して、駅前大通りの「大銀杏」

少し行った先のイチョウ。小学校の校庭の、です。
木の枠は、鳥居じゃなくて、校門です。

水戸市立三ノ丸小学校

こちらは通用門かも。土塀で囲まれた小学校。

門をくぐれば、確かに小学校。

隣接する弘道館(水戸の藩校)から見える三ノ丸小学校。
大木と白壁に囲まれた小学校、いいですね~。

<おしまい>
ご参考までに:弘道館の紹介(茨城県のホームページ)

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遥かな昭和:誕生日に想う

2016年11月02日 | 日記

寒さを感じるようになったので、植木鉢を屋内に取り込む支度をしました。
その中に、寒蘭らしいのが、葉を長く伸ばしているのに気付きました。
花は咲きそうにないですが、葉っぱだけでもきれいです。
「観葉植物」として眺めます(^^♪

太平洋戦争末期の11月2日が、私の誕生日。
当時、米軍は空襲を作戦中。翌年、敗戦までの半年余りには、日本全土のあちこちが空襲され、町は焼け野が原になりました。
同時期に、大地震が続発し、大型台風も襲来しましたが、自然災害の方はあまり知られてないように思えます。

戦中戦後の4大地震

1945年の敗戦前後に、4年連続で1,000名を超える死者を出した4大地震(鳥取、東南海、三河地震、南海)。
戦争中で報道統制がされていたこともあり、詳しいことは分かっていない。

1943(昭和18)年 9月10日 鳥取地震 M7.2 鳥取で最大震度6

1944(昭和19)年12月7日 東南海地震 M7.9 津市で最大震度6、津波来襲

1945(昭和20)年 1月13日 三河地震 M6.8 津市で最大震度5、津波来襲

1946(昭和21)年12月21日 南海地震 M8 最大震度5、津波来襲
      
終戦直後に襲った猛烈台風

気象情報は少なく、防災体制もなかったため、各地で大きな被害を出した。
1945(昭和20)年 9月17日~9月18日 枕崎台風 特に、広島県で2,000名を超える死者・行方不明者。
その3週間後の10月9日~10月13日 阿久根台風 特に、兵庫県で200人を超える死者。
こちらに年表あり

当時の私は2歳そこそこ。聞いてたとしても記憶はありませんが、空襲の残骸が残り、地震で壊れかけた土塀の側で育ちました。

しかし、あの時期、親の世代は、すごかったですよね。
衣食住が不十分な中、ベビーブーム時代が到来。
運動会などで全員が校庭に整列すると、私達より後の学年は、学年ごとに生徒数が増え、体格も大きくなっているのが、歴然と分かったものです。

学校では、汚れた服を着て(洗い替えがない)、体操の時間は裸足でパンツ(ブルーマーもない)、雨が降ったら学校を休む子もいました(傘がない)。
丸坊主の男子は免れたけど、おかっぱの女の子はシラミ退治で、殺虫剤のDDTを頭にかけられました。
回虫や蟯虫の寄生虫がいたので、海人草(かいじんそう)を煮出した虫下しを飲みました。

家では、砂糖がないのでサッカリンやズルチンの甘味料を使い、防腐剤のAF2を使った豆腐や魚肉ソーセージ(常温保存OK)を毎日食べていました。

冬の暖房は、アスベストで包んだ「豆炭あんか」でした。足のふくらはぎあたりに、低温やけどの傷跡を作っている子も見かけました。

これらは20歳までのこと。
その後は高度経済成長もあって、社会は豊かになり、文化・衛生や医療が飛躍的に発展し、元気に生きて来れました。
ありがたく思っています。

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