1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、濃霧の中を出港した国鉄の宇高連絡船・紫雲丸が、同じ国鉄の大型貨物船と衝突して沈没しました。
愛媛では、修学旅行中の小学6年生29人が亡くなりました。
私より、学年が1つ上の生徒たちです。
旅行が一般的ではなかった時代、汽車や船は、子どもたちの憧れでした。
高松港から宇高連絡船に乗ったのも、船に乗ってみるためだったそうです。
(岡山へ行くのが目的ではなかった、という意味)
それが、「行ってらっしゃ~い」で出航してすぐ、国鉄の貨物船と衝突し、沈没。
死者166人の大惨事になりました。
紫雲丸はそれまでにも事故を起こしており、これが5度目の事故でした。
沈んだ紫雲丸は引き揚げて復旧し、名前が悪い「しうん丸」は「瀬戸丸」と改称して、再就航。
瀬戸丸と改めた後も衝突事故を起こし、相手の船が沈没しています。
その後の「瀬戸丸」に、私は何度も乗りました。国鉄を利用して四国から出るのは宇高連絡船のルートなので、ごく自然に。
「瀬戸丸は元の紫雲丸だ」ということも、船の案内にあったように思います。
汽車や船に乗るなんて、修学旅行が初めてだった私の子ども時代。
引き揚げて、修理して使い続けた船舶。
時の流れを感じます。
愛媛では、修学旅行中の小学6年生29人が亡くなりました。
私より、学年が1つ上の生徒たちです。
旅行が一般的ではなかった時代、汽車や船は、子どもたちの憧れでした。
高松港から宇高連絡船に乗ったのも、船に乗ってみるためだったそうです。
(岡山へ行くのが目的ではなかった、という意味)
それが、「行ってらっしゃ~い」で出航してすぐ、国鉄の貨物船と衝突し、沈没。
死者166人の大惨事になりました。
紫雲丸はそれまでにも事故を起こしており、これが5度目の事故でした。
沈んだ紫雲丸は引き揚げて復旧し、名前が悪い「しうん丸」は「瀬戸丸」と改称して、再就航。
瀬戸丸と改めた後も衝突事故を起こし、相手の船が沈没しています。
その後の「瀬戸丸」に、私は何度も乗りました。国鉄を利用して四国から出るのは宇高連絡船のルートなので、ごく自然に。
「瀬戸丸は元の紫雲丸だ」ということも、船の案内にあったように思います。
汽車や船に乗るなんて、修学旅行が初めてだった私の子ども時代。
引き揚げて、修理して使い続けた船舶。
時の流れを感じます。