kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

子どもには分からない「病気」

2022年06月30日 | 日記
また、子どもの話。
今度は、隣じゃなく、別の家の子。

庭から、家の中を見た幼稚園児。
「おじいちゃん、どして寝てるの?」
「病気なの」

心配そうな顔で
 園児「お腹が痛いの?」
 ワタシ「んーん(ちがう)」
 「頭が痛いの?」
 「んーん」
 「じゃ、どうして病気なの?」

何と説明したかな?
納得はできなかったみたい。

その子のニーニ(Kくん)のこと。
元気すぎるほど元気なんだけど、
ある朝、学校を休むんだ、と言った。
赤いブツブツが出て、しんどいから。
(神妙な顔をして、教えてくれた)

お医者さんに行ったら、こう言われた。
「アセモだ」

4年前のことになるけど。
パト隊の見守りで丘の上に立ってたら、
太っちょの2年の男子が
泣きべそかいて、息切らして走ってきた。
聞けば、
「付いて来い」って言われたのに
見えなくなったんだって。

「誰に言われたの?」と聞いたら
「Kくん」って。
「あの子は足が速いから、付いてくの無理よ。
休憩して、ゆっくり帰ったら」
と言うと、
泣きながらお茶飲んでたなあ。
おうちはこの先、1㎞近くありそう…。

その太っちょだった子、背が伸びてスリムになった。
先日、「何年生?」と聞いたら
「6年生!!」と胸を張っていた。
「最高学年ね!」と言うと
嬉しそうにうなづいた。

よその子の成長は、はやいねえ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どして? なに? 連発の子

2022年06月27日 | 
日曜日、久しぶりに大阪のマゴ(9・7歳)が来た。
隣の6・4歳姉妹と遊ぶのを、お互い楽しみにしている。

隣の姉妹、特に上の子は「なんで?」「どして?」の連発で、困る。
幼児期はそれを経過して育つのだから、大切なんだけど、
しょうじき、めんどくさい。

ウチのクローバー、四つ葉がよく出る。
「ちょうだい」と言うので
「どうぞ。だけど今は、キレイなのがないの」
 次の言葉は、とうぜん
「どして?」
あんたに、その説明はめんどうなの…。

「押し花にしたのをあげるね」
「オシバナって、なに?」

ちょうど、パパがいたので、説明した。

「電話帳で押し花にしたの」
「電話帳って、なに?」

あんた、スマホしか知らないんでしょ、
その説明もめんどくさいの。

パパは「オトナの話に口を挟むな!」だった。
いつも言われているらしく、馬耳東風でしたな。


子どもどうしでは、すんなりやり過ごしていた。
孫とのままごと遊びで。
アンパンマンの「アイスクリーム屋さんセット」
(マゴが何歳かの誕生日に買ってもらった、古めのもの)

色んなキャラのアイスが定位置にあるのに、
ドキンちゃんの場所のは、見つからない。

6つ娘:「ドキンちゃんのがない」
7つ孫;「ないよ(キッパリ)」
   「どして?」
   「遊んでたら、なくなったの」

 「りょうかい♪」って感じ。
  なるほど、子どもは話が早いんだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暑かった

2022年06月24日 | 日記
今日のパト隊見守り、行けなかった。
2週連続で休んだわけ。

先週は、膝がガクッとなって、立てなかった。
行くとか行かないとか、迷う以前の問題。
でも、しばらくして、気が付いたら、治ってた。

今日は、「リベンジ!」と張り切った。
お昼過ぎまで休養だけ。
家のあちこちで行き倒れして、体力温存。
リポD飲んで、
「さあ、行こう!」で、体が動かない。
登校拒否の小学生って、こんな感じなのね。

