カモメも参加しての争奪戦となりました。
いじめ問題が浮上して久しいが、安倍政権の公約でもある教育改革の抜本的な見直しがかまびすしい。教育委員会制度は中立的な立場を堅持することで、行政とは一線を画する、崩壊の危機にあった教育委員会という独立組織が、学校でのいじめ問題を正面から取り組む中で、責任の所在が不明確であるという、組織と行政とがどのようにして役割区分し、明確にするかの別の問題が浮上した。現在は問題の根源を見極め、新たに責任の所在を明確にするための委員会が立ち上がり、改革案なるものが出されている。
果たしていじめ問題が解消できるか疑問を残すところであるが、この案をベースとした国民的議論が活発化してきている。政治(行政)と教育という関係がどの様にあるべきか、過去の歴史をふまえた、将来に向け、国民の納得のいく方向を目指して欲しい。
大学に在学中、担当教授から、口癖のように、「娑婆はそんなに甘くないぞ!」「全く誰々は教養がないのだから!」と叱咤されたが、教育問題をもう少し突っ込んでみることも必要かと思い、昔の参考書を取りだし、今のご時世に参考になるかと勝手に思い、この問題を取り上げてみた。
明治以来、教育現場で考えられた教育の概念に訓育と陶冶(とうや)がある。訓育とは社会人として必要な心がけや習慣を身につけることで、人格形成に重きを置く考え方である。英語で education (教育の結果開発された素養・教養をいう)、教師のことを educator・teacherといっている。
よく言われていることに教育者は学習者本人の生まれながらにして持っている能力を見極め、必要な能力を引き出し、その発達を支援・助長することを仕事としている。教育者という多くの方に接してきたが、様々な思想や経験をされた先人としての生き様は、大いに影響を受けるもので、自らも反面教師などとレッテルを張られないように生きることを理想としている。(次回へ続きます)