kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

きれいな石で

2019年04月12日 | 身近な石と宝石

ブレスレットでもなく、ネックレスでもないけど、きれいでしょ♪と言えるものを作ってみました。
石は、中国・広州の「リーワン広場」という石専門の問屋さんで買ってきたものです。
背景がイマイチだったけど、プレゼントしちゃって、もう手もとにないので撮り直しが出来ません。
(このブログを開くとグロテスクな写真が出てくるので「かわいく上書き」しています)

こちら、昨日が小学校の入学式でした。
今日は、新一年生が初めて親の付き添いなしで登下校する日です。
「みまもり隊」の当番だったので、交差点に立ちました。
集団登校なので、1年生は上級生の間にはいって、仲良く歩いて行きました。

帰りは、給食がない1年生だけが、12時頃帰ってきます。
先生が集団の前と後に付き添っていました。
30人以上が、ひと山超えて帰ってくるので、時間がかかります。
先生はまた学校まで帰るの大変ね~と思っていたら、送ってきた先生を回収に来る先生がいるらしい。
(見届けではないけど)

天気がよければ、長い道のりの登下校も楽しいもので、元気な子になると思います。
「見守り隊」も楽しくやれます。
もう一枚、かわいい写真を。(中が空っぽのチョコレートでした)

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パソコンがなかった頃は

2019年04月03日 | 日記
学校での授業やその準備に、パソコンが使われ出したのは、いつ頃だったかしら?

私の頃(50~60年前)幾何の先生は、定規とコンパス・分度器を使って黒板に図を描いていましたが、
叔母の話では、女学校のY先生(70~90年前)は、道具を使うことなく、きれいに円や直線を描いていたそうです。

地理の時間、私が習った時は、「地図帳を見なさい」と指示されていたと思う。
でも、後に出会ったK先生は、アフリカでも東南アジアでも(マイナーな地域でも、ってことです)、フリーハンドで地図帳と同じ図を黒板に描いていました。

器用な人もいたもんだという話ですが、昨日読んだ本の著者・橋田東聲も、現代人なら持ち得ない能力を、身につけていたんだと思いました。
古来からの和歌全般についての知識です。
書物やノートを並べても、頭の中で整理されてないとまとめられませんから。

例えば、山上憶良の『貧窮問答歌』の説明では
「貧乏の歌をよんだものに、後世、橘曙覧、良寛、若山牧水、石川啄木等があるが、山上憶良はその先例である」として、次の和歌を参照にあげています。

橘 曙覧
たのしみはあき米櫃に米いでき今ひと月はよしといふとき
たのしみはまれに魚煮て子ら皆がうましうましと言ひて食ふとき
たのしみは銭なくなりてわびゐるにひとの来りて銭くるるとき

若山牧水
ひきだしの数の多さよ家のうちかき探せども一銭もなし
ゆく水の止まらぬ心持つといえどおりおり濁る貧しきゆえに

石川啄木
はたらけどはたらけどなほ我がくらしらくにならざりじつと手を見る

万葉集の心がこのような流れて伝えられてきた、という説明でしょう。

今ならネットで検索すれば簡単に出てくるし、自分で整理してまとめるのもパソコンを使えば簡単です。
そのような道具も手法もなかった時代に、貧しさも悲しさも強さも喜びも理解した上で歌を選び出し、説明してあるので感心しました。
なお、この原稿が完成したのは、橋田東聲38歳の時でした。
(序文から年齢計算をした)


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50年前の授業、80年前の本

2019年04月02日 | 日記
前置きなしに書きますが、私は、元号が時代を区分するものだとは思いません。
使いたい人、それで喜びたい人が使うのをどうこう言える立場ではありませんが、国家権力から使用を強制されるのには反対の立場です。

干支や星座、血液型などで人柄を判断するのは間違いであるように、生まれや育った元号で人となりを決めつけるのは間違いです。
天皇制を利用したい時の権力者が元号を喧伝しても、自然現象はもちろんのこと、社会や経済の流れだって変わるわけがない。

ふと、私も勉強した頃の日本史の授業を思い出しました。
それは50年以上前のことで、今とはすっかりかわっているはずですが、どうでしょうか。
今も「奈良時代」と呼んでいますよね。

その時代、大宝律令によって律令国家ができました。
戸籍計帳といった文書(もんじょ)が残っています。それを読み、家族や集落の構成を考察する授業だったと思います。
年号は漢字4文字が多かったです。
お経のよう覚えました。「天平・天平感宝・天平勝宝・天平宝字・天平神護・神護景雲・宝亀・天応…」。

奈良時代の7~80年間(気が付けば、私が生きてきた期間と同じ!)なので、西暦に換算することもなく、前後が分かればよかったと思う(たぶん…)。
ネットで調べたら、奈良時代に年号は12ありました。


一方、『万葉集』について。
家にある古い本、発行は昭和8年(86年前)で、橋田東聲著『傑作選 万葉集 評釈』です。
著者はこの本発行の2年前に44歳で急逝しています。つまり100年ほど前の研究に基づくものですから、鵜呑みにしちゃダメでしょうが、分かりやすい文章です。

「選集」なので、「巻之五」「天平2年、大宰府師大伴旅人の宅にて梅花の題詠」については、話題の前書きはなく、「梅花三十二首」も採り上げているのは2首でした。

ところで、この「巻之五」には、次のような教科書で習った歌もあります。
大伴家持
亡妻を嘆く歌
「妹が見しあふちの花はちりぬべし我が泣く涙未だ乾かなくに
(妻が愛でていたあふち(センダン)の花は散りかかっている。それだけ時間がたったのだろう。私の袖にはまだ涙の乾くひまもないのに)

山上憶良
子らを思う歌
長歌は長いので省きます。反歌で思い出してください。
しろがねも黄金も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも

貧窮問答歌
律令体制下の公民の貧窮ぶりと里長(さとおさ)による苛酷な税の取り立ての様子を写実的に歌った歌。こちらも長歌は省きます。
反歌
世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

万葉集の「巻之五」を手にした人たちは、この歌にも心を寄せるでしょうよね。

<蛇足>
万葉集は、後世の歌人だけでなく、一般の人々にも受け入れられ、共感を呼びました。
「子を思う歌」については、次の狂歌もあるんですって。
私は、後半部分を知らなかったわ(^_^;)。

這えば立て立てば歩めの親心我により来る年は忘れて(よみびとしらず)




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