床にパタンと寝転がった時、
「左見ても、右見ても、空が見える家が好き」
と言ってた友を思い出した。
いいよねえ、こういう家♪

見守り当番で立っていると
クソ暑い中、100センチそこそこの1年生が
大きなランドしょって、レッスンバッグ持って、
首から水筒ぶら下げて、坂道上って帰ってくる。
汗かいて、「あつ~」と言う。
そんな子らに、会えなくて残念…。

夜のニュースでは、
岡山市で今年初の猛暑日(35℃以上)だった、
6月に猛暑日となるのは2013年以来、9年ぶりとか。
動けなかったわけだ。
私の体、いい温度計が備わってる、と感心しました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉集の歌:吉野よく見よ

2022年06月23日 | 古典聞きかじり
天智天皇は、乙巳の変(いっしのへん)で、蘇我氏を倒して権力をとった天皇、
天武天皇は、壬申の乱で、天智の子(大友皇子)に勝利して即位した天皇です。

天武天皇は、このような皇位継承争いが千年の後まで起こらないよう、
皇子たちに誓わせるため、皇后と、6人の皇子を伴い
765年5月5日、吉野に行幸しました。

その時、天武天皇が詠んだ歌。

よき人の  よしとよく見て  よしと言ひし
吉野よく見よ  よき人よく見

(ワタクシ流口語訳)
よき人(立派な人)が よい所だとよく見て よし(の)と言った
この吉野をよく見なさい、よき人よ〈皇子たちのこと)よく見なさい


「よし」を強調した歌。
『万葉集』が編纂(へんさん)されたのは、仮名がない時代なので、
次にように、六種類の「よし」が記されています。

人乃 見而 常言師 見与 四来

6人の皇子は
草壁(くさかべ)皇子 天武3子、母は天智次女、皇后(持統天皇)
大津(おおつ)皇子  天武2子、母は天智長女、皇子4歳の時、母死去
高市(たけち)皇子  天武長子、母は豪族の娘
河島(かわしま)皇子 母は女官
忍壁(おさかべ)皇子 天智天皇の子
志貴(しき)皇子   天智天皇の子

『日本書紀』のこの件、
「久遠の平和を誓い合った愛情あふれる情景」で「深く感銘を受けた」と
、亀井勝一郎は『大和古寺風物詩』に書いています(昭和17年秋)。

その著書での、『日本書紀』の読みくだし文。



天武天皇が亡くなったのは、この吉野行幸から11年後の686年でした。

しかし、天皇の死の直後(20日ほど)、皇后は、
「大津の皇子が謀反を企てた」として自殺させます。

さらに、都を奈良に移したあとの729年には、
皇位継承の有力候補、長屋王も無実の罪によって滅ぼされます。

長屋王は、父が天武天皇の長子である高市皇子、
母は、天智天皇の娘であり、元明天皇の姉、
妻は、文武・元正天皇の姉妹でした。

これらの「天皇後継争い」については、歴史の本に出ています。

一方、
天武天皇が6人の皇子に、
「6人は違う腹から生まれてきたが、同じ腹から生まれた兄弟のように慈しむ」といって
、襟を開いて、一人一人を抱きしめた。
千年の後まで平和であるよう、血族の争いを憂い、和を願った。

などは、『万葉集』やの解説や、小説・漫画、観光ガイドで私たちが知るところです。
*
*
さて、次の「大友皇子と大伯皇女(おおくのひめみこ)」の放送は、
もっともっと厄介な講義だったので、
『万葉集』の聞きかじりを書くのは、いったん休止します。
(最後までお読みいただき ありがとうございました)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なん、かやあ、ええかなあ?

2022年06月20日 | 日記
買い物は、県道を渡らずに済む近くのスーパーで済ませています。
県道の向こう側には、お客の多いスーパーがあって、ご馳走っぽいものも買えるんだけど、土日は混むので、平日しか行かない。

昨日の日曜日。とうぜん近くのスーパーへ。でも、何を買えばいいか困っていました。
夫は肉・魚を避けているし、豆腐・卵は飽いた。牛乳はある。何にしよう??

