十日夜、近所に住む、同じ勤め先の先輩Mさんが亡くなった。享年八十三。
十一日娘さんが電話で知らせてくれた。
以前から悪かった肝臓が、昨年半ばぐらいから症状がひどくなり、足や腹に水が溜まるようになった。
鬱血のため食道に静脈瘤もでき二度ほど大学病院で手術をされたこともある。
お訪ねしていろいろ話をしたいのだが、咳がひどくなり早々に退散しなければならず残念だった。
Mさんは、行けば苦しいながらも歓待してくれるのが、だんだんとお気の毒になり、三ヶ月前の初冬あたりから遠慮した。その間肺に溜まった水を抜きに入退院を繰り返しておられたという。
お宅では酸素吸入器も煩わしそうにして使われなかった。
薬も余り効かないと仰るので、インターネットで調べた漢方の情報など印刷して持っていってあげたりした。
「わからないことがあったら、もっと医者に何でも質問せんとあかんで」とアドバイスしたが、ご本人はもう諦めていたのかも知れない。
在職中は職場も別、鉄工課でハンマーを振っていた。
私は管理部門で、たまに現場に出たとき見かけたことがある程度だった。
昭和五十九年、北神戸の公団住宅に移り住んだとき、Mさんも近所の住宅街に新築をされていた。
高速神戸の地下の一杯飲み屋で顔を合わせたのが付き合いの始まりだった。
定年後はしばらく、高速道路料金所に勤めておられた。
結婚前、奥さんは戦前満洲にいた。親父さんがブリキ職人だったとか。敗戦後家族ともども引き上げてこられた。そんな苦労話も聞かせていただいた。
その奥さんはアルツハイマーでもう何もかも分からなくなって施設に入っている。
私が老母と同居しているころで、症状もよくにていたが、奥さんの方がより進行しているようであった。
高齢のMさんが介護するのは無理がある。
同じような境遇の長門裕之・洋子さん夫婦の話題がよくでた。
歩ける頃は、週一回ぐらいバスに乗って見舞いに行って、ご飯を食べさせてあげると云っておられた。
「車買ったからいつでも乗せていってあげるよ」と云っていたのだが、遠慮深いところがあってその機会はなかった。
昨夜は雨の通夜であったが、一転して今日は春らしい晴れの一日と成った。
Mさんの葬儀が十二時四十五分から葬儀会館で執り行われた。
OB会も退会されていたので、かつての仲間は私を含め三人だけであった。
故郷は岡山県英田郡、Mさんのお姉さん他、姪や甥たちが参列するこぢんまりした葬儀であった。
火葬場は鵯斎場、親族にまじり参列させていただいた。広大な山を開いた鵯斎場、桜が丁度満開を迎えていた。
花好きで温厚なMさんにふさわしいお膳立てであった。
庭は菊や皐などの鉢、草花、季節の花々が何時も咲いていた。
秋には咲き上がった菊の鉢をご近所の施設にも配っておられた。
私も頂いた皐や万両の鉢が今となっては形見になった。
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)
西行法師のこの和歌が思い出された。
一端会館に戻り、精進落としを頂いた。
お姉さんの話では、小さい頃から温和しい子で喧嘩一つしなかったという。
お姉さんは元気で九十歳前後だが今も曲がった腰で畑をなさっている。
折々に収穫された野菜が宅配便でMさん宅に届いた。
私がおすそわけをいただいたことを話すと、そうでしたか・・・とニコニコしている。
Mさんにとっては、姉でもあり母親のような存在だったのかも知れない。
十六時、火葬場に戻りお骨拾いをした。
骨の部位の説明を受けながら皆さんと骨壺に収めさせていただいた。
お骨は故郷のお墓に入るとのことであった。
神戸に移り住んで早二十八年、その頃からひとまわり以上も若い私にお付き合い下さった。
もうビールを片手に四方山話を聞くことはないんだなぁ・・という寂しさ。
亡父の時もそうだったが、「人はな、こうやって死んでいくんだよ」と示されたような有り難い気持ちもある。
ようやく病苦から解放されたお祝いを云ってあげたい気持ちもある。
心の中で御礼を云いながら、その折々を思い出しながら感無量だった。
