毎日雲や霧が立ち込め、入道雲がわき上がる青空が恋しい。
「昔はよかった」まさに年寄りの愚痴だ。
1964年の五輪のとき、自分は二十歳だった。
三波 春夫さんの「東京五輪音頭」が賑々しくラジオから流れていた。
日本のお家芸「体操」の活躍が思い出される。
当時、市川崑監督の「東京オリンピック」を劇場で見た。今はDVDで偲ぶことが出来る。
鉄棒の大車輪をカメラを横方向にしてシネスコの大画面に映し出していた。
マラソンのアベベ選手の哲学的な横顔が印象深い。
ネットだけを見ているからかも知れず、
コロナのせいもあるかも知れないが、なんともお祭り気分に乏しい。
無観客はしようがない。TV・YouTube五輪で盛り上げてもらいたいものだ。
政界もなんだか覇気がない。
安倍前首相の腹痛で憲法改正は消えてしまった。
加瀬英明氏のメルマガより info@kase-hideaki.co.jp
変転する政権は政権か 21/07/02
(前略)
菅内閣の閣僚は菅首相を支えているが、首相の代理人ではない。
いったい、日本の政権が何によって支えられているのだろうか?
日本の政権は国民的、あるいは大多数のコンセンサス――意見、感情などの一致、総
体的で曖昧な合意によって支えられている。世論といっても論理が欠けているから、総
体的な感情といったほうがよいだろう。
では、日本のコンセンサスはどうやってつくられるのだろうか。
日本民族はしばしば得体が知れないコンセンサスによって、支配されてしまうことが
多い。日本では人々が得体も知れないものに、寄りかかることが起きる。
護憲主義や、国連信仰がそれに当たる。無防備によって平和が保たれるはずがない
し、国連は諸国の国益が激突する場だから、”平和の殿堂”でありえない。
いったん、奇怪なコンセンサスが生まれてしまうと、それによって呪縛されて身動き
できなくなる。
日本ではほんとうは不十分なものであるのに、あたかもそのものに大きな力が備わっ
ており、権威があるかのように、まわりから作りあげることが起こる。戦前の極端な神
国思想や、軍国主義のように、まったく得体に知れないようなものが、コンセンサスと
して権威をもって横行することが多い。
私たち日本人にはどこか無意識に、満場一致を求める心情が働いている。そして、な
ぜか動かないものに対して憧れを持ちやすい。
多くの日本人にとっては、自我の中心が自分のなかにあるよりも、集団のなかにあ
る。
しっかりした自分を確立することがないので、自分を一人ぼっちの人間として意識す
ることがなく、自分が属している集団の部分としてみる。人々が中心を探り合ううち
に、コンセンサスの中心として、得体がしれないものが生まれてしまうことが多い。
人間生活ではあらゆるものが流動しているから、状況に合わせてゆかねばならない。
憲法も手段であるはずなのに、現行憲法を墨守しようとする。
安倍晋三政権は、多くの戦略的決定を行えた。日本における珍しい政権だったといえ
た。