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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

俗説

2014年12月09日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 明確な物証や記録などの根拠が確認されていない伝承や通説など見かけることが多い。その時代に遡ることが困難であるが、後の時代に書き換えられ、物語や脚本として生まれ変わるのも文化なのであろう。時代考証の専門家のスクリーンにかけたとしても、総てを再現することは難しい。童謡や子守歌、子供が歌に併せて遊ぶ遊技の中にも意味不明で伝わってきている事柄も多い。知らなくても良いことの部類にはいるが、現代では考えが及ばない事例は時代背景があやふやなことでの誤解を生じやすい。情感が籠もった歌詞、当時の状景等を唄に託すのは、俳句や、和歌等にも共通している。

 俗説は世間には広く行われてはいるが、学問的には必ずしも信頼できない説のことで、通説は、世間で普通に認められている説である。伝奇という場合もあり、普通では考えられない超現実的な話を題材とし脚色した小説もある。子守唄では、島原地方の子守唄、五木の子守唄が有名である。

 島原は長崎県、南蛮貿易が盛んに行われていた時代には、人減らしの意味もあってであろうか、貧しさ故であってか、女衒(ぜげん 江戸時代に遊女奉公の手引きを行っていた))が介在した唐ゆきさんと呼ばれた人身売買があったようで、このことは山崎豊子氏の小説、映画にもなった、サンダカン八番娼館に詳しく書かれてある。子守唄には悲しい身の上を自らのつぶやきとして、表現されているようで、子供を寝かせるためだけに歌うのではないことを知った。何とも淋しい旋律である。

 作詞されている言葉がまるでまじないのように聞こえてきて、何を意味しているのか良く理解できないでいる数え歌、手遊び唄がある。その代表的なものは「ずいずいずっころばし」であろう。数人が輪になって指を握り、親指と人差し指を上に向け握り拳を内側で対面させる。誰かが鬼になり、この歌を歌いながら人差し指を差し込む。歌い終わったところで鬼が変わる。他愛もない遊びであるが、意味不明な歌詞が出てくる。

 「茶壺に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ、云々」。俗説では、参勤交代や、大名や城主への献上品など身分制度が強かった封建時代に、お茶も献上品で、大切な茶を壺に入れて、恭しく行列を組んだ儀式があったようで、見物人に粗相があってはならないために、子供らを家に匿ったことを意味しているようである。行列が通り過ぎるまで行き会った庶民大衆は、土下座をして通り過ぎるのを待つのは時代劇等で目にしたことがあるが、そこらあたりもはっきりしないところである。抜けるまで待ち、匿った子供は音がしないように静かにしている様子を歌ったのかも知れない。