メジロも四十雀も群れで行動しています。今回もメジロが数羽の集団でした。
お正月のお祝いに欠かせないのがお年玉である。両親や祖父・祖母、親戚の叔父や伯母から子供や孫に送るが、少子化の影響や、核家族化によって、事情は変わる。都市部で生活している家族が実家へ帰省することで、一時的な再会は嘗ての大家族化の時代を彷彿させる。
子供にとっては現金が入る臨時収入で、毎年のこととなると「捕らぬ狸の皮算用」の計算も働く。個人では管理が出来ない金額となれば親の懐も暖まるが、小遣い帳を付けさせる機会でもあり、お金の使い方を学ばせる大切な契機でもある。自分が子供の頃は、親戚周りをしたものである。幸い都内に叔父や伯母が健在であったため、顔を出しに行ったものだが、最近は少子化の影響もあり、兄弟も少なく、親戚の数も少なくなった。
従兄弟同士の付き合いは、親が死亡すると徐々に行き来が少なくなり、疎遠となる。これも時代の変化であるが、親戚が少なくなり、孫も正月の休みの間行くところもなく、淋しい正月を過ごすことを思うと可哀想になる。ついついお年玉の金額をはずむことになる。
最近は物いりが多くなった。お年玉、誕生日祝い、七五三、ピアノやバレーの発表会、武道の昇段試験等合格祝い、入学卒業祝い、クリスマスプレゼント等々、数えるといくつもある。子供や孫の成長の証なのだからお目出度いことに使う出費はハレがましい。高齢に伴い、他界する親類も増え、ケの出費は反対に心が重くなる。
どのようなお年玉の使い方をしたのか思い出せないが、現在のような高額ではなかったことは確かである。社会全体が貧乏であったからかも知れないし、子供の小遣いも少額だったと思う。丁度、孫が何かを頼むとお駄賃をせがむようになってきた。多分、体を動かすことや、お手伝いをすると小遣いがもらえることを知ったようである。
自らも何か手伝うことはないかといってくる。社会の仕組みが分かるチャンスと思い、片付けや、買い物、犬の散歩等を積極的にお願いすることにしているが、露骨すぎるのもどうかと思うので、暫く様子を見ることにしている。他の人の状況を見て人のために何かを尽くすことは無償の精神の涵養にもなることで、ボランティアの基本である。我が国の欠落した思いやりについて、お年玉を契機に、根付いてくれればと独り言を呟く。