店内を2周くらいしてたら、同じように迷ってる顔なじみさんに会いました。
「すぐ食べられる、あっさりしたもの」を探してるんですって。無いのよね、なかなか。

食べ盛りの息子2人がいた頃、どうしてたかな?
カゴいっぱいに食料品を入れてた頃のこと。
ひょっこり知り合いの老人に会いました。店に入って買い物かごを下げたものの、「なん、かやあ、ええかなあ?」と困った様子。
「そのまま食べれるもん、買やあええんよ。煮炊きせんと食べれんもんは、ダメ」と軽~く答えたんだった。

畑を借りた縁で、懇意にしてた方です。先妻を亡くし、再婚していたのに、その人も亡くなって、一人暮らし。
地元なので、堤防や道路沿いの草刈りをしたり、クルマに轢かれたタヌキを片付けたり、用事はいっぱいあったみたい。
周りの人は、「土地もカネもしっかりあるから、困ることは無いんじゃ」言ってたけど。
ご存命なら100は超えてるので、スーパーで出会うことなんかないわけで…。

今どきは、買い物に行ったものの「なん、かやあ、ええかなあ?」と悩む高齢者、けっこう多いんじゃないでしょうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉集の歌と、歴史

2022年06月18日 | 古典聞きかじり
NHKラジオの「古典講読」、この4月からのテーマは
歌と歴史でたどる『万葉集』

興味深く聴いています。
予約録音しているので、寝る前に何度でも聞けます。
(私の睡眠用特効薬)

テーマの「歌と歴史でたどる」部分
私は「歌」よりも「歴史」が気になります。

講師は、その歌がよまれた時代や人間(姻戚)関係の説明に
大部分の時間を使っています。
(それが理解できれば、歌は日本語ですから)

万葉集の時代(6~7世紀頃)の世の中と天皇等の動きは、
「これが『日本書紀』の記述です、と言う風に説明しています。

『日本書紀』は、天武天皇の命でまとめられた「わが国最初の歴史書」。
編者は、天武天皇の皇子のひとり、舎人親王(とねりしんのう)などで
天皇の死(686年)の後、720年に完成。

「変」や「謀反」、「百済出兵」など
激動の社会を生き抜いた天智天皇は、671年12月没。46歳。

翌672年7月に「壬申の乱」を勝ち抜いた大海人皇子(天武天皇)は
安定した基盤つくりを始めた。
天武天皇の死後は、皇后の持統天皇に受け継がれ
この時代は、「天武・持統朝」と呼ばれる。


私が学んだ半世紀以上前は、
戦前の「皇室史観」への反省から
「勝者の書いた歴史書の丸呑みはよくない」とされていたが
文武・持統朝以降では、『日本書紀』記述の信憑性も認められているようだ。

奈良の各地での発掘や研究が進み、
奈良市で、長屋王邸宅跡が見つかったのは、1988年。
わが国最古の銅銭「富本銭」の鋳造跡は、1998年。

私の手元には、『日本書紀』からの項目を
敬語びっしりで説明した本もあり
記述内容の矛盾を説明した本もあり。
あちこち読んだり、60年前を思い出したりもして、混乱中。

マスコミ報道で注目を浴びたニュースでも
その時々で、途切れているもんですね。
歴史の流れとして「和歌」で説明されると
何とも、まとまらないまま、
1週間も10日も過ぎています。

しばらくご無沙汰の経緯説明でした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のパト隊

2022年06月10日 | 日記
毎度のことながら、時間ギリギリに家を出る。
「忘れ物があるんだけど、何かなあ?」
考えてたら、間に合わない。
到着して、気が付いた。
「マスクがない!」