またあの世でお会いしましょう。
十一日娘さんが電話で知らせてくれた。
以前から悪かった肝臓が、昨年半ばぐらいから症状がひどくなり、足や腹に水が溜まるようになった。
鬱血のため食道に静脈瘤もでき二度ほど大学病院で手術をされたこともある。
お訪ねしていろいろ話をしたいのだが、咳がひどくなり早々に退散しなければならず残念だった。
Mさんは、行けば苦しいながらも歓待してくれるのが、だんだんとお気の毒になり、三ヶ月前の初冬あたりから遠慮した。その間肺に溜まった水を抜きに入退院を繰り返しておられたという。
お宅では酸素吸入器も煩わしそうにして使われなかった。
薬も余り効かないと仰るので、インターネットで調べた漢方の情報など印刷して持っていってあげたりした。
「わからないことがあったら、もっと医者に何でも質問せんとあかんで」とアドバイスしたが、ご本人はもう諦めていたのかも知れない。
在職中は職場も別、鉄工課でハンマーを振っていた。
私は管理部門で、たまに現場に出たとき見かけたことがある程度だった。
昭和五十九年、北神戸の公団住宅に移り住んだとき、Mさんも近所の住宅街に新築をされていた。
高速神戸の地下の一杯飲み屋で顔を合わせたのが付き合いの始まりだった。
定年後はしばらく、高速道路料金所に勤めておられた。
結婚前、奥さんは戦前満洲にいた。親父さんがブリキ職人だったとか。敗戦後家族ともども引き上げてこられた。そんな苦労話も聞かせていただいた。
その奥さんはアルツハイマーでもう何もかも分からなくなって施設に入っている。
私が老母と同居しているころで、症状もよくにていたが、奥さんの方がより進行しているようであった。
高齢のMさんが介護するのは無理がある。
同じような境遇の長門裕之・洋子さん夫婦の話題がよくでた。
歩ける頃は、週一回ぐらいバスに乗って見舞いに行って、ご飯を食べさせてあげると云っておられた。
「車買ったからいつでも乗せていってあげるよ」と云っていたのだが、遠慮深いところがあってその機会はなかった。
昨夜は雨の通夜であったが、一転して今日は春らしい晴れの一日と成った。
Mさんの葬儀が十二時四十五分から葬儀会館で執り行われた。
OB会も退会されていたので、かつての仲間は私を含め三人だけであった。
故郷は岡山県英田郡、Mさんのお姉さん他、姪や甥たちが参列するこぢんまりした葬儀であった。
火葬場は鵯斎場、親族にまじり参列させていただいた。広大な山を開いた鵯斎場、桜が丁度満開を迎えていた。
花好きで温厚なMさんにふさわしいお膳立てであった。
庭は菊や皐などの鉢、草花、季節の花々が何時も咲いていた。
秋には咲き上がった菊の鉢をご近所の施設にも配っておられた。
私も頂いた皐や万両の鉢が今となっては形見になった。
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)
西行法師のこの和歌が思い出された。
一端会館に戻り、精進落としを頂いた。
お姉さんの話では、小さい頃から温和しい子で喧嘩一つしなかったという。
お姉さんは元気で九十歳前後だが今も曲がった腰で畑をなさっている。
折々に収穫された野菜が宅配便でMさん宅に届いた。
私がおすそわけをいただいたことを話すと、そうでしたか・・・とニコニコしている。
Mさんにとっては、姉でもあり母親のような存在だったのかも知れない。
十六時、火葬場に戻りお骨拾いをした。
骨の部位の説明を受けながら皆さんと骨壺に収めさせていただいた。
お骨は故郷のお墓に入るとのことであった。
神戸に移り住んで早二十八年、その頃からひとまわり以上も若い私にお付き合い下さった。
もうビールを片手に四方山話を聞くことはないんだなぁ・・という寂しさ。
亡父の時もそうだったが、「人はな、こうやって死んでいくんだよ」と示されたような有り難い気持ちもある。
ようやく病苦から解放されたお祝いを云ってあげたい気持ちもある。
心の中で御礼を云いながら、その折々を思い出しながら感無量だった。
またあの世でお会いしましょう。