行先ごとに中身の違うバッグが、4個。
マスクは、全部のバッグに入れてるはずなんだけど、
どのポケットを見てもない。
服のポケットにもない。

とりに帰る時間はない。
ハンカチは小さすぎて、結べない。
首に巻いたスポーツタオルで、口を覆う。
(口だけじゃなく、ほっぺ全部、首も覆われた」

小さい子に言われた。
「顔が見えん」
小2の子
「何それ!?」
「マスク忘れたの😞」
「またあ~」
高学年の子
「なんじゃ、そら!」
もう、冗談が通じるので
「銀行強盗してきたの!」と言うと
「帰って110番しとくわ」ですと。

「見守り隊」もこんな調子。
遊びに行ってる気分にもなる

でも来週は、マスク忘れんとこ!
(パト隊用バッグに、2枚入れといた)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若い人が、責任ある仕事を

2022年06月09日 | 日記
近所の家の本箱に「庄司博一追悼集」が見えたので、借りてきました。
故人とゆかりがあったのは、親の代で、
現在の所有者(私と同い年)は、親を通して知ってる位らしかった。

私は故人を知ってました。
長男が幼稚園児だったとき、集合場所の公園が、庄司さん宅の前だった。
子どもの集合時間が、彼が家を出る時間と同じで、
いつも「おはよう」と、声をかけてくれていたのです。

ママ友に「オシャレの先生」がいて、彼女曰く「庄司さんはとってもオシャレ」ですと。
「毎日変えているネクタイ、どれもセンスいい」とか。
私は分からなかったけど、奥さまに聞いてみました。

「とてもオシャレだって、お友だちも感心してますよ」
(奥様と、その程度の話は出来る関係でした)

「国鉄では「ドブネズミ」って言われる制服しか着なかったけど、
今はホテルになったので、ガラッと変わったでしょ。頑張ってるのよ。うふふ」

まあ、そうなんですか…。

そのご主人が急逝したのは1999年で、77歳だった。
とても悲しんだ奥さまが、供養にと作った「追悼集」。
読んで、分かったこと。

岡山へは、1969年、「岡山鉄道管理局長」で赴任。
山陽新幹線「新大阪~岡山間」が開業したのは、1972年3月15日。
そのとても大事な時期のトップだった。

同年の12月、国鉄退職し、岡山ターミナルビル専務取締役に。
今度は、商業ホテルや駅前開発のトップメンバーとしてご活躍。


私の解釈で、とても素晴らしいと思ったことは、大事な仕事をしていた年齢。
山陽新幹線開業の段取り仕事に着いたのは、47歳。
そして、国鉄の定年は50歳。別分野の仕事に就く。


若い人(今の私が感じる)が重要な仕事を担っていたことについて。
香川県庁の設計を、知事さんが丹下健三さんに依頼した話を思い出しました。

「丹下さんは、研究室の学生に、設計図を描け、と言った。
描けなかったら怒って、3日くらい研究室に出てこなかった。
そして、自宅で描いた「平面・立面・断面図」を持ってきた、
それがあの建物だ」
(県庁は1958年竣工、その時、丹下氏45歳。学生は20代?)

それより前、丹下健三氏が「広島平和記念公園」を設計したのは、36歳。

丹下氏だけが特別なのではななく、
昔は、大事な仕事を、若い人がやったんですよね。
今の世も、こうあって欲しいと思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

検査と講習、終了!

2022年06月08日 | 日記
免許の更新手続き前の、「認知機能検査」と「高齢者講習」
済ませました。

天気も良かったので、ピクニック気分でお出かけ♪
ずいぶん早く着いたけど、時間になっても、私の他は1人しか来ません。

「2人だけですか?」と言うと、
「朝早い分も、2人だけでしたよ」と。
(そこまで聞いてない)
「前の時は、おおぜいだったと思うけど…」
「12人しか受け付けません。大勢じゃないですよ」

そうだったかなあ?
前は、長机が何列もあったように思う。
75点以上だったら、次の講習時間が短くて
受講料も少なく済んだので、
前後左右の人と、「やった!」って、喜び合ったんだけど…。

今回の部屋は、個人机。
横4つ、縦に3。12配置してあって、
私たちは前の中・2つの席に着きました。
スクリーンを使って説明する人、補助の人、書類を受け渡しする人で、
係の人が3人いました。
受講生は2人。
仮に1人でも、この体制でやるんでしょうね…。

認知症テストは簡単でした、と言うより
100点満点で36点以上あれば「おそれなし」の判定。
採点結果の通知はなかったです。

高齢者講習では、目がトコトン悪かった。
夜間視力の検査なんか、月食の観察より難しかった。
検査官も呆れてました(-"-)

ま、私がバイクに乗るのは、昼間、近くのスーパーへ買い物に行くだけ。
気を付けます。

ポケモンを置いてきました(*^-^*)



真ん中に、このメタモン♪
小さいけどハートマークが長持ち(^o^)b

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定家も「病持ち」だった

2022年06月07日 | 健康
どこだったか分からないけど、
迷いながら歩き、疲れ果てた夢を見ました。

朝、気が付くと、腰から肩まで、ぺったり鉛みたい。
そんな時は「サロンシップ」を。

気分によっては、朝風呂で血行を良くすることもあるけど
今朝は、そんな気分じゃなかったので、サロンシップ。
腰と背中に1枚ずつ、半分に切って両肩に1枚分。
これで大丈夫o(^o^)o


すっかり忘れ去っていたこのブログ、
不要なのを消していたら、こんな記事がありました。
--------------------
2015年01月19日
「定家も芭蕉も病持ちだった」

「定家」の部分を、書き直して、こちらへ移します。
(「芭蕉」については、後日)
--------------------
藤原定家(1162~1241、80歳没)は、平安末期から鎌倉初期の公家。
『百人一首』や『新古今和歌集』の選者です。

『明月記』と呼ばれる詳細な日記が残っています。
19歳から74歳までの56年間の記録です。
私たちにも読みやすく編集された本があり、
それをながめて感じたこと…。

定家は、80歳まで生きたので、当時としては長命でしたが、
ずっと色々な病気に悩まされていたことが記されています。

体調不良・終夜辛苦・病気不快・脚気不快・風病・
膝股激痛・歩行不能・数日病悩・終夜病悩・咳病悪化・肩病悪化。
前後不覚となる、石淋病と判明(尿路結石らしい、性病ではなく)。
以後体調不良・病気により日記をつけることができず
雑熱・腹痛・念誦を始める
病がちであることを憂う…

年譜からの拾い書き。
面倒になって止めました、50代までで。

対症法は以下の如し。

蛭を飼う・護身を受ける・土光祭を修す・服薬・灸治・湯治。

特に「蛭を飼う」は多いです。
歯にも飼ったりしています。
これが当時の治療法だったんでしょうね。

同じ年譜ですが、60歳以降について、「和歌の仕事」の欄を追いました。

63歳 家中の少女たちに命じて『源氏物語』書写を開始し、校合する
   11月~翌年2月 54帖に外題(げだい)を書く
71歳 『新勅撰和歌集』を編集
73歳 『伊勢物語』書写
   『百人一首』を選んだ(多分)
74歳 『土佐日記』書写
(75歳以降は、記事が現存せず)


当時は印刷がないので、「書写」によって伝えられます。
筆による草書なので写し間違いがあったり、
欠損があったり、前後がごちゃまぜだったりします。

校合(きょうごう)は、2種以上の写本を比べ合わせて、
異同や誤りを正し、前後の順番を整える作業。
そうしてまとめた本の表紙に書くのが、外題(げだい)。

『源氏物語』を定家が校合したのは、
表紙が青かったことから『青表紙』と呼ばれ、
「紫式部の書いたもの」に最も近いとされています。

そんな気の遠くなるような作業を、
老いて故障多き身体で、よくぞやれたものですね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする